最終話「悲歌」30
橋中円香のデータ窃盗は、産業スパイとまでは言わないが、経済犯罪の中でも重罪だ。吉川巡査部長に協力を求めれば、彼の立場上、摘発して警視庁と公正取引委員会に渡さねばならなくなる。だから今回はヒカリひとりで収めていかねばならない。
そのために、ヒカリは警視庁からの潜入捜査官が園田対外課長なのかを早急に確かめたい。押野勇気が調べてくれてはいるが、やはり外部からでは相当に時間がかかると伝えられている。ほかの証言から推測できないものだろうか。
そして、円香からは圭吾のセイント・セミコンダクター社での知る限りの動きを聞き出す。特に対エムジー工業とのやりとりは、圭吾がどのようなイニシアティブを握っていたのかを知る鍵になる。
円香が、一杯食わされた、と言っていたのは、エムジー工業からの還流分付け替えを売り上げに偽装していたことだとヒカリは読んでいる。
「よくきてくれたわね。お母さんから、女の子のたしなみだからと頼まれたから、ふたりにお似合いのネイルをデザインするわね」
瑠璃も鋼音も、ヒカリからメールを受け取り、円香から誘いを受けるから行ってくるようにと指示されている。同時に、円香の娘と仲良くなってくるように、とも書かれていた。
娘同士なら歳が少し離れても気の合う話題もある。そしてヒカリからは具体的な会話の持っていき方も指示があった。この指示で、ヒカリが自分たちを無理を承知で娘に仕立てたのは、このためだったかとわかるのである。
円香の娘、幸香は髪もきれいにライトブラウンに染め上げて、穏やかな化粧で品のある女子大生という印象だ。今のネイルもけばけばしさのない艶立ちだ。
「これがね、私が中二のときにはじめてしてみたネイルなんだよ」
画像にある指は、当時の幸香のものだ。
「じゃあ、素敵な幸香さんにあやかって、最初にそれをおしえてください」
円香は、娘の初ネイルと同じ施しをするのが懐かしく、あの時を思い出すわ、と目を細める。
「ネイルの入れ方をおしえてあげる約束なのよ。瑠璃ちゃんが鋼音ちゃんを、鋼音ちゃんが瑠璃ちゃんのネイルをしてあげたらいいわ。私と幸香とで手順とジェルの盛りかた、刷毛の滑らせかたをおしえるから」
こうやって、力抜いて、ゆっくりと、ここは手早く、と手を添えてやり方をおしえていくと、まず瑠璃がそのとおりに難なく塗ってしまうのである。
「え? 一回で覚えちゃうの?」
脱毛施術の細かい技術指導を受けた瑠璃には、ネイルのコツも難しくない。写真の腕も上げ、光の当たり方を利用する見せ方も知っている。増本明美の背の刺青からは、二次元の画に立体を感じさせる陰影の感銘を深く受けている。素養は十分なのだ。
さらに円香は驚いてしまうのである。鋼音も三本目の指からは瑠璃と遜色ない出来で塗ってしまうのである。工務の経験から精確な塗りを目で覚えてしまうのだ。ものづくりで人を喜ばせることを覚えた鋼音には、つくることへの論理的組み立てと集中力の高さがある。
幸香も、今の子はなんでもできちゃうのよ、私なんか四回かかったのに、とこちらも驚き半分、感心半分だ。
瑠璃は鋼音が施したネイルを嬉しそうに見つめながら、
──鋼音はどんどん頭が良くなっていく。いや、どんどん本来の姿に戻っていってるんだ。
心の中では不安になってくる。
──喜ぶべきことなのに、なんでだろう。
ヒカリが鋼音の知能の回復のことをちゃんと説明してくれないからだ。大切な親友、鋼音。鋼音は自分のことを全部わかってくれて、自分の心を守ってくれている。なのに、自分は鋼音のことをなにも知らない。
──聞かなきゃいけない。知らなければいけない。ヒカリさんに今度こそおしえてもらう、鋼音のすべてを。そして私が守るんだ。
「瑠璃ちゃん、どうかした?」
幸香が急に黙りこくってしまった瑠璃を心配そうにのぞきこんでくる。
「ううん。感激しちゃったんです」
それも本当だ。ネイルをしてみるだけで気持ちが高揚してくる。美歌の結婚式で本格的な化粧を施してもらったとき、大人に近づいた気はしたものの、自分が自分でないような不思議な気持ちだった。
だがネイルはそうではなく、大人の感じはしない。それは、十四歳の自分がそのまま輝くような。例えれば宝石を身につけたような。
「すごいわ、瑠璃ちゃん。ネイルのもつ力がどんなに素晴らしいものなのか、こんなにわかっているはずなのに、私はずっと言葉にできなかったの。それを……」
