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最終話「悲歌」29

 朝食を食べ終わると、ヒカリと瑠璃は並んで髪をいじっている。ヒカリが身を隠すために男の子の姿になったのは去年の七月下旬。それから半年近くたったのだから、短髪だった髪形も、耳まで隠れるガールズショートにまで伸びている。

「ヒカリさん、ショートボブにしたらどうですか? 似合いますよ」

 瑠璃もファッション誌の読者モデルを務めた経験から、スタイリストの見方のコツをなんとなく身につけている。

「そうねえ。でも、時おり光龍くんに化けなければならないから、ロン毛の男の子に見える髪型を保っておかないと」

 昨日、瑠璃と鋼音が、橋中円香へ計画通りの会話に持っていってくれた。心中穏やかではあるまい。

 今日はヒカリが円香に近づく。そのあと、円香はハウエル・エレクトロニクス社に顔を出す展開になるはずだ。


 円香は今日も昨日と同じ電車で通勤する。ヒカリはその姿を確認して、隣の車輌で新小岩駅まで乗る。円香がこの電車に乗るということは、ハウエル・エレクトロニクス社に直行はしない。

 円香が出勤してからしばらくして、ヒカリは外事課を訪れてみる。決まった時間に飲料休憩を取ることは調べ済みだ。円香は自動販売機まで、お茶を買いに出てくる。ヒカリはそこを狙って声をかけるのだ。

「あら、橋中さんじゃありませんか」

 驚いた円香はヒカリのほうを振り向くが、一目では誰とはわからなかったらしい。

 ヒカリは伊達眼鏡をとり、曽根八幡神社でお会いしましたよ、とにこやかにあいさつをする。

「まあ、あの子たちのお母さん……?」

「ええ、昨日はうちの子たちがごちそうになりまして、ありがとうございます」

 円香は顔色を失っている。曽根八幡神社では、謙次郎がハウエル・エレクトロニクス社籍の名刺を渡していたのだ。

 それでもヒカリは笑顔を絶やさない。

「今日も素敵なネイルですね。毎日のお手入れも大変──いえ、橋中さんならお手のものでしょうか」

 ヒカリは目を光らせて円香を見据える。

 まさかあの子たちの母親がセイント・セミコンダクター社の人間だったとは。もう膝を折るしかない円香は、お話よろしいですか、と弱々しくヒカリをいざなう。


 誰もいない小会議室に、円香はヒカリを案内する。ヒカリは腰に手を当てて、円香がセイント・セミコンダクター社の輸出業務情報を盗んでいると、ストレートに問い詰める。

「川原さんのお名刺には、ハウエル・エレクトロニクスの輸出調整部長とありました。わが社のライバルですよ。そしてあなたは輸出品目のすべてを知ることができるお立場です。」

 円香はガバっと土下座して、お願いします、見逃してください、とヒカリにすがるのである。

「川原さんの頼みで、ここにきているのはわかっています。断れなかったんですね」

ヒカリは落ち着いた声で、つづけていく。

「橋中さんがしてきたことは、不正競争防止法に違反します」

「法律に違反するのですか……?」

「やはりおわかりではなかったのですね。個人として行ったなら十年以下の懲役または二千万円以下の罰金、法人のハウエル・エレクトロニクスとしてなら最高五億円の罰金になります」

