最終話「悲歌」5
次の日にも桃がヒカリの病室を訪れると、前にもヒカリの見舞いにきていた、サッカー解説者の桜井澄花が座っていた。
テレビに出演している有名人である。先日は話かけられる雰囲気ではなかったが、今日は感じが良さそうだ。
「桜井さん! ご活躍いつも見ています!」
澄花は、はじめまして桜井です、と高校生にも丁寧に頭を下げる。こういうところが澄花の人気の高さなのだ。
「ヒカリ、どういう知り合いなの? 羨ましいな」
澄花は、ヒカリさんのほうがはるかに有名人だと言おうとして、ヒカリに目で止められる。
「ヒカリさんは私の結婚式にも出席してくれたんですよ。大事なお友だちです」
桃は思いがけないふたりの親しさに、自分も澄花と友だちになれた気がして感激するのだ。
そして感激だけにおさまらない。ヒカリは、澄花さんこそ私たちの強力な助っ人よ、と紹介するのである。
「澄花さん、私の体を起こしてくれるかしら」
澄花に上体を起こされると、ヒカリに挿されている管が三本だけに減っていると気づく。
「あと少しで、歩く練習もはじめるわ。私もいよいよ活動再開よ」
桃も、ヒカリ良かったね、と自分のことのように嬉しい。
「ヒカリの歩いているところやっと見られるなあ」
だが澄花は、とんでもないです、とほっぺを膨らませる。
「ヒカリさんは心臓も肺も弱ってるんです。活動再開はとっておき、ここで本当の回復までおとなしくしててください。瑠璃さんと鋼音ちゃんに見張ってもらいますからね」
両手を腰にあてて、ベッドのヒカリを見おろしている。まるでお目付だ。
誠実学園高校を東京都代表にするには、やはりヒカリの智略がなければ難しいと澄花もわかっている。
澄花が対戦相手のデータ分析を詳細におこない、その結果を基にヒカリが作戦を組み立てる。それを勝利に結びつける算段なのだ。
「同時に相撲稽古以外の必要なトレーニングを澄花さんに考えてもらうわ。これが他校の上をいくための策よ」
ヒカリの言葉を受けて、澄花は、他校ももちろんだが、自分たちの戦力分析が先だと桃に諭すのだ。
桃の視点はあくまで力士としての力量だ。
スポーツ紙の記事から誠実学園高校は偵察される。こちらの個々の力士としての実力は敵に把握されてしまうであろう展開だ。相撲力だけで勝負しては、力の差以上に不利が大きい。
不利を相撲に専念している者では身につかない力を持たせることで補う澄花の考えだ。
「私も学校にいきますよ。じかに生徒さんをみて、必要なトレーニングの列挙、それの優先順位を決めますね。桃さんは私の校内立ち入り許可を取ってください。ここでは長時間話ができませんから、明日からは私か桃さんのおうちで打ち合わせます」
でも毎日ここにきますからね、とヒカリへ言っておく。ヒカリはにこやかにうなずいる。
このふたりは強い絆で結ばれている。そう、桃にもわかるのだ。
「澄花さんはデータ分析では日本でも指折りの能力よ。それもサッカーだけでない。相撲でも、他校が絶対導けないデータをあげてきてくれるわ。相手の動き、出してくる技を丸裸にしてもらうから、それを私が展開ごとに組み立てる。その対策を、桃は五人の部員に稽古をとおしてたたき込む」
「五人、てことは……」
当初の先鋒からの三人に絞って鍛える方針を変えるということだ。三人の勝率が下がることを想定したのである。
「こちらの力が把握されるということは、副将戦大将戦を捨てにきていることも、メンバー表交換の段階で読まれてしまう。だから、ここに四番手五番手の選手をあてることは変わらないけど、この選手の鍛え方をキレキレの変化球でいくのよ」
どんな策をヒカリは考えついたのか、その顔は自信に満ちている。後先考えないで都代表になると宣言してしまった桃だが、ヒカリの計略どおりに進めていけば、夢などではないと思えてくる。
結婚式を十日後に控えた美歌は、招待する予定の工藤巡査を食事に誘っていた。
ヒカリの両親と夫。ふたつの事件の捜査線上には工藤巡査がいるのだ。ヒカリが動けなくなっている今、自分が何らかの情報を渡してあげたい。そう思っての食事の誘いである。
振り返ると工藤巡査とのつき合いは十年近くになる。世間話しかしたことがないが、まず友だちと言って良い。だが、プライベートなことは互いになにも相談したことがない。
「父の連れてきた人と結婚すること、工藤さんに相談すれば良かったかなって、今になって思うのよ」
