最終話「悲歌」27
ヒカリが橋中円香に視線を注いでいるが、円香は降りる様子がない。まもなく新小岩駅に到着する。新小岩の先は小岩、千葉県に入り市川、本八幡へとつづく。ハウエル・エレクトロニクスの関連会社は市川市内だと行徳にあるが、それなら地下鉄を使う。この路線では遠回りだ。
──まさか。
ヒカリの眉間が厳しくなると、円香は立ち上がり、降車のためにドア付近まで歩む。
新小岩駅である。
円香は新小岩駅を出て、まっすぐ通りを渡り、五分ほど北に歩いていく。ヒカリもあとにつづく。
ヒカリも通う道、セイント・セミコンダクター社への通勤路。円香はセイント・セミコンダクター自社ビルへ入っていく。社員証をかざして、出勤の打刻をしている。
──やはり……。
円香の潜入先は、セイント・セミコンダクター社だったのである。左遷として飛ばされたのではない。ライバル会社の懐に潜りこんでいるのだ。葉山由紀子も知らないわけだ。
ヒカリはコンサルタントとして来客用のカードを持たされている。それを打刻して、円香の後ろをつける。エレベーターは満員になるので、他の社員の陰となれば、ヒカリが一緒に乗っても正体はバレない。
円香が降りた階には外事課がある。果たして、外事課に円香は入っていき、自分のデスクに腰を下ろすのだ。
「川原さんも思い切ったことをするわね。スパイなんてバレたときが大変よ」
映画のように、正体露見となればその場で自決、などとはならないだろうから、川原謙次郎はハウエルと関わりないとするために、円香を見捨てる方策を準備しているはずだ。そう考えると、円香もやはり駒のひとつに過ぎないのか。
外事課から見知った顔が出てくるので、声をかけてみる。ヒカリが早朝に調べごとをした日、先に出勤していて会話をした社員だ。
「あら、お久しぶりね」
「あっ、野村さんじゃないですか。どうされてたんですか」
若い社員だから、才媛には惹かれるのだろう。ずっと気にしていたんです、とこれは本気で言っているようだ。
「調査を終えてまた本社に戻ってきたの。よろしくお願いね」
ところで、とヒカリは本題を切り出す。
「奥にいる素敵なネイルの女性──」
「橋中さんですか?」
偽名を使っているわけではないらしい。ずいぶん堂々としたものだ。
「いつからここにいるのかしら?」
「えっと……。去年の、いや一昨年の秋ぐらいだったかな。確か、園田課長が連れてきたんです」
対外課長の園田のスカウト。ヒカリは眉をひそめる。園田は警視庁公安部からの潜入捜査官の可能性がある。圭吾の後任の形で入ってきたが、彼とは違い、台湾企業に侵食されているセイント・セミコンダクター社を、経済産業省が国民の税金を使って補助していた不都合な真実のために、切り捨てる任務のはずだ。
公安はハウエル・エレクトロニクス社となにやら手を組んでいるのか。少しずつ構図がヒカリの頭に浮かんでくる。
「橋中さんは、なにを担当しているのかしら」
「園田課長の指示で、いくつかの台湾企業への品目調整をしているはずですよ。橋中さんがどうかしましたか?」
これ以上はさすがにこの社員もおかしく思うだろう。ヒカリは繕っておく。
「あのネイル、素人技術ではないわ。あれだけのものを身につけるとは、どんな経歴の人なのかと思ってね」
「野村さんも女性ですね。男たちを蹴散らしそうに見えますけど、可愛いところがあるんだなあと」
「女ですもの。男の人にモテたいと思うのは当たり前じゃない。でもあなた、今のは失礼すぎるわよ」
そういうヒカリの顔はニコリとしている。怒っているわけではないとわかり、この社員もホッとしたようだ。専務が呼んだコンサルタントの機嫌を損ねるのは良くない。
「悪いと思うなら、今度軽くご飯でも一緒しなさいな。私もたまには息抜きしたいし」
「はい、喜んで!」
