最終話「悲歌」20
私室にヒカリが戻ったとき、瑠璃も鋼音もいなかった。鍵がかけられ、留守になってしばらく経っているように見える。
「どこに出かけたのかしらねえ」
ふたり揃っていないのだから、一緒に行動しているのかと思ったが、外出するとは聞いていなかったし、もう夕方だが夕食の支度もされていない。
急な用で家を空けてしまうふたりではない。夕方まで戻るつもりが、戻れていないのだ。
これはヒカリも心配になる。携帯電話を見たが、着信の記録はないし、メールも届いていない。
薄暗い部屋の電気をつけようとしたとき、リビングのディスクプレイヤーの電源が入りっぱなしになっていることに気づく。つないであるテレビはオフになっているから、消し忘れであろう。
なにを見ていたのか、ディスクトレイをイジェクトしてみると入っている記録メディアの真っ白な面に、六年前、平成二十五年十月六日の日付けが記されている。見覚えのある字体。これは澄花の字だ。
「何の日かしらね」
ヒカリは再生をしてみると、サッカーの試合の中継である。澄花が所属していたスワニー・アンジェのリーグ戦のようだ。はじめのほうを観てみると、フォワードで澄花が先発出場している。
ケーブル配信をする地元ローカル局の制作で、実況もされているが、アナウンサーではないようで、かなり稚拙だ。
澄花から借りたディスクなのは間違いないだろう。
瑠璃はサッカーが好きなほうだし、澄花にとってなにか意味のあるマッチゲームなので見せてあげたのだろうと推察できる。
だがそれが、今ふたりが留守にしている理由とは限らない。
「瑠璃さんの家かしらね」
菜奈に電話をかけてみると、来ていないという。
「鋼音にかけてみるわ」
ヒカリが鋼音に電話してみると、鋼音はすぐに出た。
「今、栞さん、七海さんと一緒にいるんです」
先日渡した痩身計画案だが、カズサビューティーの本社から広告に使えるか検討したいとの連絡がきたのだという。
「七海さんの施術のビフォーアフターを、広告に使えるのかを会議しているんだそうですよ」
季節のスポットCMでの打ち合わせで、栞が七海の話をしたところ、立案した鋼音も含めて、広報部から会ってみたいと打診されたのだ。それに備えて三人で話しているのだという。
「あんたのほうはわかったわ。それで、瑠璃さんのことはなにか聞いている?」
「部屋にいないんですか? 私が出かけるから、晩ごはんを作ってくれるはずなんですけど」
「いないのよ。澄花さんの昔の試合のビデオを観ていたようだけど、関係あるかしら?」
「澄花さんの現役時代のダイジェストを編集することになったので、瑠璃がナレーションをやるんですよ。もしかしたら、その関係じゃないですか?」
「え?」
ヒカリの知らないところで、ことが動いているのだ。
今日訪ねたのは元締めのところ、所轄の捜査一課だから、連絡を遠慮するような場所ではない。
「やあね。なんで電話してこないのかしら」
鋼音も瑠璃も、ヒカリの親友たちと深い関わりを持つようになっている。
それは嬉しいことだが、ふたりとも自分にないしょで進めているのに、複雑な気持ちになってしまうヒカリだ。
「それはふたりとも、親離れでないの?」
「なら、ないしょとは違うかしらね」
「子どもは成長すると、連絡するのをだんだんしなくなるものよ。なんでも知りたがろうとする母親がウザくなるのよ」
さもわかった風におしえを垂れるのはあかりだ。
さっき別れたばかりで、またヒカリに呼び出されたあかりは、澄花の出場ゲームの映像を見ながら、バリバリせんべいをかじりこぼしている。
「あのふたりをあんたと一緒にしないでちょうだい。あ、ビデオもいいけどおせんべいの欠片もみてよね」
食べ方を気にしない性格のあかりだから、ヒカリの小言も受け流しだ。
「あたしは鑑定があるから、すぐ帰るわよ。あ、チャンス!」
澄花がドリブルで敵陣中央に運んでいる。そこから左サイドに配球し展開させ、自分は右にまわっている。
左サイドから長いクロスボールがあがると、澄花が高く跳ぶ。ファーサイドから強烈なヘディングシュートが叩きつけられ、スワニー・アンジェが先制のシーンだ。
「こうして見ると、澄花さん初々しいわね。十九歳の時よ」
まだ少女の面影を残している画面の澄花は、ゴールを決めて大はしゃぎだ。
この試合は澄花のキャリアの一ページを飾るのだろう。最後まで観ておこうと思ったところに、ヒカリの携帯電話に瑠璃からの着信が入る。
