最終話「悲歌」23
「瑠璃さん、鋼音、ちょっときなさい」
元旦のお昼に、ヒカリはふたりを呼ぶと、それぞれに大きな厚箱を渡すのである。
「開けてみなさいな」
ふたりが蓋をはずしてみると、艶やかな絹織物の柄が目にまぶしい。
振袖である。
「それを着て、初詣に行きましょう。瑠璃さんのおうちにもあいさつに寄るからね」
いつもなら、わーいという鋼音、やったという瑠璃の声が聞けるのだが、今回は違う。ふたりともあまりの驚きと感激で、声すら出ないのであった。
「やあねえ。レンタルなんだから、そんなに感動しないで良くてよ」
軽い気持ちで呉服屋から借りたのだが、ヒカリのほうが困惑してしまう。ふたりとも喜びをはるか通り越してしまっているのだ。
「ヒカリさん……。一度でいいから、こんなの着てみたかったです。夢が叶った……」
夢心地の瑠璃がつぶやくと、鋼音も、
「ヒカリさん。私、変身します」
抑揚なく口にする。
「あんたたち、大袈裟過ぎるわよ」
とはいえ、ふたりの振袖姿をみんなに見てもらいたい。元締めのところにもご挨拶しましょう、と自分の振袖も広げてみる。
「ブラをつけてもズレてしまうわよ」
「ショーツをはいてしまうと、トイレのときに困るわよ」
下着のまま和装肌着をつけようとする鋼音を、立てつづけに見咎めるヒカリだ。
「着物って、下着つけないんですよね」
瑠璃にもそのくらいの知識はある。着物の下に、肌襦袢と裾除けもたたまれて入れてあった。
そして細工の凝ったきらびやかな簪。日本髪でなくてもつけられる髪留め型だ。
「い、意外に寒いわね」
三人で着付けをどうにかこなして外に出てみるものの、振袖は風を通す。寒風吹きすさぶと身を縮めてしまうヒカリだ。
ヒカリも実は和装の経験が七五三しかない。防寒が必要であるとここで理解するのである。
「ヒカリさん、風邪を引いたら大変です。上着出しましょう」
瑠璃と鋼音はどうやら平気らしい。簪を揺らして、瑠璃は三階まで戻っていく。
ヒカリはなんだか自分が若くない気がしてしまう。
「あんたたちとの年齢差を感じたわ」
「そんな。三つしか違わないのに」
その三つが大きな隔たりとしてそびえているのよ、とヒカリは自虐気味に笑うのだが、瑠璃にはとてもジョークに聞こえない。
ヒカリの寒がりかたがどうしても気になる。
ヒカリの体が戻っていないだけでない。弱っているのだ。
「ヒカリさん。やっぱり初詣だけにしましょう。私の家と元締めへは、いったん戻ってから、私と鋼音で行ってきます」
「なに、大丈夫よ。もうAEDも持ち歩いてないのよ。元日くらい歩かせなさいな。せっかくの振袖なんだから」
これでもあんたたちと同じくらいウキウキしてるのよ、と言われてしまうと、瑠璃も鋼音もダメですとは押しきれない。
街の中心部から二十分ほど歩いたところにある『曽根八幡神社』。
詣でられる本殿をもつ大きな神社は、この街にはここしかない。だから街のみんながひとところにやってくる。昼になっても願掛けをしたい人で、大変な人混みだ。
ヒカリたちが並んで待つこと三十分。ようやく鈴緒をつかめるところまでたどり着き、ヒカリが本坪鈴を鳴らすと、パンパンと柏手を打ってそれぞれ願いごとをかける。
「お賽銭よ」
ヒカリから千円札を渡されたふたりは、わっこんなに、と驚くが、そのあとに五円玉も握らされる。
「私たちが出会えた縁に感謝するなら、この五円も奉じなさい」
ご縁と五円を引っ掛ける洒落は昔から聞くが、ヒカリから授けられると、本当に尊い五円玉に見える。それも令和元年──出会いの年の鋳造なのだ。
ヒカリは令和元年に出会えたみなとの縁を感謝しながら、五円玉を放る。
瑠璃も、ヒカリと仲間たち、ユミカ、美歌、そしてかけがえのない親友となった鋼音との出会いを神様に感謝する。
そして鋼音。
──神様。ヒカリさんを助けてくれてありがとうございます。このお返しは必ずします。
ヒカリが心肺停止に陥ったあの日と同じように、同じ文言を何度も繰り返すのである。