円香は瑠璃の手をとり、目を潤ませている。幸香もだ。瑠璃は鋼音の手も自分の手に重ねる。
「鋼音のしてくれたネイルが、私の気持ちを飾り気なしの言葉にして浮かべてくれたんです」
「えへへ。そう言われると照れるなぁ。瑠璃の純粋な心がみんなに見えるようにって思って塗ったんだ」
鋼音がはにかむと、円香は強く感銘を受けずにはいられない。
「あなたたちは本当の姉妹ではないのでしょう? でも、双子みたい……ううん、もっと強い絆がありそう」
「血のつながりとか関係ないです。大切な親友だから、きょうだい以上に大きな存在なんです」
「うちには幸香の上に男の子がいるんだけど、本当に勝手でね。自分のことばかりで、家に寄りつかなくて顔すら出しもしない。きょうだいといっても、幸香とも全然でね。だから、あなたたちを見て、義兄弟の契り、という言葉を思い出したわ。本当の兄弟よりも深くて強い絆で結ばれるのよね」
幸香は羨ましそうな目で、瑠璃と鋼音を見つめる。
「義兄弟か……」
幸香も手を重ねる。しっかり両手で、みんなの手を包み込むように。円香の手によるネイルが目にはいる。自分もこの子たちの歳に、母に施してもらった、その懐かしい日が蘇ってくる。
「なんか……妹ができたみたい」
四人がニコリと笑顔になり、四人家族のような気持ちが共有されるのだ。瑠璃も鋼音も、円香に対してこんなに近しい感情を持つとは、思ってもいなかったのに。
円香が次にマーブル系の模様のつけかたをおしえると、これもふたりはあっさりとものにしてしまう。
最後に円香が選んだ、瑠璃と鋼音それぞれに似合うと目利きしたネイルデザイン、これは私にやらせてと、円香は楽しそうにジェルを塗っていく。
まだ子どもの瑠璃と鋼音にはプッシャーは使わず、本来の爪をネイルファイルで整えると、ミドルティーンらしい控えめな主張をもつネイルができあがる。
もう瑠璃も、ヒカリからの指示できていることを忘れてしまうほど、高い完成度に感激を表にする。鋼音も、もう落としたくない、とうっとりの目だ。
「橋中さん、ネイルサロン作ってくださいよ。絶対はやりますよ」
すっかり円香のネイルのファンになってしまった瑠璃と鋼音は、応援したくてたまらない。
「そうそう、私も前から思ってたの! ネイルのお店、お母さんとやりたいなって」
幸香も我が意を得たりで瑠璃の肩に寄せてくる。
「私たちもお手伝いしたいなあ。うちのお母さんに相談してみよう。きっといいアイデア出してくれるよ」
「私たちのお母さん、頼りになりますよ!」
ふたりともネイルが楽しみでしょうがなくなる。ヒカリが自分たちを円香たちに関わらせたのは、ヒカリの捜査に利用することになる人をも、幸せに近づけたい気持ちがあるからなのだろう。円香はセイント・セミコンダクターのデータを盗んだが、罪を憎んでも、人は憎まない。それがヒカリなのだと瑠璃は思う。
「ええ。頼りになるのは間違いなさそう」
子どもたちの言葉に、円香もその気になっていくのである。
警視庁公安部の今泉部長は、就任後に潜入捜査員を八人連れてきている。そのうち七人が潜入に入っているが、前任の神林部長時代からの捜査官も当然残っている。
すでに神林元部長は定年退職しているが、人望が厚く、警視庁を離れてもなにかと関わり、影響力を保持している。子飼いの潜入捜査官でもエース格だった入山は、表向き殉職して民間に転じて、次点の横溝は長期潜入の専門。若手のホープだった八矢は、今はこの世にいない。
残り数名の捜査官は凡庸とはいわないが、この三人よりは能力としては劣る。
だから既存の人員は当てにしなかった。といって、自分が連れてきた捜査官たちも、特に秀でているとはいえない。
今セイント・セミコンダクター社に潜入に出している捜査官は、一番マシではあるが、富樫総務部長も物足りなさそうな顔を隠さない。それを横目にして今泉公安部長は、
「経産省も回りくどいことをせずに、セイント・セミコンダクターなど事業停止に追い込めばすぐに破綻だろう」
と、いらつき気味の口調になる。それは策略自体が苦手だと告白しているようなものだ。今泉部長は元来が武闘派なのだ。
富樫総務部長はそんな今泉部長だとわかっているから、強くはたしなめない。
「それでは国費を投じて支援したのが無駄遣いと誹りを受ける。破綻させずに切り捨てるのが経産省にとってもっとも色良いのだから」
