↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
193/213

最終話「悲歌」31

 日曜日になる。

 カズサビューティーグループの広告に、七海の痩身施術のビフォーアフターを採用することが内定した。

 未成年の七海なので、保護者の許諾が必要となる。ヒカリは光龍に扮して新宿クリニックの松井事務長に会い、契約の書類を預かってきている。

 七海の父に同席願って、契約を交わす役を引き受けたのだ。

「無理なダイエットとはわけが違います。うちの鋼音が立案した痩身施術で、専門医師からもお墨付きをもらった計画です。七海さんの施術を許可してくださいますか」

 七海の父も母も標準的な体格で、同じものを食べているのに娘だけこんなに太って育ったのはなぜなのか、と気に病んでいたのだ。

「お父さん。痩せるのは私の夢だったと知ってるでしょ? 無理なく痩せられて、しかも費用は全部カズサビューティーの経費なの。こんなチャンス、もうこないよ」

 七海の父も、カズサビューティーグループの知名度の高さは知っている。悪い噂もないし、娘の親友ヒカリと関係が深いといい、そして同じく親友で同じ高校の栞がCM出演する縁もある。

 契約書に判を押されると、仏事のように大事に押しいただいて、封をするヒカリだ。

 書類やカズサビューティーグループの社判をカバンにしまうと、

「お父さまとははじめてお目にかかりますけど、長く台湾にいらしたそうですね」

 話を七海の父の仕事に振っていく。


 七海の父は大学で中国語を専攻し、その後に台湾の大学に留学までしたので、言葉だけでなく、台湾の文化も暮らしも、そして地理やビジネス構造にも通じていた。日本企業ではなく台湾のエムジー工業に就職したのも、台湾の文化と物事のとらえ方考え方に染まったからだ。

「ええ。最初はずっと台湾企業の日本法人にいまして、六、七年ほど前にいっとき現地法人に籍を移しましたが、昨年また日本法人に戻ってきました」

 それは単身赴任で台湾に渡っていたということだ。日本法人在籍中は日本住まいだから、結婚も日本でし、七海も日本で生まれたという。

「七海ちゃん、六年間も寂しかっただろうに、お父さまが戻ってこられて良かったね。彼のことは?」

「うん。彼のことも認めてもらえて、男同士で話したりしてて。お父さんの影響で、台湾の大学に行こうかな、なんて言ってるんだよ。もし本当になったら、ついていきたいの」

 東原公園での件は話していないのだろう。その必要もない。学校にも処分をしないよう、吉川巡査部長と浜田巡査部長を伴ってヒカリが話をつけた経緯がある。彼も七海のことを大事にしてくれている。

「それは、応援するけど、寂しくなるわね」

 台湾の大学全般、海外からの推薦入学の枠が広い。台湾企業に勤める日本人の七海の父が推せば、実現するであろう。


「お父さまはさぞかし大変なお仕事をされているのでしょうね。現地法人に出向かれたということは、現地から日本企業と折衝されてきたのですね」

 七海の父が現地法人に招聘されたのは、もちろん日本企業との取り引きを強化したい思惑ゆえだろう。その強化がどのような意味を持つのかだ。

「やはり日本人同士という意識は、お互いに相手の役に立ってあげようという優遇の気持ちを生みますから」

 このあたり、すっかり台湾の贔屓文化に馴染んでいるとわかる。そして主な取引先企業の名をあげていく。

「セイント・セミコンダクターやハウエル・エレクトロニクス、どちらも半導体や記憶媒体の有名企業じゃないですか。それらを競争させて有利な売り方をするわけですね」

「ハハ。これは驚いた、ヒカリさんはビジネスをご存じだ」

「ビジネスにはとっても興味があるんです。障りのない程度で、どんなお仕事なのか聞かせていただけると勉強になります」

 七海の父に関心を持たせ、うまいこと話の向きを動かすヒカリなのである。



「じゃあ、売価は向こうからの価格提示ではなく、こちらから購入したい価格を示すんですか。買う方の言い値で取り引きなんて、びっくりです」

 ヒカリが先ほど、競争させて有利な売り方をする、と言ったが、エムジー工業は輸入する側、つまり買い手であることはもちろんわかっている。これは七海の父に、間違いを正させるのに乗じて、取り引きの実際を聞き出すための駆け引きなのだ。

