最終話「悲歌」22
工藤巡査は美人ではないし、体型も女性らしい魅力には足りない。だが世の中、それが男性との縁を妨げるかというとそうではなく、容姿も体型も、さらに性格も良くない女性が素敵な恋をして結ばれることなどざらにあるとヒカリは知っている。
しかし工藤巡査は、そうした縁には恵まれなかった。警視庁の庁舎ではじめて八矢圭吾という青年に引き合わされたのは、当時公安部長職にあった神林との会席に連れて行かれた日だった。
異母兄である富樫総務部長の就任祝いであり、彼の昇進と同時に工藤巡査も総務部に異動となった。
そもそも工藤巡査が警視庁に入庁したのも、この兄の力である。工藤巡査は私生児として生まれ育ったが、父は警察畑で重職を勤め上げた人物で、母はいわゆる浮気相手だったのだが、生まれた女の子には父親の責任を果たさなかった。
父は病気で余命いくばくと宣告されて、はじめて工藤巡査に娘らしい扱いをした。遺言に遺産の分割を充てたのである。
それを知った本妻の子どもたち四人は、自分たちに妹がいる事実を知り、まさかと驚愕する。本妻は怒りのあまり泣き腫らしていたが、子どもたちは違った。男ばかりの汗臭い兄弟と思っていたのが、歳の離れた妹の存在は、彩りをもたらしたのである。
四人兄弟は、父がなにもしなかったことに憤慨し、生活費の援助もした。なかでも長兄は、工藤巡査のことをことのほか可愛がり、すでに警視庁のキャリア官僚として収入もあったので、高校と大学の学費も拠出した。
その長兄が今の富樫総務部長である。
昇進祝いの席で、入庁一年目の圭吾と隣合わせに座った工藤巡査は、弟のように初々しい圭吾に姉貴面で接した。この歳に三十路を迎えるがまだ独り身の工藤巡査は、四人の兄とはまったく異なる年下の男性と親しくなるのが楽しかった。
だがこのときは、まだ恋を意識することもなく、富樫総務部長もこの若造を妹の相手になどとはまったく考えていない。
しかし、翌年である。小さい捜査をそつなくこなして、実績を積み上げてきた圭吾は、神林公安部長に呼ばれる。
「今後は潜入捜査官として任に当たるように」
大きな期待を受けての抜擢だった。折りしも、潜入捜査官としていくつも手柄をあげていた入山捜査官が、大きな仕事のために表向き殉職することになり、公安を離れることが決まったという。この仕事のあとは、民間の協力会社に移籍することになる。
圭吾と公私ともに親しかった入山捜査官の新しい戸籍を、工藤巡査は総務省内で作成した。このとき、入山捜査官の希望を伝えに圭吾も同行したのである。
入山捜査官は、押野勇気の戸籍を取得し、新しい任務に向かう。
これで神林公安部長は信頼できる潜入捜査官が横溝捜査官ひとりだけになった。その横溝も、任侠組織へすでに潜入しており、動ける駒はいない。早急にもう一名を育成する必要があったのだ。
一年ぶりに再会した圭吾は、見違えて頼りがいのある男性と工藤巡査には映った。
八歳も年下の圭吾だが、工藤巡査の前では無理に背伸びもせず、ここぞという場面には明晰な頭脳と判断力、そして男らしい決断力を見せる。もう姉のような顔をする必要もない。
工藤巡査の女心に恋慕が芽生えるのも当然だった。
しかし、将来を嘱望される若手と、婚期を逸した自分との釣り合いを考えると、自分からは告白どころか、食事や飲み会の誘いもかけることができない。
ある時、富樫総務部長から、見合いをする気はないかと尋ねられた。
その時、工藤巡査ははじめて、好きな人がいると兄に打ち明ける。だが、それが圭吾だとは言えなかった。
仲を取り持つという兄の厚意を断って、遠くから圭吾のことをみていることで、ひとまず自分を満足させる工藤巡査だったのである。
圭吾とは時おり食事をともにすることができるまでになったが、圭吾ははじめから変わらず、他人行儀なところがあった。だが、誘えば断らずに、笑顔で時間をともにしてくれる。これなら正式な交際をしてくれるのではないか。そう期待した。
