最終話「悲歌」17
元締めが席を用意した料亭は『水月鏡』という老舗で、任侠や暴力団が酒席を設けるときに使う店として、長い歴史があるのだという。
車椅子のヒカリも奥の御用部屋に案内される。江戸時代に老中や若年寄が執務を行った部屋の名称を戴いた会議室で、ここなら内密の話も外に漏れる気づかいがないという。
歩けないわけではないから、と部屋へ上がる小階段の前で車椅子を降り、ヒカリはあかりと鋼音の支えで中に入ると、元締めがにこやかに座っている。
「元締め。ご機嫌いかがですか?」
聞かなくてもわかるのだが、ヒカリも元締めから祝いの言葉を聞きたい。
「良いに決まっておろうが。優勝おめでとう。お前さんだけのことはあるのう」
前には紅白であしらった立派な祝勝料理がある。ほかにも吟味された魚や山菜であしらえた飾り料理が何皿も置かれている。見るからに一流の食材、一流の腕だ。
「こんなに素晴らしい膳を用意していただいたのに、ほとんど食べられないのが残念です。あんたたち、私の分も思い残すことなく食べてちょうだい」
これはヒカリでも口惜しい顔を隠さない。
「元締めのお気持ちなんだから、そりゃ遠慮なくいただくわよ」
「いただきまーすっ」
早速箸をつけようとする鋼音を、
「鋼音ったら、乾杯してからよ」
あかりが笑いながらたしなめている。
「お料理は逃げないわよ。鋼音、味だけでなく、食感もよく覚えておきなさい」
ヒカリも優しく微笑む。
あかりが元締めにお酒を注ぎ、鋼音がヒカリにウーロン茶を、あかりにお酒をつぐ。あかりはオレンジジュースを鋼音に。
「では、誠実学園高校を優勝に導いたヒカリの手腕に乾杯」
あかりの音頭で極上の吟醸酒を美味しそうに飲み干して、元締めはヒカリの体を心配するのだ。
「おまえさんは、まだ当分食事がだめなのか?」
「腸を切られましたから……。でも、あと一週間で普通食に戻れるそうです。退院はそのあとです」
あかりは、元締めにお酒を注ぎ直しながら、刺された傷が治ってもすぐ退院とはならないことを改めて話すのだ。
「ヒカリは心肺もある程度戻らないと。あとどのくらいかしらね」
元締めもヒカリが倒れた経緯を知らされているから、ヒカリがまた無理をすればと思うと胸が痛まずにいられない。
「なるほどな。どうじゃろう、退院してしばらくはわしのところで養生せんか。もちろん鋼音ちゃんも一緒にな」
孫娘のように可愛いヒカリだから、手元において大切にしたいのだ。
その元締めの想いは十分にわかっているヒカリである。だからこそ、今なすべきことを早く終わらせたい。
「ありがたいですが、私はやらなければならないことがたくさんあります。自分の部屋と、市川のお義母さんのところを拠点に動くつもりです」
「そうか。セイント・セミコンダクターだったな。黒潮組がこちらに入れば、わしらも助力ができる。黒潮組の押さえておる葛飾は、すべてお前さんの手足になるようにしてやるからな」
元締めが手をパンパンと叩くと、襖がスッと開いて中居が顔を出す。
「連れを中に入れなさい」
元締めの命令で中に通されたのは、四天王から門脇と大宮のふたり、門脇の女房、増本都志樹、明美の夫婦。そして双龍である。
一緒に彼らの膳も運ばれてくる。
「あらあら、こんなにいっぱい。鋼音、そっち詰めなさい」
あかりが急かすと、え……と不服そうな鋼音だ。料理の皿から遠くなってしまう。しかも、たくさん食べそうな体の大きい男たちが増えてしまった。
香り高い和えものに手を伸ばしてみるが、届かない。
「やっぱりお料理、逃げるかも……」
誠実学園高校近くのファミリーレストランでは、ヒカリの名で予約席が設けられていた。
予選出場の選手たちのほか、桃、栞に七海が、二組のテーブルを合わせた特設席に案内される。
「あの、この予約、いつ申し込まれたんですか?」
