最終話「悲歌」18
吉川巡査部長に、他の捜査の都合で病院までの送りは警察ではない人物に依頼したと連絡を入れてもらい、あかりと鋼音を伴って帰院したのは午後五時を回っていた。
「これでひと段落ねえ。全国大会は桃さんにまかせるんでしょ?」
あかりは、さすがにもう面倒見きれないもの、と口にしながら、それでもヒカリがいないと一回戦突破も無理そうで悩ましい。今日の予選には、ついつい力も入ったし、ヒカリに頼まれたとはいえ誠実学園高校を応援して、すっかり味方のひとりになった気でいる。
「澄花さんはデータで協力してくれるし、これからはお父さんが味方になるはずよ。強い確執というわけでもないのに、距離ができてしまった父と娘が、そのまま歳月を経てしまうと本当に断絶までいってしまう。そうならないで良かったわ。これで私の出番はおしまい」
血のつながらない父娘。だからこそ、心のつながりは血に頼らない強いものになれる。ヒカリは桃の未来に心を馳せる。
ヒカリの戦略を目の前で見てきて、桃にも論理的な組み立てと、勝負の勘どころは伝わったとヒカリは思っている。大相撲で活躍した父親の経験と合わさり、指導者として飛躍していくことを願ってやまない。
退院して捜査に戻れば、桃とは滅多に会えないだろう。毎日あれやこれやと相撲のこと、選手たちの実力の向上を喜んだ日々が楽しかったと、早くも懐かしい目をするヒカリなのだ。
ヒカリが携帯電話のランプの灯りに気づいて開けてみると、メールの着信がきている。
瑠璃からである。
「もう部屋に戻ってきたらしいわ。鋼音、あんたのスマホにもきているんじゃない?」
鋼音がヒカリからのお下がりスマートホンを見てみると、同じメールが届いている。
「きてます。写真も一緒です」
新郎新婦をツーショットに収めた一枚だが、スマートホンの表示でもかなりの高画質とわかる画像だ。
「さすがプロも使うほどの高級機ね。解像度が段違いだし、ピントの精度が普及機とは比べものにならないほど良いわ」
「瑠璃、撮るのが楽しくてしょうがないんだって言ってました。毎日、いろんなもの撮ってますよ」
撮られる側から撮る側に。カメラを手に入れた過程も数奇な縁だ。写真との出会いは瑠璃の人生を変えたかもしれないとまでヒカリは感じるほどである。
事実、瑠璃はフォトコンテストに応募する準備をはじめて、街スナップや冬河川、鳥などを撮影し、隠れていた才能を覚醒させていたのだ。
美容エステと写真。瑠璃の未来に、モデルや役者とは別の道が拓けている。
鋼音にもだ。工務、福祉、そして占術。どの道を選ぶにも、まずおしえることはひとつ。
「あんた、料亭のお料理でなにか感じたかしら?」
刺身では、まぐろの赤身と、鯛、平目の白身魚、ホタテを食してみた鋼音である。心を無にして口に入れてみると、不思議なことに拒絶感はなかったのだ。
「ヒカリさん。不思議なんです。お口のなかで、お魚たちが喜んでいるんです」
言葉にすればわかるようなそうでないような喩えだが、ヒカリには鋼音のいうところがわかってくる。鮮度の違いを感じたのだ。
「あんたは大事なことに気づいたわよ。食べ物は調理の過程で必ず劣化する。そして劣化には道筋がある。私たちが普段食べている食材は、実は劣化を経たものなのよ。お魚だけでない。お野菜も、お肉も、お米すらね。劣化したからといって美味しくなくなるわけではないし、劣化に合わせた調理方法もあるから、私たちはそれで満足してしまうけど、劣化の前の姿が本質なのよ。劣化したものを見る、味わう。そこから劣化前を推測してみる。これが本質を導くことであり、食べ物に限らず、ものごとやできごとのすべてにあてはめて考えることができるのよ。今見聞きできているのは経過を経たものだとね」