だが、工藤巡査は、実は富樫総務部長の妹であることをまだ隠していた。今は総務と公安の関係は良いが、自分と結婚したら立場上苦悩することもありうると考えると、自分から行動に移せない。
また一年たち、富樫総務部長は、好きな人とはどうなっているんだ、と質してくる。ついに工藤巡査は、富樫総務部長に打ち明けることにした。
富樫総務部長は、まさか八つも年下の男に恋しているとは思いもかけずにいたが、それ以上に圭吾が主戦の潜入捜査官として、いつでも危険な任務にも駆り出される立場にあることが気にかかった。
そこで、危険はないだろうと見られる、総務部案件のカズサビューティーグループの違法な診療と脱税の捜査を、公安の圭吾に依頼することにした。極秘任務という名目だが、総務部によるカズサビューティーグループの救済だ。新宿クリニックの上の者には身分も明かしての作業となる。
神林公安部長に対して、圭吾を指名すると、快諾をもらえた。富樫総務部長は、同時に妹の工藤巡査もカズサビューティーに潜入させ、圭吾を助けて仲を深めてこいと背中をつつく。
だが、結果は失恋に終わった。今は結婚は考えない、将来結婚するときは年下が良い、と圭吾ははっきりと言ったのだそうだ。
自分を拒否しないのだから、向こうも好意をもっていると思い込んだ工藤巡査は、ふさぎ込んで絶食した。これではカズサビューティーでの仕事もできず、富樫総務部長は工藤巡査を引き揚げさせる。
傷心の工藤巡査は休職までして、それでも圭吾への想いは募るばかりだった。
公安部長は神林の定年退職に伴い、今泉が警備部の課長から公安へ異動し、すぐ部長に昇進した。今泉公安部長は、かねてからの懸案だった碧泉院流親占教会を通しての政財界のつながりと、主に政治資金規制に関わる疑獄の案件を、圭吾に担当させることにした。圭吾は今や横溝捜査官と並ぶ潜入捜査のプロフェッショナルであり、親占教会の葛原麗華と顔見知りだから捜査官と疑われにくい。前任の神林公安部長派なのは気に入らないが、他に人選がなかったのである。
強硬な捜査手法を使う今泉公安部長は、富樫総務部長にとっては相容れない相手だ。だが妹のためにひとつ頼みごとを持ち込んだ富樫総務部長である。
その頼みとは、圭吾の捜査は、工藤巡査を通して警視庁に報告することである。実務上必要のない役割りだが、工藤巡査と圭吾との関わりを持たせるために、無理に作ったポジションである。
今泉公安部長は、経済産業省への報告に手落ちがあっては責任問題だから、同じ部長職である富樫総務部長と合議してまとめたいのが本音であった。
顔が割れないために親占教会へは出入りしないことを条件に、工藤巡査の報告役は実現し、彼女は定期的に親占教会の近くに出向き、圭吾の報告を受け取った。
そのうちに、圭吾が公安の捜査とは関係のないことを詳細に調べていることに工藤巡査は気づく。
これが以前発生した、親占教会所属の占術士夫婦殺害事件のことだとわかるのに、そう時間はかからなかった。
工藤巡査は、なぜそんな捜査を並行しているのか尋ねるが、はじめは圭吾は固く理由を守った。だが、任務以外の捜査を行うのは、公安の処罰対象になる。圭吾は母親のための捜査だと秘密を打ち明け、工藤巡査はこれを報告せずに、圭吾の好きなようにさせると約束する。そして、条件として、自分と交際することを迫った。
工藤巡査もやはり、こんなやり方で圭吾の気持ちが自分に向かうとは思っていない。そもそも、自分は圭吾の好みの女性には遠い。だが、秘密を共有したことで、工藤巡査の気持ちに余裕をもたらした。
だから、一緒に食事をしたり、公園で星を見たりといった、淡い交際からはじめる。ともに過ごす時間を増やしていけば、だんだんと自分に心を寄せてくれるのではないか、そう考えたのである。
だが、そこから一歩踏み出せないのが工藤巡査なのである。ふたりの関係は、まったく進展しなかった。工藤巡査が思い切らなれば、動くはずもなかったのである。