「不安なの? 今までどんな人とつき合ってきたのか聞いたことなかったから、美歌さんの好みの男性もどんなだか知らないのよね」
「不安ていうか……どんな人とでも、自分から幸せを作り上げていく行動をするのが結婚だから。ただ、背中を押してもらえることは必要なんだな、て思う」
ヒカリからの受け売りであっても、大事なことだと思う。工藤巡査は、美歌さんは達観したから結婚できるのかな、と自虐気味に笑う。
「好みと違う男性との結婚って、私たちにはあるあるだから……。美歌さんは、男性に望むことってなに?」
「やっぱり包容力かな」
事実婚を考えた富岡雅紀のことが、やはり脳裏に浮かぶのだ。結婚相手には彼ほどの気配りは望めまい。
「工藤さんは、彼氏どう?」
いないことがわかっているが、ヒカリの夫、圭吾に想いを寄せていたことはすでに承知だ。
「言っちゃいなよ。私が先越すから、独身連盟も終わりだし」
そんな連盟を組んだわけではないが、工藤巡査も自分が残ることに一抹のさみしさがよぎるのだ。
「結婚したかった人、いたんだ。でも、だめだった」
「縁がなかったんだ。工藤さんは警察公務員で収入も安定しているし、奥さんにするにはいい条件なのにね。見る目のない男ね」
そう持ち上げて、話のつづきを引き出してみる。
「すごく好きでさ。その人とふたりきりの仕事を組ませてもらって、いい感じのときに告白してみたの」
「えっ。工藤さんから逆プロポーズ?」
ヒカリの話から予想できていたことだが、本人から聞いてしまうと、ハンバーグを切り分けていた手も止まってしまう。
「焦ってたんだな、私。彼はね、八つも年下で、私なんかおばさんにしか見えてなかったんだと思う」
「でも、いい感じだったんでしょう? それくらいの年の差婚はいくらもあるのに、失恋なんて残念な結果ね」
「彼も私のこと好きなんだと勘違いしてたのよ。だから、ショックでさ。仕事もできなくなって、警視庁に戻ったんだ」
「その彼、警視庁の人だったのね。一緒に組ませてもらったてことは、気を利かせてくれたのは総務部長──富樫部長は工藤さんの気持ちを知っていたんだ。それに配慮してくれるなんて、見かけによらず素敵な上司なのね」
富樫部長が異母兄だとは告白しないが、富樫部長からすれば、父親が外に産ませた子だ。いつからその存在を知ったのかわからないが、男兄弟ばかりだったと聞くから、やはり妹は可愛かったのだろう。
「あきらめきれなくて、そのあと、もう一度、部長に頼んで彼と組ませてもらったの。ずっと一緒じゃないけど、いつでも会えるような感じでね」
「すごい。そこまで積極的な人とは知らなかったわ。恋のリベンジ、うまくいった?」
「私は彼の調査の報告を伝える役目だったけど、同時に彼を監視する任務もあったのよ。美歌さんは公安のことわかるから言うけど、今泉部長は神林派の捜査官は誰も信用しなかった。彼は神林部長時代から特殊な任務があって、それがあったから今泉部長にも重用されてたんだけど、いつも監視されていたの。私と結婚どころか交際もしないのは、富樫部長の弱みにならないためだと思ったわ」
富樫部長が次の警視総監の座を狙っているのは、多くの人がその認識だろう。同じ部長職の今泉公安部長もまた、警視総監の椅子を虎視眈々と見据えている。
「そんな……。恋どころじゃない感じじゃない。彼の気持ち、つかめた?」
それには答えず、工藤巡査は声を冷たくする。
「そしたら、潜入先の偉い人の一声で、彼は結婚したのよ。それも十六歳になったばかりの子どもみたいな子と」
「それ、命令で結婚したみたいな?」
「結婚は表向きで、本当の目的はその子のボディーガードだった。彼は二十四時間つきっきりでその子のそばにいつづけた。私ともまったく連絡をとらなくなった……」
「じゃ、それまでは連絡を取り合う仲にまでなれたんだ」
私のことをおばさんにしか見えてなかった。彼も私のことを好きだと勘違いしていた。そんな状況から、互いに連絡を取り合うようになったとは、どんな変化が訪れたのだろうか。工藤巡査の想いに情がほだされたのか。美歌にはなにか引っかかる。
「連絡もできなくなるって言われて……。私は、いつまでも待ってる、て伝えた。彼も、わかった、って」
どこまで気づかぬふりをするべきか、美歌は迷っている。圭吾はヒカリと結婚するよう葛原麗華から言い渡される前、工藤巡査と結局関係を結んだのか?
