最終話「悲歌」28
ヒカリがセイント・セミコンダクター社から帰宅すると、瑠璃たちはまだ帰ってきていない。橋中円香とまだ話しているのだろう。
夕食の買い物もしてくるはずだから、勝手に料理をしても無駄が出る。
ヒカリはあかりの部屋へ行ってみることにする。あかりのタロット鑑定のはじまりまでは、まだ時間があるはずだ。
久しぶりに部屋に上げられると、相変わらずの散らかりぶりなのだが、テーブルの上に水墨画が十数枚重ねられているのが目にはいる。
もちろん任侠の元締めの画だろう。
「ちゃんとつづいているだけでたいしたものよ」
ヒカリは出来栄え以上に、継続は力なりの向上ぶりのほうに驚く。
「元締めには、これを描きたいっていう意欲が足りないのよ。課題をこなしている感じでね、表出力が見受けられないわ。どうやって一段高めていくか、あたしも悩んでるんだけど」
「あんた、もう美術講師としてもやれるわよ。元締めのほかにも弟子をとりなさいな」
「からかいっこなしよ。今日はそんなこと言いにきたんじゃないんでしょ」
あかりもヒカリが気まぐれで訪ねてきたわけでないと想像がつく。ヒカリは、葉山由紀子が結婚を望む川原謙次郎が、ハウエル・エレクトロニクス社の輸出責任者で、業績の盛り返しを画策していることを話してみる。
由紀子のライバルのひとり、橋中円香がセイント・セミコンダクター社に潜りこんでいることも伝えると、あかりは、奇妙な縁ねぇ、と半ば呆れたため息をつく。
「ねえヒカリ。どう見ても、その川原さんは三人を利用しているんじゃない? それも、それぞれに結婚をチラつかせているか、お前が一番だと思わせている」
「その中で橋中円香さんは、かなり重要な役どころよ。そこを任せるということは、それだけの信頼を持っているということだわ。曽根八幡での様子を見ても、恋愛関係にありそうに見たけど」
由紀子にも下請け工場の社長を装わせている。おそらく小諸典子もなにかの役目があるのだろう。
円香の役割りは確かに大きいが、ほかのふたりも軽くはなさそうだ。そうなると──。
「橋中さんには、恋愛関係になっていると思わせているだけかもしれないわよ。体を使えば──」
あかりもヒカリと同じく、円香とは男女の仲を結んでいると見るのだ。それは心の方は伴っていないとも。
五十歳前後でも、好きな男性が新たにできたなら、気持ちも新鮮で、性欲も湧いて回復する。閉経も更年期症候にも打ち勝つほどに。あかりのいうところ、若返る、なのだそうだ。
円香は性行為をしている仲というのを、自分が一番手という根拠にしているのは固いところだろう。自分の年齢で求められるということは、相応の自信にもつながる。同時にこの年齢だからこそ、なにがなんでも謙次郎には嫌われたくない。謙次郎が女盛りをとうに過ぎた女性ばかりを選んでいるのは、そこにつけこんでいるからとヒカリは見るのだ。
「若い子では歳相応の恋愛を別にして、川原さんの策略を放棄する可能性がかなりあり得るからなんだわ」
謙次郎は、周囲には小諸典子と交際しているように印象づけている。だが、あえて典子を表にもってきているということは、カモフラージュだとも受け取れる。ならば円香は承知だろう。
葉山由紀子とは肉体関係を持っていない。由紀子は結婚という形に執着し、親まで出てくる始末だ。四十八の歳になるまで男性経験が一度もないとのことで、愛情生成の過程の大事なところを知らずにいる。恋に恋すると同じで、由紀子の結婚願望は、おそらく三人のなかで一番高いだろう。それは円香も感じているはずだ。
ヒカリは、円香を動かすなら由紀子を謙次郎に近づけるのが効果が高いと計算する。だがそれでは由紀子は謙次郎にとって厄介ものになってしまうだろう。
