最終話「悲歌」6
澄花は相撲部の部室に入ると、稽古の熱気にサッカーの現役時代を思い出す。
みんな目標に向かって一丸になる。そんな空気が澄花は大好きだ。
入校許可証を首からぶら下げた澄花を出迎えて、桃が部員たちに紹介する。
部員たちの多くは、サッカー解説者としての澄花を情報番組を観て知っているから、芸能人が訪れたかのように気持ちが浮ついているのだ。
「澄花さんは遊びにきたんじゃない。これから澄花さんによる厳しいトレーニングが待っているから、覚悟してね」
桃は、まったく軟弱な連中なんだから、との思いはしまっておき、キツイからね、と予告する。それでも、楽しみにしてますのでよろしくお願いします、としまりのない顔をしている部員たちなのである。
男子ならではのそんなニヤつきは、すぐに消えてしまう。澄花はサッカーのクラブチームのレギュラーフォワードだった。
ゆるい練習でこの子たちが強くなるなどあり得ない、とすぐにわかってしまうのだ。
それまでの優しく親しみやすい顔から、鬼コーチの厳しい形相に変わる澄花である。
大会に出すつもりの五人の当たりを見た澄花は、当たったあとの動きが前後にしかないことに、すぐに気づく。もちろん相手に合わせて右や左に動きはするが、それは攻めの動きではない。
だが、澄花は高校相撲の実力者でさえ、横の動きは多くないことを各種大会の映像を取り寄せて見抜いていた。
互いに相手に合わせての横の動きなら、力と技で上回れたほうが自分の形にもっていける展開となる。
横の動きに特化した稽古を積む必要がないのだ。
澄花は部室に縦線を三本貼る。幅五センチほどの白線テープだ。
「真ん中の線の上に立って、右と左にステップの動きで移動してください」
反復横跳びの練習である。それも素早い動きで行えるようにだ。澄花はストップウォッチを持ち、十秒間で何回移動できるかを測るという。
「これは相手に当たってすぐの行動になります。当たりと同じ前かがみの姿勢で、横への跳びもできるだけ摺り足に近くやってみてください」
サッカーでドリブルのボール運びから相手選手との対峙になったとき、フェイントで相手を抜くのには横の動きの速さは必須だ。
反復横跳びは澄花も嫌というほどの鍛錬を積んだ。
桃は驚いてしまう。高校相撲は仕切り線よりも少し下がっての立ち合いだから、立ち合いに変化を見せても相手はその動きを追えるだけの余裕があるのだ。だから、高校の大会で立ち合いからの変化を仕掛ける力士はまずいない。
だが一度当たってからなら、その変化は勘で読むほかない。横の動きが速ければ、たとえ読まれても、形勢はこちらが優位だ。
そのままはたき落としても良し、横みつをつかんで四つに組んでも良し。
どの学校も、反復横跳びをトレーニングに取り入れてはいないだろう。
これまで鍛えてこなかった内転筋が悲鳴をあげて、選ばれた五人はひっくり返っている。
だが、最初のワンセットから最後の回まで、五人全員が三回以上移動回数が増えたのである。
これを一日二回、毎日させれば数日でもかなりのものだ。
さらに澄花は、残りの部員を連れて、陸上部のトラックに移動する。これは大会に出ない者も含めて全員にさせたい、というのだ。
澄花は短距離走のスタートに用いるピストルを握りしめている。
部員三人をスタート位置に立たせると、ラインを仕切り線だと思って腰を割るように指示する。
なにをするつもりなのか、これは桃にも想像がつかない。
「ピストルの合図で立ち合いの動きをする。ほんのわずかでも早くに動き出したほうが、有利になりますからね」
ピストルの号砲を、集中力を高めて待つ。音の瞬間、相手がいるつもりで前に出る。
「それはわかりましたけど、なんでピストルなんですか」
「ピストルの号砲は一瞬ですよね。瞬間を待つには、音そのものも瞬間のほうが速い反応を感覚的に養えるんですよ」