参拝を済ませて脇にずれた三人は、戻り道になる石畳で、なにやら揉めごとが起きているのを目にする。
「あらまあ」
見ると中年の男女が、男ばかり若い三人組に詰め寄られているのだ。
そのうちに、若いほうのひとりが男性を思い切り殴りつける。
「先に通報しておきましょう」
ヒカリは捜査一課に直接電話をかけて、喧嘩から暴行に進んだことを伝えると、みなさん今年もよろしくお願いしますね、と暢気に新年のあいさつを加える。ヒカリの様子はまったく慌てていない。大ごとにはならないと踏んだのだ。
「さて、あんたたち、そこで見てなさい」
瑠璃と鋼音を待たせて、そのへんにしときなさいな、と若者たちに声をかける。
色鮮やかな振袖の女の子に仲裁されると、男三人も振り上げた拳を引っ込めざるをえない。代わりに口で精いっぱい罵る。
「ほっといてくれよ。こいつは、女を二股かけてる汚ねえ奴なんだ」
となると、一緒にいる女性は二股のうちのひとりということだ。男女とも五十路くらいに見えるが、夫婦ではないらしい。
二股と聞いて、ヒカリも男たちに怒る理由があるとわかってくる。
「事情はわからないけど、殴ってしまえば全部あなたに非があることになるわ。話し合えとは言わないけど、暴力ごときに解決力なんてありゃしないのよ」
「許せねえんだよ、こいつを」
そう吐き捨てるのは殴った本人だ。ほかのふたりはどうやら付き合いらしい。
「汚いとか許せないとか言うってことは、あなたはこの人たちの知り合いね。なにかを解決する気なんかさらさらなくて、痛い目にあわせて留飲を下げたい、てことでしょう?」
図星をさされて、若者たちは黙ってしまう。
「神殿の前だから、神様もどっちかに味方するでしょうけど、これ見たら殴られたこっちの人たちに付くと思わない?」
すっかりヒカリのペースにのまれて、若者たちは気勢が削がれてしまう。神様はともかく、運のほうが味方していないと感じてくるのだ。
「ちっ。今日はいいや。今度顔見たらそんときはな──」
ジーンズのポケットに手を突っ込みながら去っていく。その方向の奥から、私服姿の吉川巡査部長が小走りにこちらへ向かってくるのが見える。
ヒカリは無言で三人組を指で示すと、吉川巡査部長がうなずいている。伝わったようだから、そっちは良いだろう。
ヒカリは、被害者となる男女に声をかける。
「お怪我はありませんか」
男性の殴られた顔は腫れてもおらず、殴った若者はさほどの腕力ではなかったらしい。
「いや、ありがとうございます」
頬をさすりながら立ち上がると、女性のほうを見やる。女性はヒカリに形だけひと言礼を口にしたあと、若者たちの暴行を強く非難しないで、まるで逃がしたように行かせたと文句を漏らすのだ。
それを聞いた瑠璃と鋼音が、プンプン怒ってこちらに歩み寄ってくる。
「あのですねえ!」
目を吊り上げんばかりの瑠璃を制して、微笑みを浮かべたヒカリは黙って若者たちが立ち去った方向に顔を向ける。すると、吉川巡査部長が三人を連行するところである。
「あっ……そういうことだったんですか。ごめんなさい」
すでに通報済みだったから、警察の到着まで会話で時間を引き延ばしたとわかり、女性は打って変わって深々と頭を下げるほかない。
「深い配慮に気づかずに申し訳ありません。私、こういう者です。いずれお礼をば」
男性が懐から名刺を差し出してくる。
「こちらも子連れなので、見ぬふりは教育上よろしくありません。そしてこんなことで礼をされるのも教育として困ります」
そう言いながら名刺に目をやり、一瞬息をのむヒカリである。
ハウエル・エレクトロニクス株式会社の輸出調整部部長という肩書きを持つ名は、川原謙次郎。葉山由紀子が結婚を望む相手と同名である。おそらく本人だろうが、ここは確かめておきたい。
「私、八矢ヒカリと申します。これは娘たちです」
瑠璃と鋼音を娘と紹介するのである。
年齢がどうの以前に、振袖を着た母親などおかしい。それにこんなところで母娘になっても不自然だろうに、と瑠璃は訝るが、ヒカリにはなにか思惑があるのだろう。話をあわせておくことにする。鋼音も察したようだ。
