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最終話「悲歌」21

 工藤巡査との約束の時間は午後十一時。

 ヒカリはいったん私室で瑠璃と鋼音の帰宅を確かめてから、一階の『光の路』へ降りる。

 今日は大晦日。新年を工藤巡査と迎えることになるとは思いもしなかったが、こんな日に話をしたいと言ってくるからには、セイント・セミコンダクター社へのヒカリの作戦に、警視庁側として緊急の擦り合せが必要と判断したのだろう。もちろん、ヒカリを追いかけてくる前に、異母兄の富樫総務部長にすぐ相談したはずだ。

 敵側の人間と思われた彼女が、どうもそうでもなかったという展開に、ヒカリの心中は複雑だ。

 工藤巡査を動かして向こうの動きを知る方策も講じるつもりだったが、そうはいかないことになる。半面、ヒカリの思惑に協力を得られる駒は増えたことになる。

 学習塾黒汐組の教師役を引き受け、四国の暴力団連合の鉄砲玉を現行犯逮捕してくれたのは、こちらの手間を大いに省いてもらえた。共通の友人の美歌を介しての頼みだったとはいえ、そこは素直に感謝したい。

 だが、圭吾のことを想っていた他の女性の存在は、ヒカリの気持ちにはありがたくない。


 セイント・セミコンダクター社が警視庁とどのような取り引き関係にあったのか。少なくとも圭吾は、技術漏洩が行われた背景を知っていて、セイント・セミコンダクター社の危機を救う立場にあったのは間違いないだろう。

 だが圭吾は警察を辞め、ヒカリとの結婚で、セイント・セミコンダクターへも行かなくなった。

 駿河専務は経済産業省の出身で、台湾企業に侵食されたセイント・セミコンダクター社を見捨てるよう圧力を受けていたと思われる。それを公安捜査官ではなくなった圭吾を復帰させることで、逆に救命させることにした。

 一般人となった圭吾を復帰させて、なぜセイント・セミコンダクター社を助けられるのか。

 考えられることはふたつ。ひとつは圭吾のこれまでの人脈と信頼を用いることでそれが可能になる手があった。もうひとつは、圭吾が実は警察を辞めていなかった、である。

 ヒカリはそれを今夜、明らかにしたい。工藤巡査は核心部分に関わってはいないだろうが、圭吾とはヒカリと結婚する直前まで連絡を取り合っていた。

 セイント・セミコンダクター社の事情は聞いているだろうと思われるのだ。

 そのために──。

 ヒカリは、本当は知りたくもない圭吾と工藤巡査との関係の深さを全部聞いて、どんな仲であってもすべて許すつもりだ。



 瑠璃と鋼音は、新年をヒカリと一緒に迎えたかったので、工藤巡査との話があると知りがっかりだ。

 だが、ヒカリが戻るまで起きていようとふたりで話し合い、瑠璃は初日の出の写真を撮るというので、鋼音もそのご来光に立ち合うことにした。

 屋上で撮影する準備のために、瑠璃は三脚の雲台(うんだい)を手入れし、鋼音は日の出をバックに瑠璃との記念写真を撮るために、スマートホンのカメラをリモートで動かすテストをする。

「ヒカリさん、一緒に写ってくれるかな」

「心肺がまだ治ったわけでないのに、私たちに付き合ったら徹夜だもん。寝てもらわなきゃ」

「そうだね……」

 ヒカリの体が第一だ。あかりから、ヒカリは無理を平気でするから止めなさいよ、ときつく言い聞かされたふたりだが、自然な流れで無理をしていくヒカリをどう止めれば良いのやら。

「工藤さんも、せっかくの大晦日なんだから、なにも今夜こなくてもいいのになあ。ねえ、鋼音。工藤さんてどんな人? 何日も一緒にいたんでしょ」

「どんな人って聞かれても……。あ、ヒカリさんの旦那さんのこと知ってたみたいだよ」

「そうなんだ。ふたりとも警視庁の人だったから、顔見知りでもおかしくないよ。旦那さんがどんな素敵な人だったか、聞いてこなかった?」

 ヒカリに結婚生活のことを聞くと、いつも、結婚はいいものよ、と遠い目を見せてくる。だが、ただ結婚しただけでいいいものにできるわけでないことは、瑠璃にも想像がつく。

 美歌が事実婚を考えた一件のとき、ヒカリは、結婚は幸せにしてもらうものではない、幸せになるための行動がすべてだ、と言い切っていた。

 ヒカリと圭吾とは、愛し合うふたりが結ばれての結婚ではない。だからこそ幸せを一から作り上げるために行動したヒカリだ。そして、ふたりの間に、強く確かな愛情を築いた。美歌はそんな姿に打たれて、相手への理想と生き方へのこだわりを脇に置き、親が連れてきた相手と結婚し、幸せを作る人生を選んだ。