それを聞こうか考えたとき、工藤巡査は急に涙を落とす。
「二月にね、彼は死んだのよ。殺されてしまった」
「えっ……。じゃ、工藤さんの好きだった人は、八矢くん──」
ここで美歌が相手に気づいても不自然ではなくなった。二月に亡くなった公安捜査官は圭吾しかいない。
だめだった、の意味が、失恋だったのか、圭吾が死んだことなのか、美歌にはわならなくなってくる。連絡を取り合っていたということは──。
「夢見てた。いつか、彼と結婚して、子ども産んで、幸せになることを。だから、彼の行動の報告も、当たり障りなくしてきたのに」
当たり障りなく、ということは本来は報告すべき疑わしさがあったのだろうか。だが今それを聞いてしまえば、泣いている工藤巡査でもおかしく思うに違いない。話の主人公はあくまで工藤巡査にしておかなければ。
美歌は深入りせずに、この話からのヒカリの洞察を待つことに決める。
「八矢くんが死んだとき、工藤さんは所轄にいたはずよね。捜査の担当も所轄だから……」
「そう。遺体確認で結婚した相手がきたわ。捜査一課に。この子が彼の結婚相手かと思うと、やり切れなかった……。彼が死んだ悲しさと、彼をとられた悔しさで、涙が止まらなかった」
工藤巡査は、圭吾は不本意にヒカリと結婚したと思っていたのだ。だから、ふたりが愛し合った現実を受け入れなれなかった。美歌にはおおよその心象風景が見えてくる。
思い返せば、工藤巡査は東原公園を舞台にした覚醒剤配布事件でヒカリの補助を直接務めていたし、つい最近も碧泉院流親占教会へ、おそらく事務局長への使いに訪れている。捜査一課でも幾度となくヒカリと顔を合わせているはずだ。
ヒカリは圭吾への愛を隠さないし、夫婦生活が幸せだったことを誰にでも話し、みんなが知っている。工藤巡査も直接間接どちらからも聞かされただろう。
短い月日でも、自分がつかめなかった幸せを送れたヒカリと、関わらざるを得ない。表面で涙を止めても、心の涙はずっと流しつづけていたということか。
こんな話になると、食事も進まないふたりだ。美歌も飲み物を時おり口にするしかできない。
「東原公園でプレハブの壁を壊したことがあったでしょ。あのとき、その子が絡んでいたのよ。横溝さんが公園の差配として潜入していて、密室のプレハブがあると相手の動きが読めなくなるからって使えなくするよう頼まれた。防犯カメラがあるから公安の人間は使えないからって。あの子、占術士なんだけど、頭の切れと洞察力がすごいのよ。横溝さんがものすごく警戒していたほど。そして、あの子は彼と考え方が似ていた。彼と暮らしていたから──彼のそばにいたからよ。課長に頼まれてあの子と一緒にいた時間も正直、あなたなんか死んでしまえ、て思ったわ」
工藤巡査の一途な想いはよくわかったが、美歌は哀しく思えてしまう。工藤巡査よりも、ヒカリの圭吾への愛情のほうがより強かったと感じざるをえない。
女性の男性への愛情は、心と体とが一体になることで揺るぎないものになる。ヒカリから聞かされたことがあるその言葉は、美歌に欠けていたものを補った。それはまた、心ばかりに偏った工藤巡査の人生にはいまだ欠けている。
工藤巡査はヒカリの敵なのかそうでないのか。少なくとも、圭吾を死に導くような役割りではなかったと見るが、ヒカリの両親が殺害された件には、警視庁総務部の一員として関わりがあったかもしれない。
