最終話「悲歌」25
一月六日。
セイント・セミコンダクター社では、仕事始めのこの日から、社員たちの間でざわつきが絶えない。
始業まもない朝九時すぎ、アジア統括部で営業を担当する山本恵梨香が、警察の任意出頭を受けて、まるで逮捕のように警察車輌に乗せられ連れて行かれたのである。
入社五年目で、外語大学卒業。中国語が堪能なことから、ここ二年は台湾への営業チームのひとりとして、主に通詞役として営業交渉の席に座る人材である。
有能であることから、専務の駿河に目をかけられ、まもなく愛人として世話を受けるようになったと噂されている美人社員だ。
午後になり、今度は駿河専務が任意出頭を要請される。恵梨香がどんな供述を引き出されたのか。出頭を断れば、警察は疑いを濃くするだろう。
警察も駿河専務の立場を考慮し、恵梨香のように警察官を送らなかった。所轄までの道のり、駿河専務は容疑のことを考える。
技術漏洩は確かに補助をなした国への裏切りだが、所轄の扱う案件ではない。昨秋から、八矢という男の殺害事件への関わりを、何度も捜査名目で訪れていた刑事がいる。そのたびに、セイント・セミコンダクター社は一切事件に関係ない、と毅然として退けたが、このたびはついに出頭を求めたのである。恵梨香が八矢の還流分の処理を話してしまったのでは、と穏やかではいられなくなる。
取調室に連れられた駿河専務は、八矢圭吾という人物について知っていることをすべて話すように迫られた。まずは、入社の経緯からである。
警視庁からの捜査官であることは、たとえ同じ警察に対しても隠しておかなければならない。摘発のためではなく、救済にきてくれたのだから、明らかにしてしまったら警視庁へ顔向けできない。むろん、これまでもその対応をした。
担当刑事は、吉川という。八矢の遺体が発見されたときの初動も彼だったそうだ。
むごい遺体だった、と声に怒りを滲ませているのだから、まるでこちらが手にかけたと言わんばかりの態度だ。
「被害者の八矢さんは、セイント・セミコンダクターに復帰してからわずか三日で命を落としました。八矢さんが休職していた間、輸出額に不審な動きがありましたね」
還流分のことだろう。だが、八矢の休職中と後とで、額はさほど変わらない。彼の死でその月の還流分が付かなかったので、そこだけは目立つが、休職している間の不審な動きとは違う。
しかし、前月実績を当月分として評する方法もあるし、八矢の休職中になんらかの裏工作があり、それが数字として反映されたのがその月だった、と指摘されてしまえば、否定するにも材料がない。
吉川巡査部長はなおも追及してくる。
「復帰し彼はすぐに、エムジー工業からの覚えのない売り上げを発見した。それを上司、あなたか小林常務に問い質した。違いますか?」
「なんですって?!」
エムジー工業からの還流分付け替えは、おそらく国税庁からの情報なのだろうと駿河専務は推測する。だが、これだけなら法をすり抜けた寄付の形の迂回なので、摘発までされることはないはずだ。
「しかし、正義感の強い八矢さんは、これを表沙汰にすると言った。法を逃れても世論から大きな批判を受けて、企業イメージには打撃になる」
「だから八矢くんを殺したと言うんですか! そんなバカな!」
「違うなら、八矢さんがセイント・セミコンダクターで何をしていたのか、話してもらいましょうか」
駿河専務はいよいよ窮地だ。話せば警察によって、警視庁と経済産業省が画策したセイント・セミコンダクター社救済計画が暴かれてしまう。
否定すれば、自分が殺人事件にかかわる人物だ。事実を隠したままこの疑いを晴らせるのか。
「吉川さん、ちょっと」
同僚の刑事が呼びにきて、吉川巡査部長は席を外す。
そして戻ってきたとき、駿河専務が知った顔が伴われていた。
ひと月半以上、連絡が途絶えていたコンサルタントの野村ユカリがそこにいるのである。
濃紺のスーツに淡桃色のブラウス、臙脂色の吊り目眼鏡をかけた彼女は、前に会ったときよりも髪が伸び、さらに才媛の印象が強い。
「任意出頭をかけるからには、ある程度の裏づけがあるのでしょう? まず示していただけますか」
まるで依頼を受けた弁護士のように、鋭く詰問する。
「エムジー工業への売り上げは不自然で、被害者の八矢さんがこれに気づかないとは思えません。輸出に携わるなら、当然調べようとするでしょう」
山本恵梨香からの供述を盾にすると思われたが、吉川巡査部長は数字上の根拠だけを示してくる。これはヒカリとの打ち合わせどおりのことなのだ。