「でも、澄花さんのように、好きな人と結婚するのだって、幸せなことだよね」

 どっちが良いか、という話ではない。結婚までの過程がどうであっても、結婚後の行動が幸せになるかどうかを決める。美歌だって澄花だって、同じなのだ。

「結婚て、難しいようで簡単なのかな? 簡単なようで難しいのかな?」

 瑠璃もいつかはするだろう結婚に思いを馳せてみる。恋愛の結果であっても、結婚後に愛情を一から育むのも、どちらも瑠璃には夢があるように思えてくる。それに、ヒカリのように、早くに結婚するのも良い気がしてくる。

「ヒカリさんの真似すればいいんじゃない? きっと幸せになるよ」

 鋼音はひと言でまとめてしまう。そのとおりだと瑠璃も思う。

「ヒカリさんに聞いてみよう。どんな幸せ作りしたのか」



 工藤巡査が『光の路』を訪れたのは時間どおり、午後十一時。初詣でに向かう人たちで、通りもごった返しているが、その流れと逆に歩いてきた工藤巡査は、今自分が生きている波も、流れに逆行している思いにかられている。

 結婚したいと願った男性が、下命とはいえ結婚した相手と、これから間近な距離で会う。

 異母兄の富樫総務部長からは、ひとつ頼まれごとを受けた。

 だが、それだけでない、ヒカリに対しての見方が、自分の中で変わっていったことを感じ、それまでの憎しみとのあいだで、自分の気持ちの整理もつかないままの工藤巡査なのだ。


「工藤さんのお話、セイント・セミコンダクターのことだけでないと思ってました。私も今夜は、腹を割って話すつもりです。工藤さんも、私の話をまっさらな気持ちで聞いていただけると嬉しいです」

 ヒカリは工藤巡査を迎えると、挨拶も抜きにこう言い放つ。圭吾の話もする、という意思を伝えたのだ。

 工藤巡査はヒカリの声に息を飲む。

 先手を取られて、圭吾のことでも自分が話すのではなく、ヒカリの話を聞く形になってしまう。

 やはりヒカリは自分の展開に持ち込むのがうまいと、確固とした意志にあふれる、しかしまだ十代の少女の顔を見やるほかない。

 ともかくまずは、警視庁の人間として果たす役割りからだと、工藤巡査は口を開きはじめる。

「セイント・セミコンダクターは、台湾に狙われて、日本の技術を取り込む最前線のような位置に置かれてしまいました。警視庁は技術漏洩疑惑の調査を経済産業省から依頼されて、公安から捜査官を送ったんです」

「それが圭吾くん──主人ですね」

「はい、圭吾でした」

 わかってはいても、ヒカリはグサリと心に刺さる。圭吾のことを、圭吾と呼び捨てた、その距離の近さにである。美歌から工藤巡査の話を聞くまで、なんの根拠もなく、自分だけの圭吾だと思い込んでいたのだ。

「私がわかっているのは、潜入した……主人がセイント・セミコンダクターの救済のために動いたことだけです。不正を調べる立場が、なぜ助けることになったのでしょうか」

 ヒカリも負けじと、主人と強調し、結婚した事実で対抗の心を見せる。女としての意地を思わずも示してしまうのだ。

 だが、すぐに虚しいことだと気づいてしまうヒカリだ。圭吾はもういない。ふたりとも、大切な人を喪った結果をもち、同じ境遇だ。勝ち負けなんかではない。

 工藤巡査にもヒカリの心が伝わったのだろう、改めて、今夜ここにきた意味が、セイント・セミコンダクター社と警視庁の関係と利害をヒカリに伝えることにあると口にして、圭吾の任務を話し出す。

「圭吾はセイント・セミコンダクターは台湾に嵌められたんだと言っていました。執行役員にも台湾の人間が選任されるまでになってしまったのです。経済産業省の中でも、セイント・セミコンダクターを守る立場と、切り捨てる立場と両方の派があって、公安を頼ったのも、事務次官がどちらの派を支持するかの判断を迷ったからだそうです。圭吾は富樫総務部長と今泉公安部長、双方に調査を報告してました。部長たちが経済産業省へ報告を回していたのです」

 そうなると、富樫総務部長と今泉公安部長は合議の上で報告をまとめていたことになる。

 神林公安部長時代は、公安と総務は関係も良かったが、今泉部長が赴任後は風向きが変わって警視庁の主導を取り合うような事態も生じたはずだ。本間刑事部長が中に入って取りなしたという話もヒカリは聞いている。

 このふたりの合議は、一枚岩ではないのかもしれない。

「セイント・セミコンダクターには駿河専務という旧知の人がいるのに、経済産業省は警視庁に捜査を依頼した。これが公平を期すためだったら──」

 駿河専務が経済産業省の官僚時代に近い関係にあったのは、切り捨て派に属する人たちだったと考えて良い。だが、駿河専務自身は、会社に愛着もあったのだろう。社長は役人だった自分を見込んで高待遇でスカウトしてくれた人物である。いずれにせよ、駿河専務に圧力をかけて調べさせても、どちらかに立場が偏る。

 駿河専務は板挟みになった末、会社救済の道を選んだ。そのために、ヒカリを守るために任務を離れていた圭吾を復帰させた。美歌との話でも出たこの可能性は、やはり事実とみるヒカリだ。