「ヒカリさん、ごめんなさい。今、事務所なんです。澄花さんとユミカさんと一緒です」
芸能の仕事は一切絶った瑠璃だが、澄花の役に立つなら話は別だろう。
「鋼音からちょっと聞いたから、おおかたの想像はついているわ。こっちの夕ごはんはいいから、三人でなにか食べてきなさいな。ユミカさんに、鋼音のことで改めてお礼を言っていたと伝えてちょうだい」
鋼音にも、栞たちと晩ごはんを食べてくるようにメールをしておき、ヒカリは懐かしい占術士の顔になる。
「久しぶりに、被験者と接してみようかしらね」
自由な時間だ。あかりのタロット鑑定所で、鑑定に同席してみる気になったヒカリなのである。
といっても、あかりの鑑定所はなかなか人が訪れない。
「とうとうひとりもきませんでした、って日もあるの?」
流行っていないのはいつものことでも、こうまで閑古鳥が鳴くのがつづくようでは、賭けごとへの生活依存が高くなるばかりだ。
しかし、夜九時を過ぎたころ、鑑定所のドアがやっとこ開く。
訪れたのは夫婦連れ。ふたりとも七十代半ばは過ぎていよう。
タロット占術は若年層に受けの良い鑑定だから、中年以上の被験者は珍しい。お年寄りとなると、はじめてではないだろうか。
「どうぞこちらへ」
腰をかがめていざなうヒカリの姿は、美歌をはじめて迎えたときもそうだったが、やはり自分には真似できない営業感覚だとあかりは思う。
接客の才を羨ましく見ていると、お茶を入れてくるわね、とヒカリは陰のシンクへ行ってしまう。
ヒカリが幅狭のシンク前に立つと、上の棚には安物のインスタントコーヒーがポツンとあるだけで、緑茶らしき物はないし、急須も湯呑みもない。
お茶請けをと、入院中に元締めから見舞いに差し入れられたお菓子の山を、あかりにもかなりの数あげたので探してみるがない。どうもすでに消費済みらしい。
ヒカリは自分のバッグから、あとであかりと食べようと持ってきていたバームクーヘンを出すと、小さく切ってコーヒーに添えておく。
「ではご依頼の内容をお聞きしますね」
微笑みながら皿を配ると、ヒカリも鑑定者席の隣に座る。
「実は娘の結婚のことで……」
年齢からすると孫の結婚でもおかしくはないようだが、嫁き遅れた娘がいるらしい。
「いつでしたか、こちらで占ってもらって、良くも悪くもないような結果で、様子を見るのだとなったそうですが……」
あかりもヒカリも、あっとなる。四十八という歳でライバルふたりと恋の鞘当てのさなかにいた女性。葉山由紀子といった。目の前の老夫婦はその親なのだ。
「確かに鑑定させてもらいましたけど、率直に、無理をして結婚にこぎつけるべきお相手とは出ませんでした。その意味で様子見なんです」
あかりはそのとおりのことを、老夫婦に伝える。
だが、もう一度占ってもらえませんでしょうか、と老夫婦は、よろしくない結果は受け入れたくないといった目である。
「タロットですから、鑑定のたびに選ばれるカードは違います。でも託宣につながる意味は、何度鑑定しても同じです。おみくじのように、大吉が出るまで何度でもというものではないんですよ」
まさか親が出てくるとは考えもしなかったあかりだから、ヒカリの病室で予想したこと──相手の男性は誰も選ばないであろう、これをどこまで伝えてよいかすぐに判断できない。
そんなあかりに、ヒカリは、私が対応するわ、と目配せを送る。
ヒカリは、鑑定の結果だけで言い含めるのは難しいと早々に判断している。
ここは老夫婦の話を聞いてあげるのが、時間がかかっても結局は早道だ。
「親ごころですよね」
ヒカリはまず、そう寄り添ってみる。
「娘が結婚して幸せになれるためなら、なんでもしてあげたいのです」
「正直なところ、いささか遅きに逸した感は拭えません。そこを取り返すような結婚になれば、塞翁が馬ということも期待できます。ならば、親御さんとしては、娘さんのご結婚後がどのようなものになるかも心配しておられるのではないですか?」
そこも含めて、なんでもしてあげたい、でなければ想いも至らないことになる。
「あとのことは、あとのことです。とにかく娘の幸せを──」
再度の鑑定をしても、結果はさほど変わらない。それを知らせても帰ろうとせずにここにいる理由。あかりはピンときていないが、ヒカリは嫌な直感が走る。
「他のふたりの、相手の男性との結婚を観てもらえませんか。もちろん、ふたり分の鑑定料は払います」