「私は任意出頭させるに値する事実を示すよう言っています。輸出品目と数量を照合したのですか? その結果で不審があるとしたのですか? あったとして、駿河専務の指示という見込みは? 私はそもそも出頭する必要があったのかを聞いているのです」
「いや、出頭は任意でして……」
「先に出頭させた山本恵梨香さんから、めぼしい情報を引き出せなかった。だから駿河専務を引っ張った。違いますか?」
吉川巡査部長は、うっ、と小さく唸る。
「山本さんが供述したと匂わせるつもりだったのでしょう?」
恵梨香が還流のことを話さなかったなら、まだ留め置かれているとは思えない。自分と入れ替わりで帰されたと駿河専務にもわかる。
ヒカリは蔑むような目を、口ごもる吉川巡査部長へ向けるのだ。
「私に出頭をかけたときもそうだったではありませんか。あなたがたは足で証拠をつかむよりも、机の上でカマをかけてボロ出しを待つ、ぐうたら警察官ですよ」
ヒカリが駿河専務を連れ帰ってから、吉川巡査部長は机に向かってぼやくのである。
「打ち合わせどおりに進めたのでこれで良しなんだが、最後のあのセリフはなあ。あそこまでコテンパンに言うことないだろう……」
最後だけ、シナリオにはなかったヒカリのアドリブだったのである。
駿河専務はヒカリを連れて赤坂の料亭をくぐる。経済産業省時代、幾度となく会合に使った官僚御用達の店だ。任意出頭のはずが、逆に警察をやり込めて帰ってきたこの痛快さ。駿河専務はヒカリをもてなさずにはいられない。
「野村さん。お酒はだめだと聞いてますので、まずはこれを」
緑茶葉を丁寧に濾して深い味を封じた茶水である。高級な抹茶の鼻腔にまで広がる風味とは違う、凝集された趣きの濃い味わいだ。
これを嗜めることは、官僚でもそう多くはない。価格そのものは高くはないが、事務次官にお出まし願うような会合でなければ、まずは出さないステイタス品だ。
「茶水をいただくようなことではありません。ですが、お気持ちなのでいただきますよ」
ひと口含むと、
「これは味わい深いです。茶葉は珍しい土地のですか?」
小さな湯呑みに揺れる茶水の面に、ヒカリは楽しげな目を送る。
中居は驚いている。ひと口で茶葉の産地がありきたりでないことを見抜いたのは、ヒカリがはじめてだという。
「素晴らしいご慧眼です。新潟から取り寄せた高山茶水です」
「豪雪地域でしたか。もしや村上よりも北ですか?」
日本茶の産地は新潟の村上が北限とされている。だがそれより北、山形県寄りの高山に個人で茶葉を栽培する好事家がおり、水やりは雪融け水だけを使う変わった方法だそうだ。この家は、山葵も雪融け水の池で育てているという。
「良いものを口にさせていただきました」
そういうヒカリは、実はこの茶水を知っていたのである。麗華のお伴で別の料亭だが、高山茶水をいただき、その講釈まで聞かされたことがあるのだ。
だから慧眼などではないのだが、ここは駿河専務を感心させておくほうが良い。
事実、駿河専務は、並どころか上流階級でも知らない者が多い高山茶水のことを見抜くヒカリに、すっかり感心している。経歴書にも大物の顧客が記されていたが、これなら大いに信頼されていただろうと思えるのだ。
そして振る舞われた料理についても、食材や下ごしらえから調理技術まで、駿河専務にぜんぶ解説してみせる。料理の専門家と同じレベルの高さ。だがヒカリの知識ならたやすい。
中居だけでなく、品書きの説明のために来室した板長までが、唖然としながらヒカリの解説を聞く。
そのヒカリが、食材の選別から調理工夫まで褒め尽くし、大変美味しくいただきました、と締めくくると、板長はまるで高名な料理評論家に高評をもらったかのようにかしこまるのである。
食事を終えて、フルーツと飲み物だけが残り、中居も遠慮をする。たいがい、官僚たちはここから重要な相談をするからだ。
「駿河専務。そろそろお仕事のお話をいたしましょう。私も二か月前、警察から任意で聴取を受けました。そのとき警察から、八矢圭吾さんの殺害事件と台湾企業への転売との関連を示唆されました。私が深い事情を知っているかもしれないとみて、カマをかけてきたのです」
こんな作り話も、今の駿河専務には疑う余地もない。所轄は殺人事件の捜査のためにその背景を探るのだから、セイント・セミコンダクター社の技術漏洩の原因となった転売のことは、真実の追及までは行わずともよいのだ。殺害動機にそれがあると見込まれるだけで十分に容疑をかけられる。
