最終話「悲歌」7
桃はふたりの部員を呼んで、あなたたちを大将と副将にあてる、と告知した。本来なら跳んで喜ぶものだが、この部では四番手と五番手を宣言されたと同じ。力では確実に上回る相手との対戦を余儀なくされるから、彼らふたりはため息をついてしまう。
「それでも勝てる可能性が欲しいでしょ。私の言うとおりの稽古をしなさい」
ヒカリがいうところの、キレキレの変化球。ふたりを、立ち合い当たってからの変化技のスペシャリストにするのだ。高校相撲に立ち合い変化は通じない、の常識を変える相撲を取らせるのである。
桃は、当たりの瞬間に右と左どちらに移るかの瞬間的判断力、当たってから一瞬止まってしまわないスムーズな動き、これを絶対身につけろと言う。
相手がどんな相撲で攻めてくるかにかかわらず、この変化で勝負するのだ。
「明日は組み合わせ抽選会よ。まず初戦の相手が決まるから、対戦順を決めて、それぞれ対策を授けるからね」
その組み合わせ抽選会の日。桃は特別に授業を抜けて、午前十時からの抽選会に向かう。
その前に、もちろんヒカリを迎えにいく。
ヒカリは四時間だけの一時外出の許可をとっていた。一日はもちろんだめだが、四時間なら良いと医師も認めたのである。
病室には、あかりというヒカリの古くからの親友という女性がいる。何度か見舞いにも来ていて、大きな声で騒がしい女の人だ。だがヒカリのことを一番よくわかっている人でもある。
ヒカリのベッド脇には車椅子が用意されている。あかりが準備してきたのだ。
点滴のパックも上側に備えつけて、ヒカリも座ってみる。
「相撲でヘッドコーチなんて初耳よ。これもスポーツ紙で話題になるわね」
あかりが、ヒカリらしい突飛なアイデアね、と笑っている。
ヒカリはヘッドコーチの肩書で外部指導者として自分を登録させておいたのだ。桃は単なるコーチ登録だから、くじ引きをヘッドコーチが行うのになにも不自然はない。そして、療養中のヘッドコーチが車椅子で来場しているのだから、押し役として桃も問題なく入れる。
ヒカリが病室で涼しい顔をしていたように、各校ひとりのみ参加の抽選会にふたりで入るのは、ちょっと知恵を絞ればそう難しいことではなかったのである。
シード枠は、Aグループが一番、四番、七番の三つ。Bグループが十四番、十七番、二十番。
抽選は学校名の五十音順で行われる。誠実学園高校の順番になるまで、すでに三校分のシードが埋まる。
そして、車椅子のヒカリが抽選箱を抱えた職員の前に移動する。
ヒカリは一礼をしてから、抽選箱を射抜くかと思うほどの強い目力を発する。まるで抽選箱を屈服させるかのような威のまといかたに、係りの職員も、後ろの桃でさえも、ビクリとしてしまうのだ。
「誠実学園高校、四番」
ヒカリのその目力が、右手にシードを見事引かせる。桃は最初に当たる、五番と六番の学校名を確かめる。ふたつともすでに埋まっている。
桃は小躍りするのだ。どちらが勝ってきても、強化前の誠実学園高校の実力程度。はじめから準々決勝進出のようなものだ。最高の枠をヒカリは引いたのである。
楽勝という桃を、こここそ気を引き締めるところよ、と諭すヒカリである。
桃が油断することこそ、この大会の最大の敵だとヒカリは危惧しているのだ。
澄花に抽選結果を知らせてから、ヒカリは桃に送られて病院に戻る。それからすぐ、美歌が見舞いにやってきた。
美歌ももう三度目のお見舞いだが、聞くとまだ肩の脱毛施術は完了していないという。
「肩にあるのはわかっていたけど、後ろ側がこんなに濃いとは。変な話、女性ホルモンが減っているとわかってショックだわ」
「ホルモンは妊娠のしやすさに直結しますからね。早いうちに子どもを設けておかないと。とおり一遍の不妊治療では済まなくならないうちに」
ヒカリが心配をしてくれていることに、ありがたく思いながら、美歌はヒカリにも同じ心配をしてみる。
「ヒカリさんも心臓が弱くなってしまったんでしょう? 体力のあるときに産んでおかないと、命と引き換えになってしまいますよ」
「そうねえ。まだ十七だなんで言っていられないのかもね。圭吾くんと暮らしていた間、三回排卵があったはずだけど、どれも妊娠はできなかった……。もしかしたら、体質としてできにくいのかもしれないわ」
美歌は先日の、工藤巡査との会食での会話をヒカリに伝える。
カズサビューティーグループの新宿クリニックの半沢医師が推測していたように、工藤巡査が圭吾に失恋したのは、そのとおりだった。
推量を働かせるのはそのあとのことだ。
碧泉院流親占教会の捜査では、圭吾は父が世話になった礼と称して教会内部の仕事を手伝うことで潜入、工藤巡査は警視庁総務部からの事務として圭吾からの報告を受けていた。
工藤巡査の告白を鵜呑みにするなら、この仕事を通じてふたりは交際に発展したことになる。
だが本当にそうなのか?
