最終話「悲歌」26
ヒカリがまたセイント・セミコンダクター社に潜入すると聞き、瑠璃は心配でたまらない。
元旦の日の寒がり方を見ても、以前のヒカリを知っていれば、よほど体が弱っているとわかる。
普段はすっかり元気な姿だが、急な気候の変化や、疲れの蓄積には体が正直なのを目にしている。
「鋼音は倒れる前のヒカリさんを知らないからなあ。本当に元気だった頃と比べられないんだ」
リベンジポルノ被害から救うために、ヒカリがどれだけ無理をしたか。鋼音がヒカリに預けられる前のことだから、わからないのは仕方がない。自分が毎日ヒカリの体の様子をしっかり観察しよう。
瑠璃は母親の菜奈に電話をかけ、ヒカリのそばにまだついていてあげたいと改めて伝える。
「鋼音ちゃんがいるといっても、瑠璃がヒカリさんを支えなきゃいけないのよ。ママがいいというまで、帰ってきちゃだめよ」
菜奈の言葉に、今の自分があるのはヒカリのおかげだと、気持ちを強くする瑠璃なのだ。
瑠璃は明日から学校がはじまる。ヒカリは明日から潜入再開というのに、自分のことより、準備はできているか、忘れ物はないか、電車の時間は確認したか、と口うるさく聞いてくる。
世のお母さんはみんなこうなんだよなあ、と思ってもうるさくは感じない。
母の菜奈もヒカリほどではないが、余計な心配をしては、いちいち確認してきた。そのたびに、しまった!と思い出し、バダバタ慌てていた自分を思い返す。
今はもうそのときの自分ではない。なにをするにも、心に余裕がある。心配性の大人たちの気持ちを量れるのだ。
ヒカリに急かされて、はいはい、と開けてみたカバンの中には一通の上申書。始業式後に、校長に写真部創設のお願いをするのだ。
学校にも仲の良い友だちはいるが、鋼音という親友ができて、瑠璃は本当の友だちをはじめて持った。
この部屋で暮らすようになり、はじめは同学年なのにずいぶん幼い言動だったが、児童相談所によって両親と引き離されたこと、学校に通っていないこと、性のことで大きなトラウマをかかえているのに、友だちになってあげなければと半ば同情心で接した。
発達が遅れている、いわゆる発達障害という話もあったが、カズサビューティーグループの新宿クリニックへヒカリの協力者として潜入してから、急に知能が良くなり、幼い言動も次第に消えていった。
これがどういうことなのか、ヒカリからはまだちゃんとした説明はない。
今の鋼音は、泣きたい自分、不安に押しつぶされる自分をそのまま受け止めてくれ、ときには抱きしめてくれる。普段は自分が姉面でいるが、頼りたいときには頼れるのだ。
一緒に暮らしているからか、ふたりの仕草が似てきたとからかわれることもある。
たまに家に鋼音を連れて帰ると、母の菜奈は嬉しそうに迎えてくれるし、弟と妹も大喜びで鋼音にあそんでとせがむ。
小さい子の相手は面倒と思っていた自分と違って、鋼音は目線を同じ高さに合わせて、チビたちと同じことを楽しみ、同じように喜ぶ。弟も妹も鋼音お姉ちゃんが大好きなわけだ。
そんな鋼音をみていると、保育の仕事が合っていそうだな、と瑠璃は感じる。だがヒカリによると、鋼音は高齢者への接しかたもうまいらしい。
それに工務の仕事にとても興味を持っているし、美容でも痩身科目の知識をつけた。
いつものように瑠璃と鋼音は一緒に入浴し、パジャマ姿でリビングに戻ると、
「ほら、レモン水を飲みなさいな。体に水分あげないと」
ヒカリがテーブルにグラスを二本置く。ちゃんと体のことを気づかってくれる。やっぱりお母さんのようだ。
そして、ちょっと座りなさい、とふたりをテーブルにつかせるのだ。