「小林常務が、あなたが警察で事情を聴かれたようだと言っていましたが、やはりそうだったのですね」
「私は逆に警察の見込みを引き出しましたが、どうも警察の推理は的を射ていないように感じました。ですので、この二か月、私なりに調査をいたしました」
ヒカリは瑠璃をかばって瀕死になってからの期間を、調査に充てたと偽っておく。これでコンサルタントとしてセイント・セミコンダクター社に復帰するのに名目が立つ。
「駿河さん。ことのはじめは半導体の転売ではありませんね。そのもっと前に、ハウエル・エレクトロニクス社との受注競争があった」
ハウエル・エレクトロニクスというライバル会社とのしのぎを削る受注獲得競争があったことは、このコンサルタントにはまだ話していなかった。駿河専務は、的確なコンサルティングを支えているのは、調査能力の高さなのだろうと合点する。
「うちの技術漏洩、台湾企業からの攻撃の点では、そのとおりです。はじまりはハウエルとの獲得競争でした。八矢くんが警視庁からうちにきたのは、ハウエルとの競争に勝ってからなので、ハウエルとは関係はないでしょう。ただ……」
ここで駿河専務の口をとめるヒカリだ。襖を少し開いて、中居が近くにいないかを確かめてみる。そしてこういうのだ。
「盗聴器が隠されていないか調べてみます」
圭吾から盗聴器を仕掛けるならどこが見つからないのか、レクチャーをされたことのあるヒカリである。テーブルの裏や掛け軸の陰などはすぐに見つけられる。隠すなら照明、鴨居など部屋と一体の場所だ。
「野村さんは、我々が探られていると考えているのですか」
盗聴器はないと聞き、駿河専務も考えすぎでは、というのだが、ヒカリは厳しい目を見せている。
「経産省にはセイント・セミコンダクターを切り捨てようとしている一派がいます。ここは経産省官僚がよく利用する料亭ですよ」
駿河専務もあっとなる。礼をしたい一心で、知っている店でもっとも高級な料亭を選んだが、ここを知っている理由は自分が経済産業省の官僚だったからだ。
駿河専務が来店したのを見て、すぐに経済産業省の何者かに知らせ、その指示を受けた者が店にいるかもしれない。その注意を払わなければならなかったのだ。
「経産省と通じている人は、この時間たまたまいなかったのでしょう。でも省庁が利用する店では、今後は気をつけなければいけません。なにか込み入ったお話があるときは、私の懇意のお店を使いましょう。小林常務さんも一度お連れしたことがあるところで、オープンながら秘密も守られ安心です」
今は話を聞かれる恐れはないので、ここで話を聞かせてください、とヒカリは落ち着いた声で促す。
もうこの時点で、コンサルタントとして超一流であると確信する駿河専務である。
「私が怪しいとにらんでいるのは、ハウエル・エレクトロニクスです。受注競争はメモリー開発で先んじたセイント・セミコンダクターが勝ちました。半導体を抱き合わせることで、半導体輸出でもハウエルの上をいくことができたわけです。それをハウエルは指をくわえて見ていただけなのか」
「野村さんは、ハウエルが裏で動きを見せていると?」
「駿河さんは先ほど、八矢さんの件とハウエルは関係ない、と言ったあと、ただ、とつづけました。ハウエル側に気になる人物がいるのではないですか?」
「野村さんはもうお見通しのようですな」
「ハウエル・エレクトロニクスの輸出調整部長川原謙次郎は、部下の女性を下請けの女社長と偽って、エムジー工業に近づけていることがわかっています。選んだ人材はいかにもスパイを疑うような若い女性ではない。勤続年数の長い、五十間近の人です」
「八矢くんが死んで、エムジー工業は還流分の付け替えを拒みました。八矢くんの才覚で売り上げにつけていたので、死んでしまいその方法が分からなくなったためかと思っていたが、違っていたのですか?」
「エムジー工業側は付け替えの方法を知っていたはずです。八矢さんが単独で行っていたなら、向こうの経理が謎の売り上げを放っておいたことになります。八矢さんがいなくても、付け替えはできたのです。昨年の二月、エムジー工業への売り上げが極端に落ち込んだのは、八矢さんがいなくなったことに乗じて、ハウエルが付け替えをしないようエムジー工業に働きかけた。そのぶんの遺失利益は補償するとでも持ちかけたのでしょう。その補償は下請けの社長自らが、単価の引き下げを提示する形で行ったのです」