 落ち着いたヒカリの口調に、全体のある程度の内情を推測していると工藤巡査にもわかる。

「工藤さん、圭吾くんは警察を辞めました。他の案件で身分が明るみになったので、他の捜査に不利な影響を及ぼすからという表向きです。でも、本当に退職していたのでしょうか?」

「え……?」

「私はカモフラージュだった可能性も考えています」

 工藤巡査は驚きを隠さない。異母兄の富樫総務部長から、圭吾は他の案件で身分を明かしたことで警察を辞めたと聞かされ、圭吾も同じことを言っていた。そして、葛原麗華からヒカリのボディーガードの命を受けて、セイント・セミコンダクターから離れたと聞いた。

 それを疑うことなど、思いもつかなかったのである。

 圭吾が退職していないなら、ヒカリと結婚したあとも、セイント・セミコンダクター社にも、技術漏洩の捜査にも影響力を持っていたはずだ。

「圭吾が復帰するとき、公安からは新たな捜査官がすでに着任して捜査を進めていました。その捜査官は、圭吾のようにセイント・セミコンダクターを助ける気はなかった──あるいは、セイント・セミコンダクターを見捨てるための役割りできていた。それを察した駿河専務が圭吾を頼った。頼りにできた理由は、圭吾がまだ公安の捜査官であったから、ということですか?」

「まだ推測のひとつでしかありません。退職は事実で、圭吾くんの人脈や信頼で呼び戻したのかもしれません。でも、圭吾くんが警察を辞めたタイミング──潜入捜査官の立場では捜査が行き詰まるとみた誰かが、圭吾くんをいったん引き揚げさせ、潜入よりももっと水面下で調べられるようにしたとも考えられます。ですが、わずかふた月で、私に二十四時間ついていなければいけなくなった。それをしないと、総本山の捜査と、私の両親の殺害事件の真相を調べる術(すべ)を失うから。警察を辞めていなかったなら、麗華先生の命を受けたことで、圭吾くんは公安内でも微妙な立場に置かれていたのかも……」

 工藤巡査もさすがにヒカリの推測もあり得るように思えてくる。圭吾が警察をやめたのは昨年の九月。後任として入ってきた捜査官が、圭吾とは違い、セイント・セミコンダクターを見捨てる指令を受けてきたなら、この時点で警視庁公安部は経済産業省の切り捨て派に与したことになる。

「微妙な立場……。親占教会の捜査では公安の大事な主戦であり、セイント・セミコンダクターの捜査では公安が立場を変えたために、意に反する人間。必要な人材であり、邪魔な存在でもある、ということですか」

「工藤さん。圭吾くんは、技術漏洩に至った道筋、漏洩に関わった台湾の人間と、セイント・セミコンダクター側の人間を、私と結婚する前にはすでに把握していた。ただ、証拠を押さえるまではいけなかった。違いますか?」

 駿河専務もまさか、圭吾が他の案件絡みで二十四時間付きっきりになるような事態は想像していなかっただろう。圭吾を手放したのは、こちらから頼んできてもらっていた人材だから、止むを得なかったのだ。そして、代わりの捜査官も着任している。

 圭吾が技術漏洩捜査のめどを立てていたなら、後任にまかせても良いだろうと駿河専務は判断した。ところが、後任捜査官はセイント・セミコンダクターを助けない。それは、台湾勢力に侵食された企業など消滅させる、という経済産業省の意思なのだ。

「圭吾はそこまで詳しく話してくれなかったです。でも、兄なら事情を知っていると思います。兄は──私が圭吾を好きだと知っていて、親占教会の報告の役割りをわざわざ作って私に当てました。圭吾と関わる機会を作ってくれたんです。一度は振られましたけど、女なら一途に愛してみろ、と背中を押してくれました。そして、もしかしたら自分の弟になるかもしれない男だからと、圭吾の任務のことはおおむね把握していたはずなのです」

 以前に富樫総務部長が殺害事件の主導的立場として関わっているのではと疑ったあと、工藤巡査の恋の後押しをしただけで、事件の被疑者側ではないと結論づけたまでは当たっていたが、自分の弟になるかもしれないとまで肩入れしていたとは、ヒカリはただただ唖然としてしまう。これでは既成事実があってもおかしくないではないか。

 セイント・セミコンダクター社と碧泉院流親占教会に、圭吾がどのように調べを進めて、殺害されるまでに至ってしまったのか、工藤巡査からもっと情報を引き出したいが、ヒカリはもう、圭吾と工藤巡査の仲の深さを聞き出さずにはいられなくなる。そうしなければ、想像が勝手に膨らむばかりだ。

 そして、どんな事実であってもすべて許すとの自分の決心が、揺らぎはじめている。それは、短い結婚生活が幸せそのものであった、そう信じ切っていた気持ちの揺らぎなのだ。

 ──圭吾くん、私と結婚したあとは、この人の気持ちを受け入れなかったよね? お願い。そうであって。

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