 だが七海の父はそこを訂正してこない。有利な売り方とはうまいことをいうね、とにこやかに感心するのだ。

「いやまさか。言い値ということはないよ。向こうから、もっと高く買ってくれないかと額を引き上げてくるので、妥協額を探るんですよ。お互いにこれで良しとなれば契約成立でね」

「そうなんですかあ。反対かと思ってました。売る側から売りたい金額を出して、買う側は値切るイメージでした」

 そうなのだ。ヒカリは感心する素振りをしながらかなり驚かされたのだ。

 通常は売る側が、単価はいくら、注文の一単位は何個、と提示する。買う側は、もっと安く、あるいは、たくさん買うから単価を下げて欲しい、と交渉をする。

 なのにエムジー工業との取り引きでは、まずエムジー側から、これを一個あたりいくらで買う、と提示するのだという。相手がセイント・セミコンダクター社なら、もう少し高く買ってくれないか、と交渉をしてくる。

 エムジー工業は同時にハウエル・エレクトロニクス社とも同性能のものを同じように交渉していく。

 同性能なら、安い価格を提示したほうと契約するというのだ。

 これでは、エムジー工業が、買ってやる、という強い立場ということになる。力関係としておかしい。

「もちろん売買は力関係があるから、ヒカリさんのイメージどおりのことも多いですよ。エムジー工業という会社は、台湾企業の中でも日本企業との取り引き関係が深いので、最終的には日本企業が価格を決める形にしていてね。まあ、こちらの利益を確保しながら花を持たせるというか」

 七海の父は台湾の思考だ。話しぶりから、力関係はエムジー工業のほうがかなり上らしい。セイント・セミコンダクター社もハウエル・エレクトロニクス社も、エムジー工業側から出された価格に、それぞれ上乗せをして、安い金額のほうが、いわば販売権を得る形だ。

 エムジー工業が提示してくる額は、本来の単価より相当に低いのだろう。これに上乗せをしていくというのは、結果的にかなり値切った金額で決着するのと同じだ。

 ときには、本来価格よりも高値にして契約をまとめる駆け引きもつかう。七海の父のいう、相手に花を持たせる、とはそういう意味だろう。


「じゃ、日本の会社の担当者さんとの話し合いからなんですね。これはすごい交渉術が必要みたい……私じゃ無理ですね」

「そういうテクニックは、会社に入るとおそわりますよ。みんなはじめはなにも持ち合わせてはいないんですから」

「さっきお話に出た、セイント・セミコンダクターとかハウエル・エレクトロニクスとか、有名な会社ですから、あちらの担当者も交渉ごとは有能ですよね。そんな相手と渡り合うのですか……ウーン」

 頭を抱える仕草まで見せるヒカリである。むろん演技だ。

「まあまあ。実はある程度の決まりごとがあって、セイント・セミコンダクターには各品目の取り引き量と単価目安、ハウエル・エレクトロニクスにも同じようにそれぞれの目安があって、あとはどれだけ色をつけるかの話だけのことも多い。これは取り引き先担当者とどれだけ親密かによるのだけど。だから、身内贔屓なこともあって、でもそれもビジネス関係作りには大切なんですよ。頭の良さそうなヒカリさんでも難しいかな?」

 ヒカリは肝心なことに気づいている。このやり方では、セイント・セミコンダクター社もハウエル・エレクトロニクス社も、互いにライバルがいくらを提示したのかを知ることができない。

