最終話「悲歌」19
ヒカリが標準の病院食を摂れるようになって数日たった。
ヒカリの心臓は不規則な鼓動を刻むこともほぼなくなり、たまにそうなってもすぐに正常に戻る。肺活量も本来の八割でしかないが、呼吸困難に陥る危険はほぼないと診断される。
「しかし体に無理をかけずに、安静はつづけるようにしてください」
ヒカリの代わりに、瑠璃と鋼音がハイと答えて、医師もヒカリも苦笑いだ。
「澄花さんに代わって、私たちがお目付けです!」
年の瀬も押し迫る十二月二十六日。
ヒカリは自宅療養に切り替えることになり、病室での最後の夜を過ごしている。
明日からは、鋼音と暮らせる。瑠璃はいつ西成家に帰ってしまうのだろうか。今日はいつものように鋼音と肩を合わせて帰っていった。
「瑠璃さんはまだしばらくいてくれますよ」
ホナミがヒカリのそばに立っている。
「そうね。瑠璃さんは鋼音のためにもいてもらわないと」
「ヒカリさんは、近々鋼音ちゃんがこのままを保てなくなると思っているんですね」
ヒカリが見通していることを、ホナミはそのまま言葉にしてくる。ホナミはヒカリの分身としてあらわれているのだから、ヒカリの心の鏡なのだ。
「鋼音も十四歳よ。記憶が封印を受けて、改竄までされても、女性としての希求まで封じられたわけではないわ」
鋼音がヒカリに黙って金谷憲斗を訪れたのは、失神の理由を知るためだけでない。憲斗に会いたかった、その純粋な気持ちが芽生えていたとヒカリは思い至るのだ。
──恋とまではいえない。でも、男性を好きになろうとしている。
それが鋼音の性の凌辱の記憶の封印を剥がしてしまうのを早めてしまうかもしれない。ヒカリは悩んでいる。考えていたよりも早く、鋼音は自分を取り戻す力に動かされている。知能の回復がそのあらわれなのだと。
「私に出ている死相、発動はいつなのかしら?」
この前、ホナミはヒカリに死相が見えているといった。自分と同じ生年月日に生まれ、同じ星の軌道を持った相原咲の死。星図どおりなら、自分もほぼ同じ道をたどる未来だ。
「それを知りたいですか? 知ってどうするんですか?」
「四年毎に一方が埋まり、十六年で四方全部が。私の寿命は咲さんよりも一区切り多いだけ、最長十六年だけど、あくまで最長。明日死んでもおかしいことはない」
だから、一日でも早くに、両親の殺害事件、圭吾の殺害事件、鋼音を独り立ちさせる、これらをやり遂げてしまいたい。
「思い残すことなく死にたいなんて、そんなわがままが叶えられると思っているんですか」
「わがままかしら? いつ死ぬかわからないのが人間。だからどこで死んでもやり残しがあるのよ。余命がわかれば、命あるうちにやり切るわ。おしえなさいよ、私の死相の発動はいつなのか」
ヒカリの双眸がまっすぐホナミをとらえる。これが生きた人間なら、射抜かれた感覚に体を硬直させられてしまう。
だが、ホナミは眼光が己を突き抜けようが、ただ、微笑みをたたえている。
「そんなこと、気にすることではないですよ。ヒカリさんよりも前に、大事な人が死ぬことだってあります」
「あ、あなた、なにを言っているの?」
ヒカリは、これが自分との対話であることを忘れて色を失ってしまう。背中を襲う寒気が尋常でない。
ホナミは、占術士の顔になり、占術士の声で告げる。
「ヒカリさんだけじゃない。あかりさんにも、鋼音ちゃんにも、死相が見えている──」
その声は、ヒカリと同じ声となる。
「ばかなこといわないでっ」
叫びを受け止めることなく、ホナミはもう消えていた。
「あかりも鋼音も死ぬなんて、そんなこと……そんなこと!」
──それが私の潜在意識?