親占教会の看板占術士ヒカリの元に殺害予告が届く。四年前に殺害された占術士夫婦の娘なのだ。
葛原麗華は圭吾をヒカリのボディーガードに充てた。公安配属前に厳しい格闘術を受けた圭吾は、身分は隠してもその技量は示していた。麗華の眼鏡に適ったのである。
そして工藤巡査が夢にも見なかった事態が待ち受ける。
翌日には、句を装った二度目の殺害予告。麗華はヒカリの命を守るために、海外在住の夫婦に養子縁組させ日本国籍を破棄、圭吾と結婚させて新たな日本国籍を取得させた。
工藤巡査は、圭吾がヒカリと結婚したのは、ヒカリを謎の殺人者から守るためだった。そう思っていた。愛情が生まれたのは、一緒に暮らし、ヒカリが若い体で虜にしたからだと。
ヒカリにしても、このような形で結婚することになるとは、当時は夢にも思わない。
「私への殺害予告──。これは圭吾くんのお母さんが仕組んだことでした。私を殺そうとしている人物など実はいないこと、これは圭吾くんも承知でした」
「そんな……。だったら、圭吾は、あなたとの結婚を断ることもできた。なのに、結婚した?」
このひと言で、ヒカリはそうかと合点する。
工藤巡査は碧泉院流親占教会の捜査のこと、ヒカリの両親殺害事件の捜査のこと、どちらも圭吾からすべてを聞かされていない。
なにより、ここまでの工藤巡査の話から、圭吾とは深い関係を結んでいなかったことがわかった。
このつづきは、自分が圭吾と二十四時間一緒にいた日々だ。工藤巡査が入り込む余地はない。
ヒカリは、自分が憑きものに侵されるかもしれない覚悟もしていたことに、今さら気づくのである。
平静な心に戻ったヒカリは、黙って一枚の写真を差し出す。
十歳の圭吾少年に抱っこされた、赤ちゃんのヒカリ。
「私と圭吾くんです」
「え……」
「このとき、私たちは結婚する運命に決まっていました。麗華先生に命じられるまで、その運命に気づかなかっただけなのです」
工藤巡査の顔は、もう悟ったものだった。はじめから、抗っても無駄な逆流を泳ぎきろうとしていたのだと。
「ヒカリさんのことが憎かった……。心ならずも結婚したふたりのはずだったのに、あなたは私から圭吾を奪っていった。若い体を存分に使って虜にしたんだと思った。それは……違っていた」
「ええ。違ってました。私のお母さんと、圭吾くんのお母さん──麗華先生ではなく、母親ふたりの意志が強く反映された結婚。遅かれ早かれ夫婦になって、何もないところから絆を築いていく運命だったのです」
「いえ、違っていたのはそこではなかったんです。鋼音ちゃんと一緒にいて、瑠璃さんの話を聞いて、わかっていたんです。ヒカリさんは圭吾を籠絡したのではなかった、と。私は、圭吾が好きだったのに愛することよりも愛されたかった。ヒカリさんは、逆だった」
「愛されたい気持ちが負になるわけではありません。でも、愛される前に愛さないと、男女の絆は築けない」
「心のどこかではわかってました。でも、できなかった。私にも欲がありました。結婚して、赤ちゃんを産みたかった」
ヒカリはふと、あかりの元へ鑑定に訪れた葉山由紀子が、工藤巡査と重なって見えてくる。
結婚することで完結となる背景。あかりと話しているときは、利害が生まれるような事情かと考えたが、工藤巡査のいう欲──本質はこれなのではないかと思いはじめるヒカリである。
工藤巡査から聞き出せることはもう多くないだろう。圭吾は核心部分を彼女に話していなかった、そうヒカリは考える。
ならば、引き出したい事実はひとつに絞られる。
「碧泉院流親占教会に政界、財界から支援者が集まり、会合を持つようになったのは、自然な流れではなかった。誰かがその出会いを取り持った、そして、取り持ちを依頼した人物がいる、と圭吾くんは考えたはずです」
ヒカリは工藤巡査の返答を待たずにつづけていく。
