最終話「悲歌」32
橋中円香が指定された店に入ると、そこはスナックではあるが、クラブのような雰囲気で、テーブルも個別に別れていて、知らない誰かと偶然の相席になるようなことはない。
繁華街の夜の店も知らないわけではないから、気軽にくぐれる店と敷居が高い店の区別はつく。ここは円香の分相応とは言いがたく、まだ若い野村ユカリが夜の世界の玄人のような感覚なのに驚いてしまうのだ。
「あの、橋中といいますが……」
名乗るだけで案内してもらえる、と聞かされている円香だ。
「百合ちゃん、橋中さんご来店よ。ユカリちゃんのテーブルにご案内して」
こちらへ、といざなわれた先は店の奥。仕切りの向こうに、隔離されたようにひとつだけテーブルがある。店の中からも見えないし、話し声も他人には届かないだろう。
「円香さん、ここでの話はほかのお客に聞かれません。お店の人たちも口が固いですから」
おひとつ作ってもらいましょう、とヒカリは百合に目配せする。
「シングルで良いかしら?」
百合という芸能人のような麗しいホステスがテーブルにつくのに驚く円香だが、ヒカリの前のグラスは烏龍茶のようだ。
「野村さんはお飲みにならないのですか」
「私はお酒はまったくだめなんですよ。ソフトドリンクで失礼しますね」
軽く乾杯をして、烏龍茶に口をつけるヒカリは、うちの子たちがすっかりネイルの魅力にはまってしまいましたよ、と笑みを見せる。
「娘が中学のころを思い出しましたよ。娘は当時、登校拒否をしていたんです」
その話は瑠璃と鋼音にはしていなかった。だが円香は、彼女には話を聞いてもらいたい、そう思ったのだ。
「あのとき私は離婚したばかりで、気持ちのダメージが大きくて、娘が学校でいじめにあっていたことに気づけませんでした。いじめだけでなく、娘は自分に自信が持てなくなって、片親になった喪失感もあって、ネガティブなことばかり考えるようになってしまったんです」
「うちの子たちの話では、とても素敵な娘さんだそうですが?」
「あの子を変えたのはネイルなんです。上の息子が、幸香にはなにか自信を持たせることが必要なんじゃないか、と言い出しまして。メイクでは年齢もありますし、考え詰めた末にネイルなら良いのではないかと。そこでネイルのことを勉強したのです」
「では自分の趣味ではなく、娘さんのためにはじめたネイルだったんですね」
そこからネイリスト並みの技術まで磨いた円香は、才能も備わっていたのだろう。ネイルという小さな輝きを得た幸香は、自分への肯定的な気持ちを取り戻した。円香は娘のみならず、他人へもネイルを施し、喜ばれるようになったそうだ。
「ですが、息子のほうへ振り向くのを忘れてしまいました。あの子だって父親を失ったのは幸香と同じなのに、私は幸香ばかりを見てしまったのです。独立精神が高い子なので、私も息子のほうは大丈夫と思い込んでしまったのです。息子はグレはしませんでしたが、独立精神が高じて、自分のことばかり。家にも寄りつかないで、ひとりでやってます」
「息子さんも、ご自分の家族を持てばわかるでしょう。男の子なんて、勝手なもの。それが当たり前と思えば逆に見守る気持ちになれますよ。男の子は、いずれはお嫁にいく女の子よりも、親思いになっていくものです。かく言う私は男の子と暮らしてませんけどね」
ヒカリは軽く笑って、またひと口、烏龍茶で潤す。
百合は、ユカリちゃんは瑠璃ちゃんと鋼音ちゃんと暮らして母親の気持ちというのがわかったのよね、とこれはヒカリにあてた率直な気持ちだ。
「私もそのうち子どもを持つでしょうけど、橋中さんのように男の子と女の子どちらも産みたいわね。思うように育てられなくても、結果良ければすべて良しにできるのが育児なんだと思うのよ。橋中さんは、息子さんは見守っていけば良さそうですし、娘さんも母親といい関係を築けた。子どもたちも大人になったのですから、あとは橋中さん自身が良い人生を送るだけでは?」
と、百合は豊かな人生経験からそう導いていく。