「山菜とか、お肉とかも、違うって思いました」
「牛肉は湯通ししての汁やタレへの浸しだったでしょ。お肉の柔らかさ、噛み切りの良さ。赤身の質だけでなく、これは脂の分布によるの。霜降りという分布が最高級になるわ。それも見た目だけの霜降りでなくてね。あんたがきてから本物の霜降りは食べさせたことがなかったわ。なかなか手に入らないから。今日は滅多にない機会だったわね」
そんなに最高級だったとは、鋼音も驚いてしまう。
そして、今まで味付けで美味しいかそうでないかを感じていたことに気づくのだ。確かに今日は、味ではないところに美味しさを見つけていた。それが食材の質だと、ヒカリはいうのだ。
「お野菜も、ごはんも、違いがあったはずよ。今日の経験は、食べ物の吟味のためじゃない。あんたがこれから生きていくのに、本質はなにかをいつも考えるためのきっかけにするのよ」
ひとつおしえるたびに、鋼音の知能は回復の道筋をたどる。ヒカリはそれが、鋼音に封印されている、性の凌辱や、窃盗をさせられた記憶を呼び覚ますおそれを感じながら、そして、それらの背景にはまだ見えていない本質がある。
非道な義理の父親と付き従う実母。怒りも悲しみも込み上げてきながら、本質という名の論理のピースが欠けている。鋼音を知る人、両親から白状させた話は、事実ではあっても本質なのであろうか。
否が応でもつらい過去を取り戻してしまうであろう鋼音は、今のままでは結果、精神を崩壊させてしまうおそれが強い。ヒカリたちがそばで鋼音の心を包んで守るにしても、本人の耐える力も前提のうちだ。
そのためには鋼音本人が本質を見る目で過去と向き合うことだと、ヒカリは強く思うのだ。
ヒカリのもとにやってきた頃の幼さが消えつつある今の鋼音は、知能も本来を回復してきている。
時間はあまりない。母親のような笑みを見せながら、ヒカリの心はある決意を固める。
そんなヒカリを見透かしたように、あかりは二度三度うなずいているのだ。
「瑠璃さんも今日は美味しいものをたくさん食べてきたでしょうよ。ふたりとも遅い時間に小腹がすいてくるだろうけど、今夜は軽くお茶漬けにとどめておきなさいな。さもないと夜中に胃もたれして気持ち悪くなってしまうから」
お茶漬けも、ヒカリの部屋にはだしに緑茶、鮭ほぐし、小粒あられと本格的な用意がある。
「私たち、まだヒカリさんのお茶漬け食べたことなかったです。楽しみだなあ」
「フフ。別腹スイーツも今日はやめておきなさいよ。じゃ、気をつけて帰りなさい」
鋼音は、また明日きますね、と立ち上がると、あかりと肩を並べる。その姿に、ヒカリは一瞬、自分がそこに立っているような錯覚を見て、ハッとしてしまう。
「鋼音」
ヒカリは呼び止めてみる。
「似合うわよ」
カチューシャを指さして、ニコリとする。エヘヘ、と照れ笑いを浮かべる鋼音は、
「ヒカリさんがいつもここにいてくれる気がします」
カチューシャを慈しむようになでながら、嬉しそうなはにかみを見せるのだ。
桃が自宅に帰ってみると、玄関にまで焼き物のにおいが立ちこめている。
台所に入ってみると、母がご馳走をこしらえているのだ。
「あちゃー。祝勝会でいっぱい食べてきたんだよね……。お母さん、ごめん」
「祝勝会──柔道のときもそうだったわね。久しぶりに嬉しいことがあったから、つい腕によりをかけてしまったわ」
「お母さん……」
桃がしていることなら、なんでも応援してくれてきた母。血がつながっていなくても、母と娘でありつづけてくれた。
「ごはんは食べられないけど、お父さんに付き合うよ」
「お父さん、大会を見に行ったわよ。もう嬉しそうに帰ってきて。この鯛を買ってきたのよ」
大きな塩焼きに目を向けて、母と桃は同じ笑いかたをするのだ。
笑い声にこたえるように、父が巨体を揺すりながら台所に入ってくる。