「部下の女性を下請けに偽らせたのはそのためですか。しかし、勝手に単価の引き下げなど、本物の下請けが拒否したらどうするつもりだったのか」
「そうです。そして。もうひとつ。セイント・セミコンダクターも対抗して引き下げたら、この策は半分意味を失います。付け替え利益を失わせただけに過ぎず、受注は再びハウエルの負けに転じます」
三月に再び還流分が売り上げに付けられるようになったのは、圭吾がその方法を遺していたのが発見されたからだということになっていた。しかし、エムジー工業が付け替え方法を知っていたわけだから、遺していたのは付け替え方法ではなく、エムジー工業が付け替えをしなければいけなくなる後ろ暗い理由であろうとヒカリは読んでいる。
「ハウエルはエムジー工業が八矢さんに弱みを握られているとまでは考えていなかったと思います。だからこの策をとった。結果、元の木阿弥になり、還流分の付け替えは再開されました。それにもかかわらず、部下の女性たちを偽らせているのは継続しています。なにか策があってなのか、逆に策を模索するためなのか」
「野村さんはそれと、台湾企業がうちへ手を伸ばしていることと関連があると?」
「台湾はセイント・セミコンダクターの内情にある程度詳しいです。それは役員を送り込んでくる前からです。役員を通じてこちらの内情を知ったのではなく、内情を知って役員を送り、実質的な乗っ取りに舵を切った。内情はハウエルを通してエムジー工業へ、エムジーからこちらにかかわる台湾企業へと渡ったのではないでしょうか?」
ヒカリの推測は、駿河専務にもひとつの可能性を導かせる。
「では、ハウエルに内通している者が、セイント・セミコンダクターの中にいる……」
「八矢さんが亡くなった理由、殺害されたと聞いていますが、なにかの弱みを握られていたエムジー工業、あるいはエムジー工業を助けることで得をし恩を売ることもできるハウエル・エレクトロニクスの手によるとは考えられないでしょうか?」
ここがヒカリにとって一番重要なところだ。なぜ圭吾が命を奪われたかは、セイント・セミコンダクターでの役割りと、碧泉院流親占教会の捜査が絡み合っている可能性は十分にある。
圭吾と駿河専務が面識を得たのは、いつ、どこでなのか。
ヒカリの推理はこうだ。
警視庁から派遣される以前、献金の打ち合わせのために駿河専務が親占教会を訪れ、教会業務の手伝いとして潜入していた圭吾は身分を隠して駿河専務に近づいた。そのとき、圭吾はセイント・セミコンダクター社からの不正な金の流れを手助けして、疑獄の証拠をつかんだ。
だが、すぐには警視庁に報告しなかった。ここで手入れがされたら、ヒカリの両親の殺害犯人にたどりつけなくなるからだ。圭吾はこの犯人を突き止めるまで、親占教会での政財界の不正を寝かせておくつもりだった。
だが、肝心の犯人像はなかなか浮かばない。そのうちに、圭吾はセイント・セミコンダクターへの潜入を兼任させられる。そこで駿河専務と再会。圭吾の素性を知った駿河専務は、セイント・セミコンダクター社救済のために派遣されてきたと知り、もとより政界への闇献金を手伝った人物なのだから、信頼して自分の庇護下に置いたのだ。
ヒカリはふうむと考える。駿河専務の話を基にするならば、ヒカリの両親の独立の企てが、政財界のつながりを阻害する結果をもたらす場合なら、殺害の動機として成立する。
だがその構図なら、利益を損なう人物を洗い出すことは難しくない。圭吾が事件の真相に迫れなかったのはなぜだろう。やはり、もっと裏がある。
駿河専務には、八矢さんも内通者がいる疑いを持っていたと思われます、と伝えておくのは、今後セイント・セミコンダクター社内で動くのにお墨付きを持つに等しい手札になる。
「構いませんとも。野村さんの打ちたい手があれば、なんでもご相談ください」
駿河専務ももはやヒカリの手駒だ。愛人という山本恵梨香にも、手懐ける餌を与えておこう。
駿河専務が圭吾と以前からの知己があったのなら、警視庁の富樫総務部長とは直接の接点はなかったかもしれない。この点はヒカリにとって痛いが、ハウエル・エレクトロニクス社とエムジー工業とのつながりがつかめれば、そこから圭吾の事件に結びつけることは可能だ。
「セイント・セミコンダクターの輸出の過程を知る誰かが内通者ですから、その人物をあぶり出すことが先決です。ハウエルはセイント・セミコンダクターを追い落とすなにかの手段を、今講じているさなかのはずですから。明日から私も、セイント・セミコンダクターに出社します」