ヒカリはうんうんとうなずきながら、百合の言葉を聞いている。さすが百合だ。円香のここまでの人生を肯定してくれれば、ヒカリもデータ窃盗のことを聞き出しやすくなる。
「まず確認したいのは、円香さんをセイント・セミコンダクターに入れたのは園田対外課長で合っていますか?」
「そうです。一昨年の十月に、謙次郎さんから園田課長を引き合わされまして、十一月からセイント・セミコンダクターの対外課で仕事をしてもらいたいと」
ライバル会社に出向などありえないから、すぐにスパイだと察しがついた円香だ。だが、好意を寄せる謙次郎に頼まれれば、嫌とは言えない。即答で引き受けたが、そのときは仕事の内容までは聞かされていなかったという。
「輸出品目データを盗んで、川原さんに流すと伝えられたのはいつですか?」
「入社すぐの面談で、園田課長から、謙次郎さんと組んでのことだから、と言われました。データ閲覧は、誰もいない時間で行うとすぐ疑われるから、必ずひとりは社員がいるところで気づかれないようにするようにと」
「データにはロックがなかったのでしょうか?」
「ありましたが、私が操作するときは、誰かが解除した状態でした。誰なのかはわかりません」
もちろん園田課長による解除だろうが、社内の誰もが解除に気づいていない。リモートか、時間を限っての解除プログラムと考えるのが妥当だろう。
ヒカリは、しまった、そうだった、と唇を噛む。円香にクロージングロックをかけられたと嘘を謙次郎に伝えさせたのは、園田課長が公安からの捜査官の可能性が高いと考えてだった。課長といっても外部の人間だから、ロックの生成や解除には関わらせてもらえないとヒカリは踏んでいたのだ。
その後の七海の父との会話でわかっていた。園田はハウエル・エレクトロニクス側に取り込まれただけの、純粋なセイント・セミコンダクター社員なのだ。
謙次郎からクロージングロックのことを聞けば、通常ロックを操作している園田はすぐに嘘だと見破れる。円香が裏切ったと思い至るだろう。
「川原さんへのデータの受け渡しはどのような方法で?」
品目のデータはメモ程度で網羅できるものではない。データのコピーあるいは表の印刷が必要になる。システムの許可のないメモリーやハードディスクはパソコンに認識されないし、かいくぐってもデバイスの接続は記録が残るはずだ。
「画面そのものを動画に撮りました」
胸元にブローチを模した小型カメラをつけていたという。静止画でないから、シャッター音もない。もっとも単純で、もっとも確実な方法だ。
「品目の中に、台湾つまり中国では輸入が禁止あるいは制限されているものがあったはずですが、それがなにかはわかりますか?」
「え……わかりません」
円香では向こうの法律までは無理だろう。だが、これを知るには他にも方法がある。圭吾が残したはずの汚職の証拠だ。
「対外課には八矢圭吾という社員がいました。彼はどのような立場で、どのような役割りを果たしていたのでしょうか?」
「八矢くんは、一度いなくなったので、その前と後では仕事が違っていたんです」
圭吾がセイント・セミコンダクター社に潜入した目的は、台湾企業の侵食からの救済であった。
二度目にきたのは、おそらく駿河専務からの要請で、経済産業省と警視庁によるセイント・セミコンダクター社切り捨て阻止のため。だが、それは数日だけの活動に終わった。
「まず最初の仕事のほうをおしえてください。彼は何をしてきたのか」
「八矢くんは、台湾企業への各品目の輸出数の調整をしていました」
「では、品目のデータも見ることができた?」
「ええ。主に、製造打ち切り品の取り扱い終了の周知や、品切れ品目の輸出再開の公告を台湾に向けて発信していました。でも、その文書は見たことがありません」
なるほどとヒカリは合点する。周知先や公告先から、中国政府とエムジー工業の癒着を導き出したのだろう。もちろん迂回していたはずだが、圭吾は見破ったのだ。