桃は店員に尋ねてみる。こんなに手回しが良いとは、優勝を決めてからの予約とは思えない。今日は昼食も知り合い筋にあらかじめ作らせていたのだ。
「先々週の水曜日にご予約いただいてます」
「組み合わせ抽選の日じゃないのっ。ヒカリったら!」
桃は予約票をまじまじと見つめて驚いてしまう。だが栞と七海は平然だ。
「ヒカリらしいよ。自信とかじゃなくて、優勝させる気でいたのよ」
栞がさも当然のようにいうと、
「ヒカリがいうとなんでも本当になるから。ヒカリのことを知っている人なら誰も驚かないよ」
七海もニコニコしている。
「ふたりはヒカリの友だちなんでしょ?」
栞たちが私立優美ヶ丘女子高等学校の生徒と知ると、あのお嬢さま高校の!と驚いてしまう。
「ヒカリも優美ヶ丘だったんだ……ん、高校には行ってないって言ってたけど?」
「ヒカリは生徒じゃなかったんだけど、なにかわけあっていっとき一緒に学んだのよ。調理部にもいて、腕前は伝説だよ」
七海がヒカリの在籍時のことを話し出すので、栞は困ってくる。
ヒカリが優美ヶ丘女子高等学校に姿をあらわした理由は自分だ。七海にもこのいきさつはないしょにしている。とにかく優勝を祝って乾杯しましょう、と栞は話を切っておく。
見ると男たちは待ちかねているし、名門女子高校の生徒と親しくなりたくてうずうずしている。その様子に女の子三人は顔を見合わせてクスリとなるのだ。
栞と七海が、選手たちの活躍をカッコよかったと褒めちぎってみると、男たちは、俺たちはただのデブではないんです!と力を込めて言い張る。
やはり女の子にモテる競技ではないから、アピールしたいのだ。
「まあ、女子だって相撲も柔道も、男の子にはモテないしね。この体つきだし、私もまだ彼氏いたことないよ」
栞は、体格は関係ないわよ、と七海のほうをチラリと見やる。だが恥ずかしい七海は、彼氏のことは言わないで、と目で頼むのだ。
親友同士のアイコンタクトに気づかない桃は、話のタネを持たない色恋から話題を変えてみる。
「七海さんはなにかスポーツやってる?」
「え? 見ればわかるでしょ。こんな太って運動できるわけないじゃん。八十キロあるんだよ」
「ん? 私、八十五キロだよ」
「えっ。私よりある?!」
身長が高いし、鍛えた体の桃だから、七海よりもだいぶ締まって見えるが、柔道では七十八キロ超級、女子の最重量の階級で戦ってきた桃である。
百キロ超えの選手もいる中で体重をそれ以上増やさなかったのは、故障のリスクとのバランスを考えてだった。
「運動してないなら、その体重だと日常生活で腰と膝を痛めちゃうよ。今は大丈夫でも、二十代半ばでやっちゃうから。鍛えるか痩せるかしたほうがいいと思う」
余計なお世話と思いながらも、新しい母もちょうど七海のような太った体型で、腰と膝に痛みをかかえているのを知っているから、つい口にしてしまう桃なのだ。
それに応えるように、七海はひと綴りのファイルをカバンから取り出す。
「見てよ。今日、これもらっちゃったのよ。鋼音ちゃんから」
桃が手に取ってみると、痩身計画書である。
「えっ、なに? エステ? なんであの子から?」
「鋼音ちゃんはカズサビューティーで痩身を学んできたのよ。勉強の仕上げに、私の計画を立ててくれたんだ」
鋼音はカズサビューティーの新宿クリニックで、光龍さんからの指示だと言って、計画事例を立ててきたのだ。痩身科目の医師と看護師は、これが頭の回転がのろかった鋼音と同一人物なのかと大変驚いていたという。
「この計画だと六十キロまで落とせる……二十五パーセント減じゃない、すごい!」
「カズサビューティーで施術を受けないと痩せはしないけど、これだけ痩せられるってわかったんだもの。バイトしてお金貯めて、きっと受けるわ」
「なんか、ヒカリのまわりの人ってみんなすごい。有名人の澄花さんに、友だちはあの優美ヶ丘。面倒見ている子は中学生なのに一流企業で勉強。瑠璃って子も、ファッション誌で読者モデルとか、テレビドラマにも出てたし」