「ええ?」
思いもしない依頼に、あかりもキョトンとするばかりだ。なぜライバルふたりを占うのか。
ヒカリはわずかに眉をひそませてうなずいている。直感が的を射たのだ。
「こちら様は、そのおふたりの個人情報をお持ちなのよ。でもタロット鑑定は、当人がカードを引かなければ託宣とは言えないわ」
あかりへの説明、これは、あとは黙ってて、という含みだ。
ヒカリには老夫婦が心に決めたことがわかっている。ライバルたちの結婚運を参考に、娘が先んじることができるように手伝う、さらには、ライバルたちの邪魔を考えているのだ。
それが娘たる由紀子の意思と通じているかはわからないが、老夫婦だけで来訪しているということは、少なくとも親ごころゆえの行動なのだろう。
老夫婦の顔を交互に見やってみる。娘へのあまりの思い詰めように、これがライバルたちへの悪意への加担につながるやもと理解しても、その悲壮さを目の前にすると、行き過ぎでしょうと口にして無下にすることはできない。
「私が姓名と生年月日で鑑定してみましょう」
ヒカリは応じてあげることにする。
鑑定してみると、ふたりとも由紀子より添い運が強い。いや、これは由紀子の結婚運が弱すぎるのだ。
「娘さんはこれまで親元を離れたことがないのではありませんか?」
聞くと、ずっと実家住まいであるという。しかも、由紀子はひとり娘なのだそうだ。
子持ちで離婚歴のあるふたりより、未婚の由紀子のほうが相手との結婚に遠いのは、両親の存在ゆえだろうとヒカリにも想像がつく。年老いたふた親の面倒をみる立場なのが、相手の男性に知れているということだ。
だがそれをこの老夫婦の前でつまびらかにはしたくない。娘が結婚できなかった理由が自分たちと薄々はわかっていても、他人に指摘されればやはり高齢の親には呵責が大きい。
「私たちは、娘の世話になろうとは思っていないのです」
老夫婦の顔は真剣だ。
ヒカリは穏やかな微笑みで、しかし、それが本心ではないことを見抜いている。自分たちの健康が衰えてきているのに、頼りの娘が家を出るのは不安でしかないはずだ。娘の幸せとのはざまで葛藤しているのが本当の心だ。
「親御さんとしましたら、可愛い娘さんですから嫁がせるまでは手元に置いておきたかったのでしょう。娘さんも、やはり親元は安心ですし、楽です。むしろ積極的に実家住まいをしていたのだと思います」
仮に由紀子が結婚を果たせたとしても、そのあとの問題が山積みと明らかだ。ヒカリは、由紀子に会ってみようと考えている。親の世話のことをどう考えているのか。今までの親がいる楽な生活とまったく違う結婚生活をイメージてきているのか。
由紀子が現実に目をひらけば、結婚願望を撤回するとみている。そして結局、それが一番望ましい形だと思うのだ。
老夫婦に次回の来訪を約束させたが、あかりはあからさまなため息をついている。
「ねえ、ヒカリ。あたしは由紀子さんに一度会っているけど、とにかく結婚したい気持ちが強くて、結婚イコール幸せ、て思い込んでる感じだったわよ」
そうねえ、とヒカリは口にしてみるものの、そう単純な心理ではない気がするのだ。
「結婚が幸せと考えるなら、四十八歳になるまで独身を通してはいないわ。ご両親も、男性のひとりやふたり、親戚知人に頼んで世話することくらいできたでしょ。仮に由紀子さんが若いころの恋愛のトラウマを抱えていたなら、結婚イコール幸せとは考えないだろうし、なにか背景がありそうよ」
「結婚したいじゃなくて、結婚しないといけない、なんかの事情ありってわけ?」
「ライバルの結婚運がわかることを利用して、娘を有利にする。ライバルが脱落するように仕向ける気かもしれない。そこまで考えるなんて、尋常じゃないと思わない? それに──」
結婚することだけを考えて、結婚後を考えていない。本人だけがそうなら、焦りからの盲目と受け取るが、親までが同じである。つまり、結婚してしまえば思惑は完結するということだ。
「どんな背景があるのかしらね」
あかりの思案の目はわからないといっている。すなわちヒカリを頼るということだ。だからひとこと釘を刺しておく。
「私はあまり役には立たないわよ。セイント・セミコンダクターの駿河専務が任意同行されたところから、こっちの捜査も再開になるんだから」
だが、ヒカリの言葉通りには運ばない。この流れは、ヒカリを確実に巻き込んでいたのである。