 つまり、金額ではライバルを制していても、高い額を出していたライバルが契約を取っているかもしれないのだ。

 たが、ヒカリはそれを口には出さない。

 七海の父がいう身内贔屓。取引実績をみれば、セイント・セミコンダクター社のことなのは自明のことだ。

「難しいです。単に取り引きだけでなく、会社同士の関係とか、それを良くしていくための条件とかも含めて考えなければならない、てことですよね」

「やはりヒカリさんは頭がいい。表向きではないことにも想像がゆき届くとは。あまり言いたくはないけど、ひと言でいえば政治的な駆け引きになるわけです」

「それをお父さまはされていらしてるんですね。尊敬します」

 娘の友だちに尊敬されるとは、父親としてはこの上ない自慢になる。

 ヒカリは七海の父にすっかり気に入られたのである。



 ヒカリにはこれだけ聞き出せれば十分だ。

 予想した以上の収穫である。

 帰宅したあと、整理して考えてみる。

 七海の父がエムジー工業社員であるかは当初確信がなかったが、調べてみると、セイント・セミコンダクターとハウエル・エレクトロニクス両社とも取り引きがある台湾企業は、エムジー工業だけだった。

 七海の父に会えるよう、痩身施術の保護者許諾に便乗して家を訪れたのは、それがわかったからだ。

 七海の父は取り引きの直接の交渉役。誠実学園高校相撲部の祝勝会で、星野桃が七海から聞いた話だから間違いないと見る。

 ハウエル・エレクトロニクス社の川原、セイント・セミコンダクター社の園田が、その交渉相手なのである。


 エムジー工業とはどんな会社なのか。貿易一本で台湾有数の企業に名を連ねた社歴という。

 貿易は自社と相手企業だけで成り立つものではない。現在の台湾なら中国政府の介在を受けるだろう。

 ヒカリでも台湾経済の自由競争と官支配の二重構造はいくつもの国際経済サイトで読みわかっている。押野勇気もアジア全般の知識があるので、彼から台湾企業と中国本土との関係も聞けていた。

 台湾企業には、中国への帰属前から、日本の経済産業省にあたる中国本土の商務部の役人と癒着して、輸出入禁止品目または制限品目の密輸、貨物便の入国にも便宜を図ってもらっていたところがある。本土にも既得権益があるから、これは帰属後も途切れていない。

 ヒカリはエムジー工業もそうした企業のひとつだと見る。単なる賄賂ならお家芸だろうが、官民一体の汚職は違法性があるからこそ、通常とは異なる商体が必要になる。

 景気や為替に左右されずに、一定の額を商務部役人に渡すには、買い手のエムジー工業が価格を支配しなければならない。こんなことは、貿易そのものが違法でなければ起こらない。品目の中に、禁止や制限を受けているものがあるのだ。

 中国の法律では、たとえ禁止品目でも輸出した側は罪に問われない。罰せられるのは輸入したほうだ。

 圭吾が握ったエムジー工業の弱みはこれだろう。


 この弱みを使って圭吾は、セイント・セミコンダクター社が台湾企業へ技術漏洩した対価を、エムジー工業への売り上げにつけることで還流させていた。漏洩とは無関係のエムジー工業としては、中国本土との汚職が知られてなければ当然断りたいことだったはずだ。

 圭吾が急死し、これで脅しのように還流させられることもなくなるとホッとしたのもつかの間、圭吾は汚職の証拠の帳簿や文書でも遺していたのだろう、セイント・セミコンダクター社は翌月には還流の再開を求めて、それを飲まざるを得なくなった。

 だが、いつまでもそんなことをつづけたくはない。状況脱出のために、セイント・セミコンダクター社を潰すか、漏洩先の台湾企業の支配下に置くか、いずれかの手を打つことにした。

 まず資本を水面下で漏洩先の台湾企業のものに置き換えさせるために、輸出品目を知り、対価の代わりに資本の一部を得ることにした。それができるのは、品目の中に法規制を受けるはずのものがあるからだ。

 エムジー工業が目をつけたのは、セイント・セミコンダクター社のライバル、ハウエル・エレクトロニクス社。受注を増やすことを条件に、ハウエル・エレクトロニクス社の橋中円香を送り込ませて、情報を川原謙次郎に流させる。情報はハウエルからエムジー工業を経由し、どこぞの台湾企業へと渡り、セイント・セミコンダクター社は資本を侵食される不利な取り引きとなった展開だ。違法を承知で取り引きをするかわりに、対価は現金ではなく資本の一部を充てるよう要求されたと思われる。台湾企業から、エムジー工業に取り引きを引き上げてもらい、ハウエル・エレクトロニクス社との取り引きに切り替えるよう談合すると言われれば、飲まざるを得ない。