「お母さん、こちらの人、素敵なネイルしてるよ。私もやってみたいな」
目敏く褒めるところを見つけた瑠璃は、ヒカリがこの女性と話すきっかけを探していることに気づいたのだ。
「あなた、ずいぶん若いお母さんなんですね。てっきり十代かと思ってましたけど」
ヒカリの左手薬指に結婚指輪が光っているのを見つけ、実母でないだけだろうと、女性は気にしないことにする。
「私、橋中円香です。私のネイルで良ければ、いつでもメイクしてあげますよ。私にも娘がいまして、大学に行かせていますが、毎朝ネイルの手をかけてあげるんですよ」
趣味が高じてネイルの悦びを人に伝えているのだという。素人ながら技術も高いようだ。素敵なネイルと持ち上げられて、すっかり気を良くしている円香である。
そして彼女は、占った由紀子のライバルのうちひとりと同名だから、これで当事者たちと確定した。ヒカリはここから進めたい展開を瞬時にまとめる。
「それは、娘さんには自慢のお母さんですね。私もなにか尊敬されることを身につけなければ」
そんな謙遜を口にするヒカリは、円香は押しつけが強く、おだてに弱いと見抜く。
この性格は、自分を認めてくれる人に心許すはずだ。といって、あからさまな媚売りのような態度は嫌う。
ヒカリは遠回しに、円香を肯定するようなことを言ってみる。
「見たところ、お付き合いされていらっしゃるようですね。二股などと言われてしまい、お腹立ちでしょうが、こんなときこそ泰然自若で揺るがない気持ちを男性にはお示しください。私は女性として、自分の愛情、お相手の愛情を信じるべきと思います」
優しい目で達観したかのような言葉をかけるヒカリに、まだ若いのに、と円香は驚いてしまう。
この人ともう少し話してみたい、と思ったときに、お母さん早くいきましょう、と子ども役の瑠璃たちが急かすのである。瑠璃と鋼音は、ヒカリの目配せに応えたのだ。もっと話したいところで別れるほうが、次に会ったときに向こうから親しく話しかけてくるはずだ、というヒカリの読みである。
そして、ではご機嫌よう、と軽く会釈して立ち去るヒカリたちは、その足を所轄に向けるのである。
「吉川さん、先ほどはお疲れさまでした」
振袖姿の女の子三人が入いるだけで、捜査一課は途端に華やぐ。課長がいたら、鼻の下を伸ばしていたであろう。
「元日は揉めごとが多い日ではありますが、どれも些細なもので、こんなのはほぼ雑務同然ですよ」
内勤だから、捜査一課で出勤しているのは吉川巡査部長ともうひとりだけ。もちろん事件発生となれば全員が呼び出されるので自宅待機しているはずだが、三が日はよほどでない限り公休の者を呼び出すことはないという。元日に勤務が当たった吉川巡査部長は貧乏くじを引いたのだろう。
「被害者に届けを出させず、そのままでしたね。あの三人も説教だけで放免しましたが、なにかワケありですか?」
「あの男女はどうやら、浮気のような交際らしいのです。警察で事情を聴かれたくないと見ましたし、実際に吉川さんがあの三人を捕まえたのを目にしても、被害者と名乗り出ませんでした」
「なるほど。どちらか、あるいは両方が既婚者なのですかね」
「いえ。どちらも独身なのですが、男性のほうには他に交際している女性がいて、殴った若い人は、その女性のお子さんと推測します」
「つまり、自分の母親の恋人が、ほかの女性にも手を出しているいることに怒っての犯行だったと?」
「ええ。男性に対して、二股をかけやがって、と怒鳴っていました。でも、それだけで終わらないのです」
「といいますと?」
ヒカリはため息まじりに、薄く苦笑いをする。
「二股ではなく、三股なのですよ。あとひとり、登場人物がいるのですが、それがあかりの被験者で、この男性との結婚を望んでいるんです」
男性はこういう人なんですが、ともらった名刺を吉川巡査部長に見せてみる。
「ハウエル・エレクトロニクス。半導体大手ですな。そこの輸出を担う部長ともなれば、収入もかなりあるでしょう」