「桃さんも、お父さんはプロスポーツ選手だったじゃない。明日はお父さんの経歴のことも新聞に載るよ、きっと」
すでにスポーツ紙では、元梅若丸の娘として取り上げられている。今日の東京都予選優勝で、父にも取材がいくかもしれない。父に何も言わずにここまで進めてしまったことを悔やみはじめる桃である。
「お父さん、わかってくれるよ。今からでも遅くないじゃない」
栞も七海もそう慰める。きっとふたりの父親は理解ある人なのだろう。
「そうでもないよ。私は夢を大反対されて諦めたから」
栞はさばさばした顔だ。女優の道に進む運命なら、諦めようが投げ出そうが、勝手に女優になってしまう、というヒカリの言葉に身を預けているのだ。
カズサビューティーグループのCMに出ることになったのも、ヒカリを介した運命の流れだから、逆らわずに進むのだ。
「七海さんのお父さんは?」
「お父さんは六年間、台湾の企業に出向していたんだ。去年帰ってきたんだよ」
「え……。それは寂しかったね」
七海は父親が単身赴任していたのだ。これはヒカリも知らなかった、七海の家庭の事情である。
「でも毎月帰ってきてたよ。父の会社、日本の企業とも取り引きがあったから、打ち合わせでね。ハウエル・エレクトロニクスとかセイント・セミコンダクターとか」
セイント・セミコンダクター?
そういえば、澄花がはじめてヒカリの見舞いにきた日、ヒカリの口からそんな会社名が出ていた。
ヒカリが占術士というのは澄花から聞かされていたが、なにをやろうとしているのか、そこまでは知らない。澄花はわかっているようだが、踏み込みすぎてヒカリとギクシャクするのが嫌だった。
そうなのだ。こんなに仲良くなったのに、ヒカリはただの高校生の自分とは別世界にいる人なのだ。そう感じてしまい、桃は少し悲しくなってくるのである。
料亭『水月鏡』では、ヒカリと任侠の元締めとの会談が進んでいる。
任侠からの出席者がドヤドヤと入室し、奥へと追いやられた鋼音をヒカリはにこやかに自分の隣にこさせて、まず味わわせたい品を取り皿に分けておく。
「話を聞きながら食べなさい。いえ、食べるのではなく、お料理を感じなさい」
ヒカリはひとつ考えていることがある。鋼音が苦手な刺し身などの生ものを、ここで克服させてみようと思うのだ。やはり刺し身の質の識別は、食材全般の見極めの基礎ともいえる。食感による好き嫌いであったなら、一流料亭の吟味された食材が、感覚を塗り替えるかもしれない。
いきなり脂の乗ったトロでは食感への拒絶感が強い。小皿にまず赤身を分けてみる。
味の濃い食事を好む鋼音だから、あえて醤油もわずかにしてみる。
「なんで生が苦手なのか、これを食べて考えてみなさい。スーパーのお刺身となにが違うのか、その違いが苦手な理由になっているのか、自分で確かめてみるのよ」
「ヒカリ、ちょっとスパルタでない?」
あかりは、好き嫌いは無理に直すものでないと思っているから、チクリと言ってみる。
「いいのよ。鋼音に必要なことなのはあんたにもわかるでしょ?」
ヒカリは体育館でかけていた伊達眼鏡をつけてみせる。瑠璃が揶揄した、教育ママの顔になるのだ。
「ああ。それやられるとね」
鋼音を独り立ちさせる教育ママのヒカリ。もはやおばさん眼鏡とからかう気も起きないあかりだ。
「黒潮組のことだがな、これを守りわしらの中に入れるには、まず四国への対策じゃな」
長いこと対話と駆け引きで勢力を拡大してきた任侠だから、武力で仕掛けてこられるとなると、久々の抗争となる。
「私に考えがあります。ニセ黒潮組を仕立てます」
のっけから誰も考えつかなかった案を出してくるヒカリである。まともに抗争を受ける必要などないということだ。
「その名も黒汐組です」
「お前さんはまたも、突飛な策を考えおる」