占術士は占術士を占うことはできない。ふたりに危険が及んでいても知ることができないでいる現実。心の底では、不安にやりきれないヒカリなのだ。
「おかしくなりそうだわ……。ううん、おかしくなってる」
胸が痛くてしかたがない。
心不全には十分気をつけて──。
医師の忠告は、ホナミの声として聞こえてくる。
「ホナミさん、なんで私の心をかきまわすの?」
ホナミの姿を借りたもうひとりの自分。
ヒカリはもちろん気づいている。悪い想像ばかりをしてしまう自分が、願いの成就を望む自分と対峙しているのだと。
ヒカリが退院の日。
瑠璃と鋼音、あかりはもちろん、菜奈、瑠璃の弟と妹もヒカリの退院に付き添う。
両足でしっかり歩くヒカリに、菜奈は用意した花束を手渡す。
「ヒカリさん、本当に、この日を待ちつづけていました」
ヒカリがいよいよ、普通の生活に戻る。
「鋼音お姉ちゃん!」
瑠璃の小さい兄妹は鋼音の両手をそれぞれ握って、行こ、行こ、とニコニコしている。
「新しいお姉ちゃんに、この子たち大喜びでね」
たびたび瑠璃と西成家へ顔を出していた鋼音である。ヒカリもその話は聞いているが、鋼音の小さい子への振る舞いはとても自然だ。いつもしゃがんで子どもたちと同じ目の高さを保ちながら、これ見よがしに可愛いと接することはしないから、前からの家族のように西成家に溶け込んでいる。
「畳とお姉ちゃんは新しいほうが良いのよ」
あかりが古くからの下世話な諺に倣ってからかうので、ヒカリも思わず、寒い冗談ねえと笑い出してしまう。
ヒカリの私室では澄花と桃がお茶と菓子の支度をすっかり整えて待っていた。
リビングの壁には、『おかえりなさい ヒカリさん』『祝 退院』と文字を入れた、手作りの大きな飾りが掛けられている。花紙で額をとって、瑠璃と鋼音が心を込めて作ったのだという。
みながそのリビングに集うとさすがに手狭だが、ヒカリはその窮屈さが心の距離の近さに思えて、
「嬉しいわね」
と率直に気持ちを漏らすのだ。
「菜奈さん。あとしばらく、瑠璃さんにいてもらいたいと思っています」
ヒカリは切り出してみる。
「もちろんです。お正月も三人で迎えてください。まだまだご恩返しには足りません。私たち夫婦もできるだけのお力になります。なんなりと言ってください」
菜奈の言葉は、ヒカリを現実に引き戻してくれる。
ゆうべのホナミとの対話は、自分の不安な気持ちとの戦いなのだ。
あかりも鋼音も、いつもと変わらない。
鋼音は毎日、夜は黒汐組で三時間ほど過ごして帰ってくるのだが、学習塾を装っているから本当に勉強をしてくる。
ヒカリから譲られたカチューシャをつけた鋼音は、そのせいかどことなくヒカリと容姿が似てきた。
入院生活で痩せてしまったヒカリと、ぽっちゃり気味の鋼音だから、見間違われることはないが、しぐさが似てきたとみながいう。
「明日は大晦日だし、今年は今日までにしましょう」
今鋼音が手にしているのは、小学四年生の算数の教科書だ。学校で勉強をしてこなかった鋼音だが、数日で一年生から三年生までの算数を覚えてしまった。
教師役は感心して教科書を閉じて棚にしまう。
「この調子だと、来年早々小数もできそうだし、五桁の加減もいけそう。鋼音ちゃん、すごいわ」
「私、算数よりも理科が好きです」
大人がおしえやすいという理由で算数からはじめているが、あかりが古書店を回って手に入れてきた理科の教科書は鋼音の興味を引いている。
「理科は化学実験ができるとなお面白いのよ。ここでは無理だけど、機会があれば──」
鋼音はそこで、ビクッと身を硬直させる。
カーテンの向こうのガラス戸が大きな音で割れたのだ。
大人がくぐれるまでにガラスが叩き落とされると、カーテンを跳ね上げて男がふたり入ってくる。覆面もせずにきたふたりの男は、やはり暴力団員風である。
幹部数人と構成員がいるはずだった。懐の銃に手をかける前に、なんだここは、と男たちは室内を見まわす。大人の女性と少女がひとりずつ。それしかいない。
壁には曜日ごとの学習割が貼ってあり、黒板には計算式がチョークで描かれている。棚の本は小学校と中学校の参考書や問題集。どう見ても組事務所ではない。明らかに教室だ。