このふたりの部長、考え方は根っこから合わない。立場上お互い協力を仰ぎ、省庁への報告があれば報告書のまとめを手伝うこともするが、神林が公安部長だったころのような協力体制など望むべくもない。
「駿河専務は条件を飲まなかったようだな。せっかく手ごろな移り先を用意してやったのに」
まだ今泉公安部長のイライラは収まらない。
「経産省にもセイント・セミコンダクターを残したい派がいる。元官僚だからその情報もあるのだろう。確かに純日本企業に戻るなら、国費拠出は完全に正当になる。駿河専務にとっては、もっとも波風が立たない展開だ」
冷静に事態を俯瞰して、表面的な協力しかしない富樫総務部長がまどろっこしく見える今泉公安部長である。両部長が合議してこちら側に引っ張り込んだ企業も、期待した成果にはまるで達していない。
「ハウエル・エレクトロニクスはもう役には立たないのではないか? セイント・セミコンダクターの上をいく業績になったのはひと月だけだ。川原の部下を輸出の部署に潜り込ませたのに、セイント・セミコンダクターの業績を下げる効果が表れない。やはり──」
「エムジー工業の還流付け替え、そして八矢の遺したエムジーと中国本土との癒着の証拠だな。これがあるからエムジーは、よそでの技術漏洩の対価を自社売り上げにすり替えざるを得なくなってしまう」
この点は両部長とも意見が一致する。八矢はセイント・セミコンダクター社を救済させる目的で潜入させた捜査官だった。警視庁の方針が真逆になった今、その手腕にこちらが苦しめられるとは。
「それだけでない。純取引としてもハウエルは負けている。エムジー日本法人の佐藤とかいうやつ、セイント・セミコンダクターに便宜を図っているのではないか?」
「どう? ネイルサロンをやってみたい話はできた?」
帰宅した瑠璃と鋼音をリビングに出迎えて、ヒカリはご苦労さまと紅茶に手製のマフィンを添える。
「わーい。マフィンだ!」
「ヒカリさんの手作りマフィン、久しぶりです」
大喜びの鋼音に、別腹気分を抑えて落ち着きの瑠璃。マフィンを手にするふたりの指には、円香と気持ちを通わせてきた証がしっかり見える。ヒカリにはもうふたりとも頼もしい。
「ヒカリさん、バッチリです。ふたりともヒカリさんが手を貸してくれれば実現できそうな気になってます」
「出店計画は幸香さんと瑠璃さん、鋼音で考えるのよ。円香さんの年齢ではたとえ夢でも新しいことには及び腰になる。特にこれからの人生がかかることだから。でも、子どもたちが事業計画を立てれば、円香さんも背中を押されてその気になるわ。彼女の性格なら、一度思い込んだら突き進むもの。ハウエルをやめてネイルサロンをはじめる方向にいく、間違いなく」
「彼氏さんは?」
「データ窃盗は違法行為だから不祥事よ。ハウエルを退職することになるでしょうね。ここが肝心だけど、懲戒処分にならなければ退職金が出る。ハウエルで五十代ならかなりの金額。ネイルサロンの設立資金に十分できる。私が懲戒処分を避けて、一緒にネイルをやってくれるように仕向けてあげるわ」
「川原さんを当局に告発しないで、普通に辞められるようにしてあげるんですね」
瑠璃にはヒカリの思惑がわかっている。円香と謙次郎を結ばせるのだと。
「ヒカリさんの人を憎まないところ、大好きです」
鋼音も心からそう思っている。
「あら、私だって圭吾くん、お母さんとお父さんを殺した犯人は憎んでいるわよ」
でもね、とヒカリはつづける。
「どんな場合でも憎しみがすべてになることなんてない。あんたたちも、わかってくれると信じてるわ」
ヒカリは、瑠璃が大原義隆を赦し、減刑のために動いたことを尊く受け止めている。
鋼音も正気で記憶を取り戻せれば、きっと最後は継父と実母を赦す日がくるのではないか。そんな気がしている。
ヒカリのそばで暮らすふたりは、赦しという志しを確かに受け継いでいるのだ。
「ヒカリさん、お願いです。円香さんと幸香さんのネイルサロン、実現させてあげてください。私、絶対あの人たちを応援したいです」
「私もお願いします。きっとみんなが幸せになりますもん」
瑠璃、そして鋼音もあたたかい。円香と幸香母娘の幸せを心から願ってくれているのだ。
自分がいつか子どもを持ったら、瑠璃や鋼音のような子に育てたい、と思うだろう。ヒカリは母親役の嬉しさをしみじみ感じ入るのである。