「私は明日から日中留守にするけど、まめに連絡するから、ふたりとも携帯電話は常に身につけているのよ。わかった?」
「はい」
「それから、街で橋中円香さんとばったり出会うかもしれないわ。声をかけられるだろうから、そのときは私の娘を演じてね」
そうだった。初詣に出た曽根八幡神社で、ヒカリは瑠璃と鋼音を娘だと紹介したのだ。
「川原謙次郎さんはこの街の人ではないわ。曽根八幡にきていたということは、橋中さんがこの街に住んでいる可能性が高いと思うの。お買い物に行ったスーバーで思いがけず出くわすこともありそうだわ」
もし話をするようなことがあればうまいこと頼むわね、と意味ありげに言いつけておくヒカリだ。
そして鋼音に、
「瑠璃さんは学校だけど、その間あんたはまたあかりのところで学ぶ?」
鋼音は首を振る。あかりとはだいぶ親しくなれて、軽口までたたかれるほどになったが、占術教授となると無駄口が多くてやる気が起きないらしい。
「そうね。もう今夜から、あんたには私が占術を仕込むことにするわ。四柱推命のおしえも途中のままだったし、毎晩というわけにはいかないけど、いくつか免許をとれるくらいまで教えるつもりよ。碧泉院流の免許を授けてくれるのは麗華先生だけど、私のカリキュラムを完遂できたら、試験もクリアできる」
任侠の元締めと水月鏡で会合を持った日、鋼音に鑑定技術を授ける決意を固めていたヒカリである。占術士にならずとも、その能力は身につけさせるのだ。
そしてもうひとつ。朝の台小学校の林路加教諭に頼んで、鋼音を学校に連れて行くつもりでいる。入学間もない時期に窃盗をさせられた背景ははっきりしないが、これが記憶の封印にかかっているのだから、学校に関することだけ部分巻き戻しを施してみるのだ。
学校を受け入れる心が生まれれば、鋼音の将来には展望が開ける。
うまくいくかはわからない。危険は承知だ。だが、必ず成功させる。それが私の務めだ。ヒカリは強い意志で鋼音を見つめる。
朝になり、ヒカリと瑠璃は同じ時間に部屋を出る。葛飾区のセイント・セミコンダクターまでは電車で約四十分。瑠璃の学校へもほぼ同じ所要時間だ。
駅まで歩き、別々のホームに向かう直前、ヒカリは瑠璃に向かって改まる。
「瑠璃さん。鋼音のこと、本当にお願いするわ」
「え? どうしたんですか、急に」
「あとでわかるわ。とにかく、お願い」
不可思議な顔の瑠璃と別れて、ホームに降りていくヒカリである。友だちの存在。友だちの力。最後に鋼音を救うのは、自分ではなく、瑠璃になるはずだ。そう信じている。
ホームで電車を待つヒカリは、ふと隣の車輌が停まるほうの列に目を向け、驚かされる。
橋中円香が並んでいるのである。この街に住んでいると見たから、駅を利用するなら当然ここだが、この時間に偶然見かけるとは。
ハウエル・エレクトロニクス社からどこかに飛ばされた、と葉山由紀子は言っていた。飛ばされた先への出勤がこの電車なのか。
ヒカリは今のスーツと伊達眼鏡の姿で、初詣で出会った晴れ着姿だった自分とバレてしまうか考えるが、ここは慎重を期すに越したことはない。他の乗客に隠れるように、隣の車輌に移動し、円香の姿を捉える。
座席に座った円香は、自慢のネイルを見せつけるように、前に指を置いている。ヒカリの視線は、円香の襟元や胸元へ向かう。社員バッヂをつけていないか探しているのだ。
どうやらないらしい。
由紀子が左遷先を知らないということは、川原謙次郎は内密の潜入をさせている可能性が高い。
どこの駅で降りるのかを確認する必要がある。降車駅がわかれば、ハウエル・エレクトロニクス社の関連会社と下請け会社一覧から、飛ばされた先が分かるはずだ。