榊原という社員の名前の覚えて、ヒカリは専務室へと足を向ける。ハウエル・エレクトロニクス社からの潜入者の正体が、初日にわかったのは思いがけない収穫だ。
だがすぐには公にしない。使える駒になるよう仕向けていく。ヒカリは自分が近づくよりも先に、娘役のふたりをバッタリ会わせる算段を立てるのだ。
瑠璃の学校は三学期制をとっている。今日は始業式だけで早い下校になるはずだ。校長に写真部創部のお願いをしてくるとは言っていたが、そう遅くはなるまい。
瑠璃に、鋼音とふたりで、駅で円香を待ち伏せして、バッタリ出会ったふりをするよう、メールで指示を出しておく。
そのあとの会話のもっていきかたも指示しておき、今度は押野勇気と連絡をとる。
「園田か千田、どちらかが公安捜査官だと思われるのです。今泉部長になってから公安配属になった捜査官の顔写真はまだ難しいですか」
「お嬢。潜入を担当させる者の履歴上顔写真は、警視庁の人事部でも特秘ですから、部外者の自分は他のルートから得るほかありません。各人の潜入先を洗うほうがおそらく早いです。今ひとりずつ当たっていますから、もう少し待ってください」
電話の向こうで勇気の声は暗い。簡単に手に入るものではないが、思った以上の難航なのだ。
ヒカリは塚原巡査にも電話をかけてみる。
「星野桃さんというのは、お嬢さまの病室でのご友人と聞いていますが」
「ええ。桃から、私の友だちの佐藤七海という子のお父さんが、セイント・セミコンダクターやハウエル・エレクトロニクスとの窓口のような仕事をしていると聞いたのよ。どこにお勤めか、調べてもらえるかしら」
「難しくないことですが、お友だちを巻き込んでしまうのではありませんか?」
「もしエムジー工業であれば、七海ちゃんの友だちというのは隠して近づいてみるか、友だちとして七海ちゃんのおうちに遊びに行って、お父さんへのご挨拶に乗じて引き出してみるか、どちらかをやってみようと思うのよ」
「エムジー工業は台湾企業ですから、出向という可能性もあります。あまり期待しないほうが」
「日本法人も置いているわ。もし出向でも、それは日本法人からだわ。ただ、七海ちゃんのお父さんがエムジー工業の人であればの話だから」
仮定の話をあまり膨らませても仕方がない。ヒカリは電話を切る前に、ひとつ塚原に伝えておく。早いうちに実現させようと思っていたことだ。
「近々市川のお義母さんのところへ行くつもりなの。あなた、ご一緒しません?」
圭吾の父の教え子といってよいだろう塚原だ。義母の彩子にも当然かわいがられたと聞く。
「はいっ、喜んで! 八矢警部補と息子さんの仏前に、お線香をあげさせてもらいます」
「あなたの非番の日にするから、新小岩まできてもらえるかしら」
夕方六時半。瑠璃と鋼音は駅の改札近くで橋中円香が出てくるのを待っている。ヒカリから、円香が退勤して帰路への電車に乗ったのも確認した、とメールがきている。
「あ、いたよ」
鋼音が円香の姿を見つけて瑠璃におしえる。
「どこで声をかけるかね。スーバーに入られると、お買い物でろくな話もできないわ」
駅を出ですぐバッタリを装うことにして、ふたりは円香のあとを追う。
後ろからではおかしいから、進行方向に回り込み、円香のほうへ近づいていくと、円香のほうがふたりに気がついた。
「まあ、曽根八幡さまの子たちね」
「うわあ、偶然ですね。今お帰りですか?」
「ええ、今日はお母さんは?」
「まだ仕事から戻りません。わあ、今日も素敵なネイル。こんなグラデーション、どうやったら出せるんですか」
ネイルを褒められると、そのまま別れるなどできない円香なのである。ちょっとお茶でもしない?と誘いかけてくる。
「私の娘もはじめてネイルをしたのはあなたくらいの歳なのよ。私がメイクしてあげてね」