台湾からに置き換えられた資本を元の日本資本に戻す役割りもあったと思われる。数量の調整ができる立場なら、資本に置き換えるには足りない数量にとどめることも可能だ。足りない分を逆に資本を返還して一単位として、少しずつ台湾資本を減らしていく。そんなやり方も可能だろう。月日がかかるし、台湾側の逆襲にもあうだろうが、圭吾ならその対策も考えていたに違いない。
台湾企業がいつの間にか資本を入れていたように、圭吾もいつの間にか台湾資本が細くなっていくように仕向けたのだ。
──圭吾くんが私のためにセイント・セミコンダクターを離れたのは、対台湾企業への道筋が立ったからでもあるんだ。任務も決して中途半端に投げだしてきたわけでない。
しかし、圭吾の策は表向きにはできない。経済産業省は、セイント・セミコンダクター社が台湾に侵食されたままと思い込んでいた。だから、切り捨てにかかる。
駿河専務はその動きを官僚時代のつてで知り、知略を持つ圭吾を呼び戻しにかかった。
「八矢さんが再びセイント・セミコンダクターに戻ってきたとき、人員には動きがあったはずです。千田課長代理はいつからその職に?」
「千田さんは最初に八矢くんが来てからまもなくだったと思います。当時は課長代理ではなく、主任だったのですが」
ヒカリは眉をひそめて聞き返す。
「え? 一昨年の十一月ではなかったのですか?」
「そこは私がセイント・セミコンダクターにきた時期ですから。千田さんはもう対外課にいました」
ヒカリは考え込んでしまう。これでは時系列が合わない。まさか、千田課長代理も公安の潜入捜査官ではないというのか。
「わかりました。数日間だけですが、八矢さんが復帰後にどんなことをしていたか、おしえてください」
「八矢くんは頻繁に外出していました。行き先は誰にも告げていなかったと思います。帰社後はいろんなところに電話をしていました」
「電話の内容はわからないでしょうが、日本語で話していましたか?」
「日本語でしたが、たまに英語で話していたこともありました」
外出先はヒカリにも想像がつく。碧泉院流親占教会だろう。圭吾が復帰した理由には、親占教会の捜査もあったのだ。
だが、電話の相手は何者だろうか。親占教会の事務局長?
いや、その人だけなわけがない。ヒカリは思い当たる。そうだ、圭吾は警察を辞めていなかった可能性があるのだ。
──今泉公安部長。あるいは富樫総務部長。
そして英語で話す相手とは。大手の台湾企業なら中国語でなくても英語が通じる。
「円香さん、ありがとうございました。私の調べに大いに役立ちました。ここからは円香さんと幸香さんのネイルサロンのことを話しましょう」
「ユカリちゃん。ここからは私も話に混ざって良いかしら?」
百合がおかわりの烏龍茶を運んできて、にっこり話しかけてくる。
円香が深々とお辞儀をして、店を出ていく。
円香の話の後でも謎が残った。
「ヒカリちゃん、セイント・セミコンダクターの小林常務、一見蚊帳の外みたいだけど、例のクロージングロックをかけるとしたら、彼なんじゃないかしら」
百合はヒカリが意識を取り戻したころに、小林常務を新小岩駅近くで待ち伏せたことがある。そのとき、塚原望に尾行させ、誰かに会うか連絡をとるか、その様子を見張らせたのだ。
すると小林常務は帰宅の途をとらず、またセイント・セミコンダクター社に戻っていったという。
「小林常務が戻ったのは、ヒカリちゃんが味方であることを直接伝える必要があったからよ。その相手は……」
「百合姉さん。逆かもしれません。私がセイント・セミコンダクターの味方、つまり自分たちの敵であることを伝えるためだったのかも」
ヒカリは、千田課長代理が圭吾の代わりにやってきた公安の捜査官でないなら、味方と敵の区分けを最初から考え直さないといけない、そう痛感する。
ヒカリはすぐに携帯電話を手に取る。
「門脇さん、私です。黒潮組の会田組長さんをお願いできますか」
ヒカリはまたたく間に、善後策を練りまとめるのだ。