陸上競技でのスタート音は、昔のピストルに代わり現代では電子音なのだが、スタートの成功が勝負を決する短距離走では、練習でいまだピストルを使う。スタートへの集中力と体の反応力を高めるためなのだ。
ピストルで音の瞬間に前に出られるようになったら、次はホイッスルに変える。ホイッスルはピストルの二倍ほどの音の長さになる。
そして最後に、高校相撲で使われる立ち合い、つまり審判によるハッケヨイの声での立ち合いの速さにつなげるのだ。
音が長いほど、それへの反応力は鈍るものだ。高校生力士は実力者でさえあっても、立ち合いのハッケヨイ、の「ケ」あたりで動き出しているのだ。だから「ハ」の瞬間で立てる反応を身につけさせる。
そもそも高校相撲は、大相撲と違って立ち合いに両者が呼吸を合わせるのではなく、審判のハッケヨイの掛け声が立ち合いの瞬間だ。陸上競技のスタートと同じなのである。
桃は唖然として、ラインの横に立つ澄花の姿を見つめる。はじめて高校相撲の稽古を見にきて、あっという間に相撲界では考えもつかない練習を作り上げる。ヒカリだけでない。澄花もとても頼れる人だ。
澄花のトレーニングはまだつづく。
体を休めた五人を、今度はグラウンド脇の高い鉄棒まで連れ出し、右四つなら左手、左四つなら右手一本でぶら下がるよう指示する。
まわしを取る方の腕を鍛えるのだ。
「懸垂のように顎まで棒に上げなくていいですけど、せめて額くらいまではやってください」
これは桃も意図が読める。まわしを取れたとしても、相手は胸を押してきたり、腰を振ったりの動きで、まわしを切りにかかってくる。それをこらえて、まわしをつかみつづけるためには、握力と上腕の筋力の強化が必須だ。
握力は一朝一夕で身につかないが、上腕筋はある程度強くできる。
「鉄棒をつかむのは、順手と逆手の両方でしてくださいね。交互にやるのが効果的です」
これにも桃は驚かされる。まわしを取る手は、上手下手とも順手の向きになるが、前みつの場合は逆手となる。澄花はそれに気づいていたのだ。
まわしを切られにくくなれば、相手の逆襲の手も限られてくる。
「まだふたつほどありますから、今日は長くなりますけど、つきあってくださいね。桃さんも、相撲稽古とうまく組み合わせるやり方を考えてくださいよ」
このあと澄花は、大会に出場する高校の、今年の取り組み映像をみるという。
そして桃は、職員室に呼ばれて、駆け足で校舎に入っていくのである。
桃は相撲部の稽古を上がってすぐ、ヒカリの病室を訪ねるのがもう日課になっている。
「シードなんだけど、他の大会でのこれまでの成績加味でなくて、完全くじ引きなのよ。私も職員室でさっき知ったんだけど」
「本当なの?」
明後日は組み合わせ抽選会だ。初戦と勝ち進めば当たるであろう学校を絞ることができる。若宮杯予選開催までの八日間で、ヒカリが対戦策を練り、澄花が必要なトレーニングを選び、桃が稽古をつける。
「だから、運が良ければ一戦飛ばせるわ。くじ運自信ないけど、シードに当たらないかな……」
実戦練習なしで本番にぶつけるのだ。対戦数は少ないほうが絶対に良い。シード校になれれば部員たちはもちろん、ヒカリたちの分析の負担も少しは小さくなる。
「桃。組み合わせ抽選のくじ、私が引くわ」
もう見るからにヒカリのほうがくじ運が強そうだ。いや、ヒカリなら神の手のごとくシード枠を引き当てると、なぜかそんな確信が持てる。
しかし、抽選会場に入れるのは各校ひとり。指導者の桃がいないわけにはいかない。
どうしよう。桃は頭を抱えているのだが、
「そんな難しいことではないわ」
ヒカリは澄まし顔で、紙コップの湯ざましをすすっているのである。
ヒカリには策があるのだ。
──頼もしい。頼もしすぎる。
神様が本当にいようがいまいが、桃はヒカリとの出会いを神に感謝せずにはいられなくなるのだ。