ファミリーレストランでお茶とケーキをご馳走されている瑠璃と鋼音は、私たちの爪ならどんなネイルに仕上げるかを聞いている。
「ネイルはね、爪の縦横比も重要なのよ。といって、爪を切った状態だとできる仕上がりが限られてしまう。だから、やってみたいネイルに合わせて爪を伸ばすのよ」
「でもすごく長いのもありますよね。爪、割れちゃわないんですか?」
「あれば付け爪といって、別個のアクセサリーなのよ。昔はネイルといえば付け爪だったのよね。今のように塗り方で魅せるネイルは、私がネイルをはじめたころは少数派だったの」
円香によると、爪を少し伸ばして先を整えて、伸ばした部分にもペイントを施す。マニキュアはある意味口紅と同じ効果を狙う化粧だから、爪を伸ばす意味は指を長く見せるためだ。それとは違う個性を見せるネイルはまったく別のアートだ。
「あなたたちの爪ならね」
円香はスマートホンの画像を瑠里たちの前に持ってくる。たくさんのネイルデザインが並んでいる。
「ラメ系よりもパステルがいいと思うわよ」
いくつか仕上がり画像をふたりに見せると、今は道具を持っていないけど、今度機会があったら本格的に体験させてあげる、と気前の良いことを言ってくる。
「ありがとうございます。円香さんは素敵な女性だなあ。八幡さまで一緒にいた男の人は、きっとぞっこんですよ」
瑠璃はそう持ち上げてみる。ヒカリからの指示がここから実行されるのだ。
「あら、あの人が旦那でないとわかったのかしら」
「お母さんがそうだろうと言ってました」
「お母さんは、本当のお母さんではないのでしょう? あまりにも若いわ」
「ええ。でも本当のお母さん以上にお母さんですよ」
ここは実感を込めて口にする瑠璃だ。鋼音も強くうなずく。
「あなたのカチューシャ、ずいぶん高いんじゃない? これイタリアのブランドものよね」
鋼音のカチューシャに目がいくあたり、円香もさすがファッションには目ざとい。
「お母さんにもらったんです」
「あ、いえ、お母さんに買ってもらったんです」
瑠璃はすぐに鋼音の返事を訂正する。もらったでは、ヒカリがこのカチューシャをつけていたことになる。デザインが少女向けだから、それでは母親としておかしいと、瑠璃は瞬時に気づいたのだ。
鋼音の知能がもどっているにも、こういうところはまだ気をつけなければならない。
「それにしてもあなた、ぞっこんだなんて古い言葉知ってるのね」
円香は変に思わなかったようだ。話が戻っている。
「お母さんのお友だちがよく使う言葉です」
実際あかりとの会話から得た言葉なのだ。このように、円香との会話はどうも脱線気味になる。ならばと瑠璃は単刀直入に、あの人とはご結婚されないんですか?と聞いてみる。
「したいとは思っているのよ。彼も私のこと信頼して、仕事でも大事なところを任せてくれているし、仕事以外でも大事にしてくれてるわ」
「初詣をご一緒されてましたものね。わざわざこの街まできてくださったんですか」
「ええ。大晦日から一緒にいて、いい時間を過ごしたわ」
「娘さんは、お母さんの結婚には賛成しているんですか? 同じ娘の立場として気になります」
「息子もいるんだけど、まあどうかしらね。でも私の人生だから、娘にも息子にも反対はさせないわ」
「そうですね。お子さんのことで躊躇して他の女性にとられでもしたら大変です。彼氏さん、イケオジ風でモテそうですもん」
円香はその瞬間、顔をこわばらせるのだ。この台詞を聞かせることが、ヒカリの目的だったのである。
「そうよね、そうよね」
円香の心にも波風がたってきたはずだ。小諸典子と葉山由紀子。セイント・セミコンダクター社に潜入しているので、このふたりがアプローチ攻勢を仕掛けていても、円香にはわからない。
急な不安が押し寄せ、明日にでもハウエル・エレクトロニクス社に様子をうかがおうと考える円香なのである。