「ええ。三人の女性と付き合うくらいの甲斐性はあるんでしょうね。でも、三人ともまったく若くない、アラフィフの女性です。うちふたりは大きい子がいて、とても遊びの恋愛の相手ではありません」
「遊びではないとしたら、残りの人生の伴侶のとして真剣な交際ですか」
「であればいいのですが、三人と選ばれないと私は見ています。ですが、この元旦に揃って初詣に訪れる相手がいるとなると、私の読みはハズレなのかもしれません。もちろん、男性の方は暇だから付き合ったという可能性もありますが」
ヒカリが姓名と生年月日で観た結婚運は、橋中円香が三人の中ではもっとも縁高い目であった。しかし、それが謙次郎との縁とはまったく限らない。
謙次郎と三人の女性との相関をまとめると、まず謙次郎には少なくとも周囲に交際していると認識されている女性がいる。それが殴った男の母親だ。
しかし、他にも行動をともにする女性がいて、それが今日一緒にいた橋中円香。他にもうひとり、この男性と結婚したい女性がおり、葉山由紀子がその人。
構図としてはわかりやすい。
だが謙次郎がどういうつもりなのか。単に熟女好きなのか、他に意図があるのか。
三人とも謙次郎と年齢が近いので話しやすい側面はあろうが、それでも会社では上司と部下でくだけた接し方ができるわけでもないだろう。由紀子が結婚することを終点にするような言動をするのは、由紀子本人ではなく、謙次郎のほうに理由があるのかもしれないとまで思えてくる。
「吉川さん。差し支えなければ、殴った男の人の情報をおしえてもらえませんか。あかりの被験者の人も結婚へのこだわりが尋常でなく強くて、一筋縄の事情ではなさそうなのです。みんながかわいそうなことにならないよう、手はかけてあげようと思うのです」
「ヒカリさんらしいですな。セイント・セミコンダクターのことは、通常シフトに戻る正月明けから動きますから、それまでお好きに動いてみてください。あの若い男三人も、これ以上危険なことをしでかすことはないでしょう」
ヒカリは、川原謙次郎の名刺と、放免された男たちの氏名と住所、アルバイト先などの情報を手帳にはさめて、瑠璃と鋼音を伴い所轄を出る。
捜査一課から見送られる間際に、吉川巡査部長はこんなことを耳にいれてきた。
「予備知識なのですが、ハウエル・エレクトロニクスは、セイント・セミコンダクターの直接のライバル会社です。こちらも台湾企業との取り引きがあり、この川原という部長はセイント・セミコンダクターとの受注合戦をおこなう立場でしょう」
セイント・セミコンダクター社の誰かが、自社技術を台湾企業に漏洩していたのだから、ハウエル・エレクトロニクスにとっては不正な競争を強いられていることになる。そんな不利を、責任者の川原はただ黙って眺めていただけなのだろうか?
振袖の上にコートを羽織り、ヒカリはあの川原謙次郎が圭吾の捜査の中にあったかもしれない、と深読みするのだ。
そんなことを考えていると、瑠璃が尋ねてくる。
「ヒカリさん、私たちを娘にしたのは、どんな考えからなんですか?」
「ほんとに娘になっちゃいますよ」
鋼音も振袖の袖を広げて娘の仕草をしてみせる。
「橋中円香さんとはまた会うことになるわ。そのときのための細工よ」
親にまで悲壮な思いをさせている葉山由紀子の結婚願望、三人の中の三番手では成就の可能性は薄い。
ヒカリは由紀子本人とは会っていないが、なるべく傷つかないようにことをおさめてあげたいと考えている。そのためには、今日の様子からおそらく実質本命であろう円香をどう動かすかが問題だ。
──いえ、円香さんだって、選ばれるとは限らない。そうだわ。
三人とも熟年の女性。それにとらわれすぎた。ヒカリは、そうかと気づく。
それ以前に、三人とも部下なのだ。
ハウエル・エレクトロニクスの輸出調整部。ここの事情を知っておかなければならない。
ヒカリはあかりに電話をかける。由紀子もハウエル・エレクトロニクスの社員なのだ。さぐりはそこから入れてみようと思い立つのである。