 セイント・セミコンダクター社の園田対外課長が円香を連れてきたとわかっている。ということは、園田課長はハウエル側に買収でもされて、手の者として動いたのだろう。だが取り引きまでは売らなかった。ハウエル側に業績で負ければ、その責任を取るのは自分なのだから。

 そうなると、警視庁からきた圭吾の後任捜査官は園田ではない。園田だったら、セイント・セミコンダクター社の輸出業績がハウエル・エレクトロニクス社に負ければ、それが潜入の任務でもあるのだからなんら差し支えない。

 おのずと消去法で潜入捜査官は千田課長代理に間違いないとわかる。

 セイント・セミコンダクター社は、台湾企業、エムジー工業、ハウエル・エレクトロニクス社、経済産業省、警視庁の利害の一致に包囲されていたのだ。


 セイント・セミコンダクター社は、気づいたときには台湾資本が増え、台湾企業から役員も迎えなければならない事態となる。セイント・セミコンダクター社が開発した技術も、台湾役員の主導だろうが台湾企業に渡り、漏洩される。台湾企業の目的はもちろんはじめから日本技術だったのだろう。

 経済産業省が台湾企業同然となったセイント・セミコンダクター社を切り捨てる方向になったのは、その事実が判明したあとだ。

 七海の父は日本法人に籍を戻して、セイント・セミコンダクター社の園田、ハウエル・エレクトロニクス社の川原謙次郎を競争させていたわけだが、還流分を抜きにしても、セイント・セミコンダクター社が有利な取り引きを進めている。これは七海の父とセイント・セミコンダクター社との間に、それこそ親密な関係があるということだ。このあたりの事情は、駿河専務なら知っているかも知れない。

 そしてエムジー工業が抱える汚職案件のことは、七海の父は関与していないだろう。知っているならば、エムジー工業上層にとって目の上のたんこぶ、セイント・セミコンダクター社に利するようなことはしないはずだ。


 圭吾が殺害される理由に該当する動機を考えるなら、まずひとつは、圭吾がいなくなることで重荷が下ろせるエムジー工業にある。その意向を受けた何者かの手による殺人という線だ。

 セイント・セミコンダクター社を潰したい経済産業省の一派も、セイント・セミコンダクター社に利をもたらす人間を消したい。

 ここでも両者の利害が一致している。協力はあり得る話だ。

 だが引っかかることは残る。

 圭吾殺害を意図したのはエムジー工業のほうだとしたら。ここでわからないのは、圭吾が死ぬと本土との癒着という汚職案件が隠蔽されたままにできると、エムジー工業は本気で考えていたのかだ。それでは短絡的だし、見込みが甘すぎるのではないか。実際、圭吾は癒着の証拠を書き残して、セイント・セミコンダクター社はそれをネタにいまだに還流を受けている。

 経済産業省の意図なら、警視庁の公安部か総務部に相談して協力を仰ぐだろう。ひとつ鍵になるのは、経済産業省は圭吾の前歴が警視庁公安部からの潜入捜査官であったことを知っていたかだ。知っていたなら、圭吾を消すと経済産業省が疑われることをおそれて要請すらすまい。知らずに一般人のつもりで要請したなら、少なくとも富樫総務部長は断固拒否したはずだ。だが今泉公安部長なら──。



 七海の父との会話で、可能性が絞れてきた。

 背景はほぼ浮かんでいる。

 あと数日で、セイント・セミコンダクターには決着をつける。

 任侠の元締めが、葛飾区本拠の元黒潮組をヒカリの手足として使わせてくれるという。いよいよ動いてもらうときがきた。

 そして輸出品目のクロージングロックを仕掛ける。パスワードの作成を誰が行うのか。

 千田課長代理への攻め方次第で、全方丸く収めることができそうだ。

 そのあとは、碧泉院流親占教会──本丸だ。ヒカリの心は、もう、師である葛原麗華へ向いている。

 ──先生も私に隠していることがあるはずだわ。きっと、私のことを思って……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。