「取り持ったのが麗華先生ではないのは明らかです。事務局長と私はみています。そして、依頼者は誰なのか。政界、財界ともつながりがある警視庁の人間──お異母兄さんですね」
「いえ……それは……違います」
言葉と裏腹に、工藤巡査はもう観念した表情だ。
もしヒカリが富樫総務部長の結合役に気がついていたなら、警視庁の関与は否定しろと言われてきた。
だが、ヒカリの駆け引きは上をいっていた。
警察庁の黒潮組殲滅作戦は実行前に文部科学省の抗議を受けている。このヒカリの策で遅々として進まないが、頓挫まではいっていない。だが黒潮組を保全する策はできあがっているのだ。株式は持ち株会社に譲渡済みである。
ヒカリの文部科学省への働きかけ次第で、黒潮組を守りながら、警察庁のほうに警視総監の椅子を回すことも可能なのだ。
政界と財界のパイプ役は富樫総務部長──ヒカリの問いに嘘やはぐらかしをしてしまえば、異母兄ばかりでなく、警視庁の誰もが先がない。
ヒカリは黒潮組を守る作戦を立てるにあたり、任侠の利となるだけでなく、黒潮組の構成員をセイント・セミコンダクター社捜査の手足とすること、そして、警視庁に対しては次期警視総監の座を人質にとっていたのだ。
「ここまで考えていたんですか。兄も、今泉部長も、とても及びません」
「私は脅すつもりはありません。でも、圭吾くんがなぜ殺されてしまったのか、誰が手をかけたのか、富樫総務部長からたどっていきます」
「……」
「工藤さんは富樫総務部長の妹さんでしょう。圭吾くんを殺害した犯人は誰なのか、予測が立てられますか?」
ヒカリは工藤巡査の表情を読み取ろうとする。なにかしらの心当たりがあるなら、顔色に出る。
だが、工藤巡査から見えるのは困惑だ。そして考えている。わからないから、推理しようとしているのだ。
「ヒカリさんは、圭吾が殺された理由が、親占教会での政界と財界とのつながりを知りすぎた。それか、汚職に関係する事実を知ってしまったから、とみているんですね?」
親占教会で政界人と財界人が会っていても、それは密会ではない。会って話しているだけなら、誰に見られてもなにもはばかりはないのだ。肝心なのはそこでの話の内容。それを知るためには、なんらかの仕掛けが必要だ。
圭吾は仕掛けていた。
もし、それが見つかってしまったなら、圭吾が殺害される十分な動機になる。
だが、そんなヘマを、手練れの域に達していた潜入捜査官がするだろうか。
「政界には経済産業省につながる政治家、財界のほうにはセイント・セミコンダクターがいる可能性もあるとみています。そうでなければ、セイント・セミコンダクターの駿河専務が会社を救済することに決めたとき、公安ではなく圭吾くんという個人を頼った理由の説明がつきません」
もしかすれば──。
駿河専務は、圭吾が公安の捜査官として派遣されてくるよりも前に、親占教会で圭吾と面識があったのでは?
「あと数分で年が明けます。ここらで一休みして、新年を祝いましょう」
ヒカリは携帯電話で鋼音を呼び出す。
「冷蔵庫にあかり用の袋があるから、そこから工藤さんへお酒いろいろ、あんたたちのジュース、私の烏龍茶、それからお菓子もたんと持ってきなさいな。みんなで新年を迎えるわよ」
「はーいっ!」
「お母さん、ラジャー!」
瑠璃も耳をあてていたらしい。すぐに大袋ふたつをかかえて、鋼音が『光の路』に駆け込んでくる。瑠璃の両手には、なにやら握られているようだ。
令和二年に明けたその瞬間、瑠璃の手からクラッカーがバンバンと鳴る。飛び出した紙テープがヒラヒラ揺れながら、工藤巡査の頭の上に乗っかるのだ。
「わあ。工藤さん、今年はいいことありますよ!」
あっという間に空気まで変わって、顔の前に垂れ下がった紙テープを手にとり、工藤巡査も小さく笑いを見せる。
「明けましておめでとうございまーすっ!」
それぞれが缶を手にして、乾杯をする。
ヒカリにとって、そして瑠璃にとっても忘れることができない年となる、令和二年がはじまる──。