「当たり障りなく報告した……」
ヒカリは工藤巡査の歪んだ想いがこのひと言に凝縮されているとみる。
「圭吾くんは、両親の事件を調べていることを、工藤さんに勘づかれたんだわ。工藤さんはそれを報告しないかわりに、交際を求めた」
その頃にはもう、圭吾は母の彩子から、いずれは睦美の娘であるヒカリと結婚させるつもりだと知らされていたはずだ。
圭吾はヒカリのことを遠くから見ることができていただろう。
だから、工藤巡査とは交際とは名ばかりの、空虚な心で接していた。それでも工藤巡査はふたりきりの時間が持てることにすがった。そうヒカリは考える。
「そんな交換条件での交際、脅しと紙一重。幸せになれるなんて思ったのかしら」
美歌は工藤巡査が友だちだけに、周りが見えなくなったゆえの行動には哀れささえ覚えてしまう。そして彼女は、今も圭吾のことを忘れられず、ヒカリへは良からぬ感情ばかりが支配している。
「交際がつづけば愛が芽生える。それに賭けたのよ。賭けざるを得なかった……」
ヒカリの呟きは重く美歌の心に響く。
圭吾はヒカリの両親の殺害事件を追うために、工藤巡査の気持ちを受け入れることにした。
お義母さんのため、そして私のため──。そうヒカリは慮るのである。
ヒカリは工藤巡査が両親の殺害事件に関与していたなら、圭吾がその捜査をつづけられるようにはしないはずと結論づける。自分の関わりを知られたら、嫌われるどころでは済まない。すなわち、関わりがないということだ。
美歌は工藤巡査が、ふたつの殺害事件どちらにも関係していないことが濃厚となり、安堵して帰っていった。ただ、彼女のヒカリへの憎しみはいかんともしがたいだろうが……。
「圭吾くん。私にたくさん隠しごとをしてくれちゃって。ふふ」
両親の事件捜査を隠していたこと、セイント・セミコンダクター社の捜査のこと、工藤巡査のこと。
そして、実は警察を退職していなかったかもしれない深層部分の謎も残っている。
「ぜんぶ許すよ」
心のなかで、そう微笑む。もし、工藤巡査と男女の仲の時期があったとしても、穏やかに受け入れられる。そんな気がする。
あかりがレンタルした車椅子を返却して、病室に戻ってきた。ヒカリが高校相撲の軍師として、澄花とタッグを組んでの予選勝ち抜き作戦である。
ヒカリがこんなにいい顔をしているのを、あかりは久しぶりに見た気がする。
「あら、このお花は?」
坪井家からのお花がしおれてきたと思っていたが、さっきまでなかった新しい花束に入れ替わっている。
「元締めからよ。ついさっき、門脇さんの奥さんがきてくれたのよ。そこのお菓子の山も元締めからだから、あんた好きなだけ持って帰っていいわよ」
「元締めもまたこんなにチョコレートやらクッキーやら……。ヒカリはまだおかゆが少しだけなのに」
「瑠璃さんと鋼音と、桃にもあげてもまだ余るわね。同室の患者さんのご家族にお分けするわ」
あかりは、ヒカリは元締めにとって孫娘みたいなものだからね、とからかい抜きでしんみりする。元締めがどれほど胸を痛めたか、想像に難くない。
「あんたも元締めに水墨画なんかおしえて、すっかり身内じゃない。あんただけでない、瑠璃さんや鋼音まで可愛がってもらえて、こちらも任侠には恩返ししないといけないわ」
「恩返し……新しい組織のことね」
あかりにもヒカリの心配が見えてくる。増本組の扱いなのだ。
増本組は勢力再編の嚆矢だ。新しい組織で要職を持たせ実績につなげたいが、もし関係解消の事態になれば、内部事情が漏れて任侠は区内暴力団からの脅威にさらされてしまう。