「そ、そんな……」

 もう円香は真っ青を通り越して、土気色の顔だ。

 謙次郎の指示なら、ハウエル・エレクトロニクスには累が及ばないようにしているだろう。謙次郎と円香のふたりが罪を背負うことになる。

「お、お願いです! 彼が罪にならないように……後生です!」

 土下座のままヒカリにすり寄って、スーツの裾をつかむ円香に、

「部下として断れなかったのではない。女として断れなかった。曽根八幡さまでのご様子、見ていましたよ。このままご夫婦になられても良いくらいでしたもの」

 ヒカリもしゃがみ込んで、円香の泣き顔に微笑みを向ける。自分が問われるよりも、謙次郎を助けたい。この気持ちは本物だとひしひしと感じる。

「大きな罪です。しかし、私のいうことに従ってくださるなら、お助けできるかもしれませんよ」

「言ってください! なんでも!」

 ヒカリは微笑みのままうなずくと、まずひとつ、と円香の顔前で人差し指を立てる。

「うちの娘たちに、ネイルをおしえてあげてください。しっかりとした技術をね」

 円香は、あっけにとられてヒカリを見つめる。

「は、はい! 喜んで引き受けます!」

「ふたつめ」

 ヒカリは中指も立ててみる。

「一年前のことを思い出していただきます。当時、八矢圭吾という人がいました。彼にかかわることすべてをおしえてもらいます」

「八矢くん……。彼には一杯食わされたので、よく覚えています。はい、お話しします」

 一杯食わされたとは?圭吾は円香の正体に感づいていたのだろうか?

 円香の話は、ヒカリの知らない背景を映しそうだ。

「三つめ」

 薬指も立ち、いよいよヒカリの策の発動だ。

「川原さんに、輸出品目データがクロージングロックされて見ることができなくなったと誤魔化してください」

「それはつまり、今後データをおしえるな、ということですね……」

「当然でしょう。これ以上罪を重ねさせるわけにはいきません。そして、川原さんからあることを聞き出してもらいます」

「あること……」

 ヒカリは、まず虚偽の報告をしてもらいます、と手を示す。具体的には、警視庁公安部が不正競争防止法で摘発してくるかもしれないと伝えてもらうのだ。

 セイント・セミコンダクター社の園田対外課長が潜入捜査官で、ハウエル・エレクトロニクス社を手駒にしているなら、謙次郎は必ず真偽を確かめるために連絡をとる。ふたりが会うようなら、そこを吉川巡査部長あるいは塚原望巡査に押さえてもらうのだ。違法な内通に手を貸す者が公安捜査官だと名乗るわけにはいかないから、園田がそうならセイント・セミコンダクター社から手を引くほかなくなるだろう。

 そして、もっとも重要なこと。

 謙次郎からエムジー工業とのつながりを聞き出させるのだ。エムジー工業はセイント・セミコンダクター社に還流分を売り上げにつけるという協力をしてくれているが、他方でハウエル・エレクトロニクス社ともつながっている。円香が得てきた輸出品目情報を、セイント・セミコンダクター社乗っ取りを企てる台湾企業へ経由させていたのだ。

 こうなると、エムジー工業は敵でしかない。圭吾は敵の弱みを握り、利用したのだ。

 葉山由紀子を下請け工場の社長に装わせてまで受注を取りにいっているのだから、エムジー工業に対してハウエルのほうが立場が弱い。このあたりの従属の構図はもうひとつはっきりしないが、エムジー工業としてはセイント・セミコンダクター社を台湾企業に乗っ取らせ、握られた弱みを無しにしようと画策しているのでは、とヒカリは推測してみる。


 円香に最初から謙次郎を裏切る条件を突きつければ、弱みにつけ込んだ脅しと同じだ。だからヒカリは、ネイルという、まずはほっこりする条件を出した。円香も好きなネイルを若い子におしえるのが楽しみなのだから。

「では、どうやってあなたがたを助けるか、お話しましょう。同時に、小諸典子さんと葉山由紀子さんには脱落してもらいます」

 ヒカリの口からその方策が語られると、円香は涙を流さずにはいられない。謙二郎を裏切るのも、彼を助けるためだ。しかも典子と由紀子は退場する。コンサルタントの野村ユカリはまるで女神ではないか。

「私にも娘がいますからね。母親が大罪に問われる悲しみを味わわせたくありませんもの」

 もとよりヒカリは、円香も謙次郎も告発するつもりなどないのである。告発すれば当局の拘束を受けてしまう。ハウエル・エレクトロニクス社の内通者を、今度はこちらの内通者に仕立てる。不正競争防止法違反をかざして、川原謙次郎もこちら側に引き込む。これがヒカリの策なのだから。