「あたしも由紀子さんはそもそも望み薄だと思うけどさ、もし川原さんが由紀子さんとの関係を深める必要に迫られたら、由紀子さんは切り捨てられると思うわ。円香さんとの関係を悪くするわけにはいかないもの。下請けの社長役なんて、いくらでも替えが利くでしょ」
そのとおりだ。由紀子を遠ざけて、典子をその立場にもってくれば済むことである。
あかりの現実指摘に、ヒカリは心が痛んでくる。
「私は由紀子さんには、一番傷つかない展開で退場してもらいたいのよ。私の捜査の意味でも、登場人物から外れてもらったほうがいいし」
あかりが鑑定所へ出向く時間になったので、ヒカリは私室に帰ることにする。そろそろ瑠璃と鋼音も戻ってくるだろう。
帰りの道すがら、ヒカリはやはり、直接由紀子と謙次郎との距離を近づけさせて、円香を動かすやりかたはやめようと決める。
十七歳の自分と二十一歳のあかり。この年齢なら恋バナといわれる話があっても誰も当然に思うだろうが、子育ても終わり加減となる四十代後半の円香が真剣な恋をして、それを知った周囲はどう受け取るか。いい歳して、と呆れられることも多いだろう。
だが、男性のほうがご執心と周囲が認知すれば、見る目も変わる。
「これだわ」
ヒカリは作戦がひらめくのである。
男の人を本当に好きになるって、どんな気持ちかな。
橋中円香との会話は、ヒカリの台本に沿うように仕向けたものであったが、円香が川原謙次郎というイケオジ風の男性に強く想いを寄せているのが伝わってきた。四十代後半、五十代となると、もう恋愛なんて歳じゃないように思っていたが、考えてみればそれに根拠などなにもない。かなりのおじさんおばさんになっても恋をするのだ。
瑠璃の大切な仲間たちの結婚事情を俯瞰してみると、澄花ははじめて交際した男性とそのまま結ばれたと聞く。それまで片想いはあっただろうが、人生初の両想いとなると、相手への想いが受け入れられるということだから、それはどんなにか嬉しいことだろう。好きな気持ちと嬉しさ。ふたつが合わさると本当に好きな気持ちになるんだなと、澄花の幸せそうな顔から伝わってくる。
まだ新婚ホヤホヤの美歌は、好きな男性との結婚ではない。どんな人柄なのかよくわからないでの見合い結婚。愛情をこれから育むのだ。一から築きあげる夫婦の絆もいいんだろうな、と瑠璃はこれにも憧れる。美歌は男性経験もそこそこにあるから、性生活もきちんと怠らないで、お互い欠かせないパートナーになれるだろう。
そしてヒカリ。ヒカリも好きになった男性との結婚ではなかった。占術の先生が、ヒカリの命を守るために画策した結婚という、ドラマチックな運びだったそうだ。十六歳という、結婚が現実味を持つ前だったろうが、幸せな結婚だったとヒカリはいつも口にする。残酷にも旦那さんは殺されてしまったが、ヒカリはずっと結婚生活の残像を大切に守っている。結婚してから、本当に男の人を好きになる気持ちを味わったのだ。性生活も、とっても充実していた、とはっきり言えるのだから羨ましい。
「ヒカリさんのような女性になりたいな」
瑠璃の人生の目標は、いまやそれなのである。
日課である鋼音と一緒の入浴で、率直にその気持ちを鋼音に漏らしてみると、
「私もヒカリさんみたいになるもん」
そう簡単に言ってのける鋼音が、瑠璃にはまぶしく見えてしまう。これからヒカリ直伝で占術をおしえられるのである。修行はつらいかもしれないが、鋼音は占術士の子どもだし、きっと素養もあるのだろう。あかりも、あんた鋼音に追い抜かれてしまうわよ、とヒカリに警告されてしまったそうだ。