「組長はこちらに気持ちが傾いているし、姐さんの明美さんも、瑠璃さんと仲良くなったことでつながりが強くなっている。でも、組長夫婦の気持ちだけで運べるものではないからね。義理の世界なんだから」
「増本組にはもともと盃を交わしていた他の大きな勢力があったんでしょ」
「盃を返したといっても、父親の代からのつき合いだから、組長が板ばさみになることは十分あり得るわ。増本組が離反するようなことがあっては、今後どこも傘下に下らなくなってしまう。増本組が組織の一員と任侠界が認めるまで、明美さんでつなぎとめておかなければいけない」
組長は明美に惚れこんでいるから、明美が任侠側に確実についてくれるようにしたいのだ。
ヒカリはそのためにどう行動するつもりなのか。
「私は当分退院できないから、あんたに代わりに動いて欲しいのよ。まずひとつは、女子会を開いて、明美さんをさらにこちらに取り込んで。ただ、次からは栞と七海ちゃんははずすのよ。特に栞はカズサビューティーの広告が決まったから、任侠に出入りさせるわけにはいかなくなったもの。タレント同然だから」
「そうなると、少しさみしくなるわねぇ」
「若い者衆の奥さんも何人か集めるのよ。門脇さんの奥さんにお願いすれば、人は集められるわ。なるべく明美さんと歳の近い人がいいわね」
ヒカリのふたつ目の頼みはこうだ。
「次に、門脇さんの奥さんと明美さんの間を取り持って欲しいのよ。このふたりが仲良くなれば、増本組の外様感は払拭されるわ」
あかりは門脇の女房と明美、双方に親しくなっているから、そりゃ難しいわよ、というのが率直なところだ。
「門脇さんの奥さんが任侠の奥さま会のトップでしょ。料理教室も開いて、下の若い人たちの奥さんたちをおしえているくらいだから、保守的な人だわ。明美さんとはウマが合うかどうか……」
あかりはそう付け加えるが、ヒカリはそこはさほど心配していない。
門脇の女房はこの世界が長い。四天王の女房同士でも気が合うばかりではないだろうし、任侠や暴力団の世界で、女たちがうまくまとまることの重要性はよく理解しているはずだ。
それにヒカリには、瑠璃と鋼音の存在が大きいものに思えている。
「門脇さん夫婦はあの子たちを可愛がってくれてるし、特に鋼音のことを可哀想に思って大事にしてくれてるわ。明美さんも、瑠璃さんはもちろん、鋼音のことも良くしてくれている。その共通点がかすがいになりそうじゃない?」
門脇の女房は鋼音の不幸な育ちを夫から聞かされ泣いていたそうだし、明美も瑠璃と鋼音を自宅へ食事に招くほどである。どちらの夫婦にも子どもはいないから、特別な感情をいだいていそうだ。
あかりにも、子はかすがい、という言葉がはまりそうだと思えてくる。
ヒカリは、それだけにとどまらないわ、とあかりに目を合わせる。まだ他の思惑があるのだ。
「鋼音がね、鍵かもしれないわ。金谷さんの会社の仕事にすごく興味を持っている。金谷さんの会社は増本組の兄貴格だった組の所有で、社長は組からの出向者よ」
あかりはその先が読めて、思わず椅子から立ち上がってしまう。鋼音から金谷憲斗の会社へ、そこから上部の組へ、ヒカリは触手を伸ばそうというのだ。
「兄貴格の組まで任侠に取り込もうってつもり? あっちは暴力団で、任侠とは志が違うわよ」
「わかってる。でも増本組だって同じだったでしょう? 実現できたら増本組長が板ばさみになることもない。勢力の大きさでも、任侠は二十三区の東側へ影響力を広げられる」
「それはそうだけど……」
「セイント・セミコンダクターのある江東区新小岩にもね」
「ヒカリ!」
これにはあかりも目を見開いて驚かずにはいられない。
こちらのほうにも、あきらめずに新たな戦略を講じていたヒカリなのだ。