「ただし、ライバルふたりが消えても、川原さんとご結婚までいけるかは、橋中さん次第ですよ」

 謙次郎の心まで導いてやる義理はない。ただ、ふたりが結ばれれば、由紀子は一番あきらめやすい状況になるだろう。それもヒカリの狙いなのである。



 円香は昼休憩の時間にセイント・セミコンダクター社へ出向く。午後からの勤務は欠勤するつもりだ。

 物陰から休憩中の謙次郎を手招きで呼び、屋上へと誘う。

「大変なの」

 ヒカリに言われたとおり、輸出品目票にロックがかけられ、閲覧が不能になったと謙次郎に伝える。

「だとしても、誰も開けないはずがない。ロックのパスワードは試したのか?」

「それが……」

 セイント・セミコンダクター独自のロックシステム──一文字でも入力するとロック解除ウインドウが閉じられてしまう、クロージングロックだという。

 謙次郎は考え込む。誰かはロックを解除しているのだろうから、方法があるはずだ。

 だが簡単に思いつかない。ロックを解除して閲覧しているのが誰なのかを知ることが先決だ、と円香に指示をする。ネイルの用がないのに社屋にいては変だ、と早々に円香を帰す謙次郎である。

 ──謙次郎さん、ごめんなさい。

 普段は謙次郎に対しても押しの強い円香だが、ここはしおらしくなってしまう。

 帰り際に典子とバッタリ会ってしまい、ここぞとばかりに典子は、今夜は謙次郎さんとデートなのよ、と見せつけるように映画チケットをチラつかせる。

 ──そんなだから息子もグレるのよ。

 チラリと輸出調整部をのぞくと、奥では由紀子が書類をめくっている。謙次郎はそんな由紀子を目の端にもとめていないが、由紀子はときおり、まるで盗み見のように謙次郎の勤務姿に目線を送るのだ。

 ──ときめいていられるのも今のうちだけよ。

 野村ユカリが動けば、あなたたちは泣くだけよ。せいぜい慰め合えばいいわ。そう鼻で笑って、あの子たちを家に招待しよう、娘にも引き合わせよう、と思いつく円香なのである。



 ヒカリは大筋の策は講じたが、肉づけはまだだ。やはりロックのことを考える。

 円香のほうはこれ以上のデータ窃盗ができないわけだが、円香を引き入れた園田対外課長は、公安捜査官でなかったとしても、ハウエル・エレクトロニクス社とつながりがあるのは間違いないだろう。

 現段階では円香によって川原を偽らせているだけだが、クロージングロックは必要になると見る。そのときは、ヒカリが進言し、重役の決裁になろう。

 だがヒカリはクロージングロックを実際にかけるとして、コンサルタントの立場では社秘となるその解除方法までおしえてもらえないことはわかっている。

 こんなとき頼りになるのは澄花である。

「考えられるのは三つですね。ひとつめは、実はクロージングなどではなく、一文字目が間違えていたらその場でウインドウが閉じられるだけ」

「つまり、正解を入力できたなら閉じられないということね」

「二文字目が間違いならその時点で閉じられる。何文字かはわかりませんが、正解文字を入力しつづけられれば、解除に至るパターンです」

「パスワードが違います、と表示されるかわりに、入力画面を落とすやりかたね。ある意味単純だわ」

 これならパスワード突破と変わらない。単純過ぎて、このパターンはなさそうに思える。

「ふたつめは、パスワード入力前になんらかの作業が必要。その作業がないと、何を入力しても閉じられてしまう」

「例えば、どんな作業になるかしら」

「特定のフォルダを開いている。特定のアプリケーションを立ち上げている、とかですね」

「アプリケーションは多くても百あるかどうか。ひとつずつ試していけば、たどり着けそうだけど、フォルダは厄介だわね」

「三つめは、バックグラウンドで指紋認証か顔認証が働いている。認証されてもされなくても、なんの表示もされないのでわからない。つまり、登録者以外は何をやっても開けません」

「指紋は認識メカニズムに直接指を触れないと動作がないから、あるなら顔認証ね。裏でモニター付属のカメラが動いていることになるわ」

「パスワード入力画面になったら、タスクマネージャーを開いてみてください。三つめかどうかは、カメラがマネジメントされているかでわかります」

 だがこれら三つのいずれでも、肝心のパスワードがわからなければ解除はできない。

 クロージングロックなら、おそらくひとりだけが知るパスワードとなるだろう。パスワードを作成するのは誰なのか──。

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