「読みが同じですから、口頭では黒潮組と思わせられます。新組織の傘下に黒汐組を作ります」
「黒汐組はどのような組織になるのだ?」
ヒカリのことだから、手を出したら大やけどになるような組織だろうとみながわかっている。
「学習塾です。不登校の子どもたちに勉強をおしえる場とします。近くの交番にも開業の届けを出しておきます。不審者が近づこうものなら、それだけで職務質問できる状況にします」
門脇と大宮はヒカリの手に想像がついてくる。黒汐組を設置して早速、不審者がうろついていると通報しておくのだ。
「塾の生徒は実際に用意しておくのですか?」
「鋼音にいてもらいます。教師の役割は美歌さんという人に頼みました。オープンしたばかりだから、生徒も集まっていないことにします。鋼音一人で問題ありません」
あかりはそれでもひとつ気にかかる。
「黒潮組の所在地に、同じ読み方の黒汐組という名の塾。警察は変だと思わないかしら」
門脇がすぐに感心した顔でいう。
「いえ。かえってうまいやり方です。黒潮組が健全な事業もおこなっているのは周知の事実。長年事務所に使ってきた場所を撤退して学習塾を入れても、健全なのをひとつ増やしただけに見えます。漢字違いの塾名は学習塾らしくありませんが、黒潮組の関連とはじめから知っている人や警察なら、むしろ関係を示唆する名前と受け取り、不自然さはありません」
「なるほど、でも四国はそんなこと知らない。事務所の住所だから黒潮組だと思って討ち入りにきたら、名前違いの学習塾。交番がちょうど警戒にきている時間だったら、鉄砲玉は御用にできるかもしれないわね。そして学習塾の実体は任侠傘下だから、ただちに任侠から討伐隊が出る。四国は慌てるわね。二十三区内にウォンテッドのお触れも出せるから、最低でも黒潮組領地、うまくすれば二十三区に四国は足を踏み入れなくなるわ。こりゃ尻尾を巻いて逃げ帰るわね」
子どもが集まる場所には、主宰が何者であろうが警察には警護する義務と責任がある。不審者の届けを出されようならなおさらだ。
ヒカリの策は警察の立場も利用するのである。
「黒潮組はどこに置く?」
「新光生活サービスの子会社として隠しておきます。黒潮組はもともと株式会社です。ホールディング形式で持ち株会社を作って、黒潮組の株式全部を預けておけば隠すのは容易です。いずれは任侠の同盟組織として復活させますし、隠している間に、議決権を任侠と半々にして、こちらの影響力と従来の黒潮組とのバランスを整えます」
「これは……まず成功するだろうプランです。黒潮組の組長がすぐに乗ってきただけのことはあります」
元締めはただ唸るだけだ。門脇すら昭和期の全国的なヤクザ抗争のことを知らない世代だ。だがヒカリの考えは、抗争を知る世代のような騙しのテクニックである。正面から受けるべき抗争とそうでないものとの区別が的確につくのだ。門脇も、勉強になります、と改めてヒカリの智略に敬服させられてしまう。
次は警察の黒潮組殲滅作戦への対策だ。
「所轄の本音は動きたくないのです。だから、動かなくてよい大義名分を作りました」
「それがこれじゃな」
「はい。新光生活サービスへの中学生の社会体験を後押しする署名。これに葛飾の警察署が署名しています」
「署名したということは?」
「公的な社会体験の場は、背徳性のないことを条件としますから、署名は新光生活サービスが反社会的勢力ではないことを警察が証明したことになります。だから、少なくとも葛飾の警察署は動きません。動けば署名の責任問題が生じます。さらに、警視庁からは、警察庁の手柄のために動いてはいけないと命じられているはずです。警察庁も黒潮組殲滅のために動くよう特命を出しているはずですが、直接の上部組織である警視庁の意を汲みたい立場でしょう。この署名は動かずに済む大義名分になります。そして、葛飾が動かないなら、江東区と江戸川区の所轄も追随します」