いくらヒカリに憧れても、自分は鋼音のように背中を追うことはできない。せめてヒカリのように、頭が良くて、優しくて、誰にでもあふれる愛情をめいっぱいに注げる女性になるのだ。でも、口うるさいところだけは見習わないようにしよう。
「冬の間に、ひとつはコンテストに入賞しておきたいんだ。そして、三年生の卒業式で腕を見せる。私の計画だよ」
今日、校長に写真部を作りたいと訴えてきた。
「認めてもらえても正式な部になるのは新年度だろうけど、そのために実績貯めておかなきゃ」
希望を叶えたい気持ちで、鋼音の背中を流す手にもつい力が入る。
痛いよ、もういいよ、と鋼音の悲鳴だ。向きを直して、今度は鋼音が瑠璃の背中を前にする。
「瑠璃はカメラマンになるの? ヒカリさんは美容の世界に行ってもらいたいみたいだけど」
実際、瑠璃も悩ましい。美容クリニックの仕事はとても魅力だ。増本明美の施術では看護助手として立ち合いながら、非凡な判断力を示して石嶺医師から大いに称賛された。やりがいを感じた。
自分の立てた脱毛施術計画でのはじめての患者は自分。高校に進学したら、広い面積で毛量も多い自分のアンダーヘアの施術を、自分の計画どおりにしてもらうのだ。
そのための解析は、もう瑠璃の技術の範囲にある。もし今、初見の患者を持たされても、脱毛科目のパソコンがあれば、カズサビューティーのアプリケーションを駆使して計画を立案できる自信があるのだ。
その一方で、写真の世界に引き込まれた自分も認めている。スマートホンのカメラで、ただ綺麗なだけの写真を撮ってなんの不満も持たなかった自分が間抜けに思えるほど、光を読むことに喜びを感じている。
プロカメラマンの作品を見るにつけ、こんな写真を撮りたいと強く思わされることがたびたびだ。トップクラスの高性能カメラと銘レンズを手に入れ、機器の性能を引き出す面白さも感じる。
そんな話は、湯船の中でも終わらない。それも今回が何度目なのか。
「瑠璃のその話を聞くと、長くて湯あたりしちゃうよ」
鋼音にからかわれて、今度は瑠璃が聞いてみる番だ。
「鋼音は工務の仕事をするの? 福祉とか保育? 痩身美容? ヒカリさんを追いかけて占術士?」
思いつくだけあげてみて、鋼音の選択肢が広いことが改めて羨ましい。
「わかんない。考えすぎると、頭が痛くなるんだ。ものすごくね」
鋼音がときどき激しい頭痛を起こすことは、瑠璃もわかっている。その最初は、自分が学校のことを話題に振ったときだった。
なにか性的なトラウマがあるようにも感じ、ヒカリにも相談した瑠璃だが、ヒカリはあるときを境に、瑠璃にはその話をまったくしないようになった。
鋼音は過去を思い出そうとすると頭痛に苦しむ。
──いったいどんな事情をかかえているんだろう。
つらいこと、悲しいことは共有してあげたい。友だちなのだから、せめて心の支えになってあげたい。
そう強く思うのだが、人の心を知るヒカリですら、いけないという。自分と鋼音の仲を知って、そういうのだ。
──私が知らないほうがいいことだから、話してくれないんだ。でも、どんなことなんだろう。
リベンジポルノの被害まで経験して、性のことに踏み込むことを躊躇している自分を感じている瑠璃だ。前に進めないのは、多分、本当に好きな男の子ができないからだ。
「あんたたち、いくらなんでも長すぎるわよ」
ヒカリのお冠な声が聞こえてくる。
しかしパジャマ姿のふたりを迎えるヒカリの顔はニコニコと穏やかだ。おしゃべりが長くなると、ふたりがのぼせてしまわないように、わざと角出しする心配性の母親を演じる。
瑠璃はそんなヒカリのことが大好きだ。