「お父さん。見ていてくれてたんだ」
食卓に腰を掛け、父のグラスにビールを注いであげると、桃は頭をなでられる。区の相撲大会で優勝したとき以来の、父の大きな手のひらだ。
「桃はいい顔をしていたな。友だちにも恵まれて、これからいい指導者を目指せるな」
「コーチって自分だけの喜びじゃない。選手のために喜べる。素晴らしいと思ったわ」
「一番大事なことを、最初の日に得たじゃないか。桃のコーチ業、素晴らしい第一歩だよ」
父も、もう桃が選手を断念したことを受け入れている。
桃は父親の優しい言葉に、寂しい笑みでこたえるのだ。
「お父さん、私、今になってわかった。私、本当はずっと、相撲をやりたかったんだ。負けるのが嫌で柔道に逃げてたんだ。勝てる柔道が楽しいと思ってた。でも、それは自分を騙してたんだって、今日気づいた」
桃は、連戦連勝から一転して負けつづけた年を、あのときの悔しさは本物じゃなかったと振り返る。本当に悔しかったなら、バネにできていたはずだ。
「相撲部のみんな、みんな全力で頑張ってきた。力が上の相手にどうすれば勝てるのか、ヒカリを中心にみんなが考えた結果なんだ。あのとき、私はそんなこと考えようともしなかった」
引き技に弱かった桃は、引きで上回る相手にどうすれば勝てるのかを考えなかった。負けが悔しいよりも、もっとストレートな別の感情──ただ、負けるのが嫌だったのである。まわりから負けを非難されるのも、慰められるのも、つらかったのだ。相撲から離れたい一心になってしまった。
柔道は桃にとって、安易に逃げられる場所になっていた。だから、柔道にがむしゃらに取り組む仲間と自分は違っていたが、なにが違うのかまでは気づけなかった。
違和感をいだきながら、それでも桃は七年近く、柔道の場にいつづけた。勝ちつづけていてもすっきりしない気持ちは、父の期待に沿わなかったせいだと思い込んだ。
しかし、そうではなかった。負けつづけても、ボロボロになっても、相撲を取りたかった自分が本当の自分。桃は知らず知らず、自分を殺していたのだ。
そして、お腹の手術は自分を殺すことすらできなくした。気づくのに遅すぎた。相撲競技に戻ったとしても、力を出すことができない。
「悔しいよ。もう全力で相撲がとれる体じゃなくなったんだよ。お父さん……」
静かに父の胸に顔を押し当て、泣いた。
桃は柔道競技から身を引いた。相撲選手への心残しもすべて吹っ切って、晴れやかな顔で、まず柔道クラブで別れの挨拶を送った。
そしてその足で、かつて通った相撲クラブへ向かう。小学校低学年の児童に、相撲をおしえることになったのだ。
桃がはじめて相撲をはじめた小学二年生、その学年の子もいる。ちびっこに、相撲の楽しさをおしえていく。
誠実学園高校でも、職員会議を経て相撲部の正式なコーチとして在籍する。部活動で在校生のコーチを認めるのは、学校としてもはじめてという。
「大学にいって、教員免許をとって、学校で相撲をおしえるよ。小さい子がいいかなあ。中学や高校でビシバシ鍛えるのがいいかなあ」
ヒカリが退院する前日。桃は優しく微笑んでくれるヒカリの前で、そう夢を語るのだ。
「ヒカリが、私が相撲の世界で生きることになるって言った日。あのひと言で、相撲が私に戻ってきたんだよ。負けるが嫌で恥ずかしいと思って柔道に逃げた自分に隠れて、相撲の選手としてやり切りたい自分がいたんだ、ずっとね。ヒカリは私が気づいていない私の心を見抜いてくれた。おかげで、私は自分への償いを見つけられた。ありがとう」
翌月、月刊の柔道雑誌に小さい記事が載る。
『七十八キロ超級のホープ 星野が引退』
高校二年で現役を退くことを惜しむ記事には、とびきりの笑顔の写真が添えられる──。