「見てのとおり、塾よ。あなたたちは何者?」
見ると相対している女性は、男たちに怯えもせずに落ち着き払っている。女の子も平気な顔だ。
組長が不在でも、幹部数人はいるだろうと見込んで、あえて大晦日の一日前を狙ってきた鉄砲玉たちである。幹部を片づければ、事務所を占拠することも可能だから、武闘派の中堅暴力団員も少し離れた場所に待機している。
数日前に下見をしてきたのだから、場所を間違えたはずはないし、カーテンの向こうが学習塾であるのがおかしいとわかったときは、もう手遅れだった。
なにかの間違いではなく謀られたのだと気づいたとき、女性はなんと手錠を出して、ふたりの男をつづけざまに逮捕したのである。
「二十一時ゼロ六分。建造物侵入罪の現行犯で逮捕します」
身柄を拘束したふたりの背広からは、一丁ずつの拳銃を取り上げる。机の上に置いておくと、
「うわ、本物ですか?」
鋼音が目をみはっている。
「改造ものではなさそうね。触っちゃだめよ」
二分もすると近くの交番から制服警官が駆けつけてくる。葛飾の所轄からも刑事を呼んでいる。彼らも間もなく到着するだろう。
驚いたことに、やってきた警官は女性を前にして、敬礼をするのである。
鋼音に勉強をおしえていた教師役は美歌ではなかったのだ。警視庁の総務部所属、工藤巡査だったのである。
ヒカリから学習塾黒汐組の教師を頼まれたものの、美歌は挙式翌日から、新婚旅行でオーストラリアにいたのだ。
元締めとの料亭での会談からわずか二日で、ヒカリが黒潮組本部を学習塾黒汐組に仕立てたので、美歌は旅行中の教師役を工藤巡査を頼んだのだ。
ヒカリに対してよい感情を持たない工藤巡査でも、黒潮組を壊滅させられたら警察庁に次の警視総監の座を奪われてしまうことと天秤にかければ、当然ヒカリの側に協力する。異母兄の富樫総務部長が警視監を経て警視総監に昇進する可能性が潰えてしまうのだから。
カーテンで室内を隠したのも工藤巡査の考えだ。中が見えなければ、外から射撃されることはない。必ずガラス戸を破ってくるから、どう見ても暴力団事務所ではない中の様子に戸惑っている間に、手錠をかけるのは容易と考えたのだ。
美歌が旅先から帰国しても、そのまま教師役をつづけた工藤巡査である、
次の警視総監の椅子にも関わることだから、富樫総務部長も勤務に障りがないよう融通してくれた。
工藤巡査は鋼音とも親しくなった。おしえることをみるみる吸収していく姿を見ると、楽しくて仕方がなかったのだ。
そして、ヒカリのことを母のように慕う鋼音と話すうちに、瑠璃をかばって瀕死にまで至ったヒカリに、工藤巡査の感情は、少しずつわだかまりが溶けはじめていく。
翌日、ヒカリはあかりとともに元締めを訪ねて、四国の鉄砲玉を警察に引き渡した顛末を報告する。
ゆうべは鋼音から連絡を受けてすぐ、門脇に黒潮組事務者周辺に人を出させて、四国の指示役を捜索させている。
「あえて任侠が四国を探しているのがわかるようにしました。あちらは任侠と一戦交える気はないので、捕まえるのでなく追い出せば良いです。もう二十三区内に四国の人間はいないでしょう。任侠の勢力内で捕まってしまうと手打ちすらできなくなりますもの。でも念のため警戒はつづけてくださいね」
「お前さんから学習塾の話を聞いたときはあまりに突飛に思ったが、こんなに簡単に、それも単純な手順で四国を追いやるとは。さすがお前さんだけのことはある」
「作戦はシンプルイズベストです。警察庁の黒潮組殲滅作戦も私たちはもう動く必要がありませんから、のんびりお茶でも飲みながら見物しましょう」
微笑みながら元締めの湯呑みに煎茶を入れるヒカリだ。
元締めは、ヒカリが、私たちは、と言ってくれたことが嬉しい。ヒカリも任侠を身内と思ってくれているのが言葉でわかるからだ。
自分の後継には、四天王のトップである門脇を当てるつもりでいるが、ヒカリを養女に迎えて元締めの椅子を譲る夢を何度みたことか。ヒカリは丁重に断るが、省庁との関わり、警察との連携、占術士としての立場のためで、任侠との関わりを敬遠しているわけではまったくない。