だが警察庁が強硬手段をとってくる可能性もある。そのための用意もヒカリは万全だ。
「社会体験は文部科学省肝いりのもの。鋼音のした見学は正式な社会体験にはなりませんが、葛飾の所轄を信用させて署名をもらうには十分です。そして、美歌さんのお母さまにお願いした、文部科学省発行の、新光生活サービスへの社会体験受け入れ企業要請書があります。その企業に手入れをするなら、文部科学省の中等教育担当は処分を受けます。こんなことで処分される職員はたまったものではありません。必ず新光生活サービスのまっとう性を主張してきます。実際業務は健全な企業なのですから、警察庁には勝ち目がありません。無理をして手入れに持っていくにも、最低限、職員の処分に発展しないよう文部科学省との擦り合せが必要ですが、そこまで面倒なことを文部科学省が応じるはずもありません」
鋼音はここでハッと気づくのだ。瑠璃とふたりで、疑問に思っていたことの答えがわかった。
「ヒカリさん、わかりました。署名をしてもらうとき、他の書類をしまっておくように言いつけたのは、社会体験の証明書に区役所の印があったからですね。あの印は……」
「もちろんニセモノ。印だけじゃないわ。証明書自体、本当は存在しないのよ。署名をさせるために私が作ったもの。あれを多くの人に見られると、ニセモノと見破られる可能性がある。だからしまって署名の用紙だけを持っていかせるよう指示したのよ。用が済んだから、ニセ証明書はとっくに燃やしてしまったわ。新光生活サービスをまっとうな会社として社会体験企業に推す警察の署名があればいいわけだから」
警視庁と警察庁との対立の構図など、ヒカリでなければ得られない情報だ。元締め以下、任侠の面々は舌を巻くほかない。
「我々では警察の書類主義の絶対度や、縦組織における服従度がわかりかねます。ヒカリさんがこれで警察を抑えられるというなら、お任せしましょう」
門脇が話をしめて、増本組組長夫妻にも、詳細を黒潮組の執行部に伝えるように命じておく。
「そうなると、今回は鋼音ちゃんがとても重要な役割を遂行してきたわけですね」
双龍がやっと口を開く。とてもではないが、再拝の自分が意見を挟めるような流れではなかった。新組織の総監の立場になるが、ヒカリの助けが必須になることを痛感するのである。
「鋼音ちゃん。今回はお前さんにもご褒美をあげないといかんのう。ゆうてみなさい」
元締めも鋼音の活躍に報いたいのだ。
「お願いがあるんです」
鋼音は箸を置いて、真剣な眼差しを元締めに向けるのだ。
「ヒカリさんが元締めからもらったふたつのカチューシャ、そのどちらかを私にください」
「いやいや、カチューシャが欲しければ、この年寄りが買ってあげよう」
鋼音は首を横に振るのだ。
「ヒカリさんが使っているカチューシャをつけたいんです。私に譲らせて欲しいです」
「鋼音。わかったわ。あんたにこの一本をあげる。私の気持ちを込めてね。元締め、良いでしょう?」
ヒカリは今髪にかけている、薄桃色のファブリック生地であつらえたカチューシャをはずす。二本のうち、普段よくつけている方である。
「ほお……。似合うではないか」
元締めの頬が緩んでくる。ヒカリにあかり、瑠璃と鋼音。妻を亡くし子も持たなかった元締めには、孫娘のような子たちとともに喜ぶのが老いの僥倖なのだ。
「鋼音はヒカリに近づきたいのね」
あかりが鋼音の気持ちを慮ると、鋼音の過去、記憶の封印と改竄に決着をつけなければと、ヒカリの横顔を垣間見てみる。もちろん、ヒカリも同じ決意の目だ。
カチューシャが鋼音へと譲られる。みなが微笑ましく見守ったこのとき──。大きな運命の力が動き出したことに、誰も気づくことができなかった。
とてつもない大きな悲しみをもたらす運命の力だということにも──。