そして今、ヒカリに対しては嫉妬、憎しみ、そして大きな悲しみをないまぜにした感情に流されている……。
地下駐車場の階段のそばに、瑠璃は立っている。前には刃物を握りしめた男。逃げたい。でも足は石のように重い。自分の意思で動かせない。
男が刃を光らせた。瑠璃はきつく目を瞑る。
目を開けると、ヒカリが自分をかばって刺されている。
ヒカリのお腹から、たくさんの血が流れ出て、心臓が止まってしまった。
「ヒカリさん」
呼びかけると、ヒカリは返事をする。
「これでいいのよ。私の使命だから」
「ヒカリさん……」
「使命って、命を使うこと。使ったら、なくなる。だから、これでいいの」
ヒカリの体が見えなくなっていく。ヒカリが消えていく──。
「ヒカリさん! ごめんなさい! ヒカリさんっ!」
夢だ。
ヒカリが歩く練習をはじめたというのに、瑠璃はこんな夢をみるようになった。
滅多な物音では睡眠を破られない鋼音が、瑠璃平気?と体を起こしている。それほどうなされていたのだ。
「平気じゃない。こんな夢やだ。鋼音!」
鋼音にしがみついて、震えるのだ。
もう何度目なのか、瑠璃は同じ夢を繰り返している。そのたびに、ヒカリはいなくなる。
「ヒカリさん、桃さんのお相撲に夢中だよ。元気になってるよ」
そうなのだ。ヒカリは同室になった星野桃という高校生に頼られて、まず気力がいっぱいに回復した。
体のほうも、あと二週間で傷も癒えてくる見込みらしい。だが心肺停止に陥ったことが、心臓の弱り方に追い打ちをかけていて、心不全には十分気をつけなければいけないと、瑠璃と鋼音、ふたり並んで医師から説明された。
心臓と、それから肺活も弱くなったらしい。元のように回復するには、長い期間の静養が必要だそうだ。
刺されたことだけではない。心肺を悪くしたのも、リベンジポルノの件で倒れさせた自分のせいだ。瑠璃はヒカリの人生を狂わせたことを、自責せずにいられない。
ヒカリが治っていくほど、強く感じるようになり、今のような夢を見るようになった。
「ヒカリさんは死なないし、元気になるよ」
鋼音は抱きつかれるまま、瑠璃の耳元で、持ち前のぽやんとした口調でささやく。
「でも、夢が怖いんだよ……鋼音。眠りたくない。一緒に起きていて」
鋼音は、ヒカリさんは死なないよ、と瑠璃の背中をさすってあげる。
「救急車呼んでから、私、神様にお願いしたんだ。ヒカリさんを助けてください。助けてくれたら、私が代わりに死にます、って」
神様への約束を、鋼音は呪文のように、何度も、何十回も、あの日、繰り返していたのだ。
「鋼音……」
「だから、死ぬんだったら──」
「鋼音。ヒカリさんが誰よりも大事にしている鋼音を神様が連れていくはずない。神様が鋼音を死なせたら、それはヒカリさんを死なせるのと同じだよ。ヒカリさんを助けた神様なら、鋼音にはこの世でヒカリさんを守れっていうはずだよ」
鋼音は少し考えて、そうだね、と軽く言う。瑠璃はその軽さにホッとするものを感じるのだ。
「鋼音、ふたりでヒカリさんを守っていこう。私たち、ずっと一緒だよ」
瑠璃はやっと鋼音の体から離れて、落ち着いてくる。鋼音にも、気持ちの鎮まりが伝わったようだ。
「うん。瑠璃、もう眠れるよね。もう嫌な夢は見ないよね」
瑠璃は嬉し涙を浮かべて、鋼音の手を握りながら体を横にする。
「おやすみ、鋼音。ありがとう、私の親友」