だから孫娘のように可愛がり、ヒカリの悲願に手を貸すことで自分を納得させている元締めなのだ。
「この歳になって、孫娘が何人もできおった。お前さん、あかりさん、瑠璃ちゃん、鋼音ちゃん」
人生の晩年に至り、家族に恵まれなかった長い年月を取り戻すかのように、まだうら若いこの子たちを慈しむことに喜びを見いだしている。
ヒカリはその足で所轄の吉川巡査部長に会いに行く。退院してすぐ動きすぎだとあかりが口を尖らせるが、なにかあったらあんたがAEDを使ってくれるでしょ、と意に介さない。ヒカリは自動体外式除細動器、略称AEDを取り寄せて、外出時は携行するようにしているのだ。
「はいはい。道で倒れたら、公衆の面前でおっぱいをさらして蘇生してあげるわよ」
冗談めかした口調だが、あかりが言うとなんの配慮もなくそうしそうな気がして、ヒカリもさすがに渋い顔になってしまう。
あかりを近くの喫茶店で待機させて、ヒカリは所轄への階段をのぼる。捜査一課には吉川巡査部長のほかに、課長、そして島田巡査長、工藤巡査も顔を揃えていた。
「ヒカリさん、本当に大変な目に遭われましたな。とにかく、退院おめでとうございます」
課長もヒカリが刺された件を聞かされたときは、湯飲みを落として割ってしまったほど愕然としたのだった。
「工藤さん、四国の件ではご協力ありがとうございました」
「いえ。警視庁の一員として当然ですから」
ヒカリが複雑な気持ちになるのは止むを得ない。工藤巡査も同じだろうと思いその顔を見やるヒカリだが、彼女の気持ちの変化にはまだ気づけていない。
「私の夫の事件に関することですから、約束どおり私が指揮させていただきます。吉川さん、セイント・セミコンダクターの役職者で聴取までいけそうなのは誰と誰ですか?」
「まず専務の駿河。常務の小林。このふたりはいつでも呼び出せる準備ができています。対外課長の園田、課長代理の千田は、ヒカリさんのご主人とともに仕事をしていた人物ですが、分担がはっきり別れていたそうで、ご主人の役割を把握していたとは言い難く、呼んでもたいした情報は引き出せないと見えます。ですが──」
「上の方からなんらかの指示を受けていた可能性は高い、ですね」
「そうです。それがご主人の殺害に結びつくのか、なんとも言えませんが、糸口ぐらいは引き出せるのでは。これは私の勘ですがね」
ヒカリはセイント・セミコンダクター社への潜入日数が短く、園田も千田も面識がない。そして、このふたりのどちらかが、警視庁公安部からの潜入捜査官である可能性もあると考える。圭吾の代わりとして潜入したなら、そのポジションは圭吾に近いところに置くはずだからだ。
ならば、園田も千田も任意同行で引っ張るのは、警視庁の中に敵がいるわけだから、こちらの動きをおしえるようなもので危険だ。
どちらが公安の捜査官なのだろうか。押野勇気はまだ、今泉公安部長に代わってから公安所属になった七人の顔写真を入手できていない。
「駿河専務か小林常務に直接つながる誰かを引っ張れませんか? いきなり重役では犯行に関わった全員を警戒させてしまいます」
「難しいですが、ひとつ情報があります。商品管理部の女性社員が、駿河の愛人です。ご主人が迂回させたという台湾企業が扱っていたものを、この女性社員が担当していたなら、駿河までつなげられます」
ヒカリの作戦は重役を連鎖的な形で警察に呼び出すことだ。コンサルタント野村ユカリの再登場は、その場面がもっとも効果的と考える。
「駿河専務まで引っ張ることができたなら──」
ヒカリは温めていた台本を吉川巡査部長に聞かせる。何度もうなずく吉川巡査部長と、この女性社員をとにかく任意で呼び出すことで話がまとまった。
ヒカリが所轄を出てあかりと合流しようとすると、ヒカリさん、と追いかけてくるのは工藤巡査だ。
「あの、お時間があれば、今夜話せませんか?」
工藤巡査の顔つきは、困惑の色を見せている。やはりセイント・セミコンダクター社は警視庁と、技術漏洩とは別の、なんらかの関わりを持っているのだ。
「わかりました。私の鑑定所までおいでいただけますか」




