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給仕の名前はシナプス・サトー。偶然にも、シナプススキャンと似た名前だった。
「サトーさんは量子汚染症なの?」
「いや、彼女はそうではない。だが……彼女の脳波には不審な点がある。最終試験の内容は、その不審点を調べてくることだ」
「不審な点?」
モニタールームでは、あのトンチンカンな格好をしたソムリエが心配そうにサトーを見ていた。夢の中では奔放な人間だったのに、今ではモニタールームのガラス窓が割れそうなほど顔をくっつけてこちらを見ていた。同時に零れそうな胸もガラスに押し付けられて、九条博士はまだしも、神崎までが鼻の下を伸ばしていることに量子は気づいていた。大人の男っていやらしい——!
「夢、だよね」
量子はひとりごちた。混乱して何が現実なのかわからなくなる。二人は夢の中と同じ格好で現実に現れた。いや、これが現実かすら疑わしい。連日、他人の意識やダミーデータを頭の中に入れているのだ。まさに今が夢なのかも知れないし、ダミーデータの中なのかも知れない。徐々に現実と虚構の境が曖昧になってきていることに、このときの量子は気付いていなかった。
ヘルメット型の冷却装置を装着する。これがダミーデータの中なのであれば、ダミーデータの中でダミーデータにアクセスすることになる。永遠にそれが繰り返されていったら、永遠の命を得られるのだろうか、などと考えていると首筋が熱くなった。
生身の人間の意識に侵入するのは初めてだった。
量子の脳内に展開されたサトーの意識を見てハッとした。夢で見たあのレストランだ。
「記憶のフルコースでございます」
急に現れたサトーが量子の目の前に皿を並べてゆく。
卓に乗り切れないほどの料理が運ばれてくる。並べる端からサトーの手に新しい皿が出現する。
戸惑っていると、サトーが量子の口に料理を運んでくれる。次から次へと。まだ口の中に食べ物が入っているのに、無理やり手を突っ込んでくる。やめてと言うこともできず、飲むように食べ続けた。飲み込んだ食べ物はどこか別の空間に消えるみたいに腹にたまらない。
「前頭葉のコンフィでございます」
夢で見た脳と同じものが出てくる。油が脳を覆ってテラテラ光る。不思議と吐き気は湧き上がってこなかった。それどころか美味そうだ。涎が垂れてくる。早く食べたい。
前頭葉にナイフをいれると、スッとナイフが通った。所詮データだ。手応えがない。そのくせ切れ目からドロリと垂れる血はリアリティがあり、血の匂いすら芳しい。
フォークを刺し、口へ運ぶ。何者かに操られているみたいに動作が自然だった。
「い、いや……」
量子は必死に顔を背けようとするが、首がうまく動かない。強い力で抑え込まれているようだ。
「私を食べなさい」
姉の声が聞こえた。
「お姉ちゃん……?」
しまった。声を出した拍子に口を開けてしまった。
その瞬間を見逃さず、量子の操られた手は口の中に脳髄の一部を放り込む。
咀嚼。
鼻腔にあふれる血の匂いは、粘膜を突き抜けて脳を貫く。血液が逆流したみたいな感覚に襲われ、事実髪の毛は逆立っている。意識の世界だからだろうか、髪の毛が一本残らず天に向かって立っている。髪の毛は徐々に赤色に染まり、血液が充填されたように見える。
食べたことのないような、素晴らしい味に感じた。何かに似ているということではなく、これこそが至高の味だと脳が認識する。その美味しさに恍惚として意識が吹き飛びそうになる。
これは何——お姉ちゃんなの?
そんなはずはない。
ここは意識の世界。そうだ。あたしはお姉ちゃんを助けるんだ。そして、あの日の犯人に復讐するために、絶対に訓練を成功させないといけない。
惑わされるな——それに、対象は知らない女の子。しかもこれは訓練だ。人の意識をダウンロードすることに慣れないと。
九条博士が言っていた。対象の脳は特殊だと。その理由を見つけなければならない。
こんなものに負けていられない——量子は掻き込むように脳を口に含んで飲み下した。咀嚼しようがしまいがどうせ味なんてないのだ。飲み込んだあとに脳が美味だったと錯覚しているだけだ。ただのデータの移動に過ぎない。
ぐいと口元を袖口で拭うと、量子は立ち上がった。
「ごちそうさま。これで終わりかしら?」
傍らに立っているシナプス・サトーはにこやかにこちらを見ている。
「デザートが残っております」
「それなら早く出しなさいよ」
「お座りください」
促されるように再び椅子に沈み込む。やけに柔らかい椅子だ。見ると、すでにデザートが並んでいた。
透明なデザートグラスに、虹色の金平糖が山と盛られている。
「金平糖?」
フランス料理のデザートとしてミスマッチのような気がする。よく見ると、表面に微細な逆五芒星が刻まれており、光源にかざすと内部に無数のシュレディンガー方程式が透けて見える。人の手では作り得ない精巧な芸術品のように思えた。
サトーがジッと見つめてくる。促されるように一粒取り上げて口に入れた瞬間、ハンマーで殴られたような衝撃と冷気。誰かの人生のいちばん高い場所が、喉の奥から無理やり流し込まれてくる。知らない結婚式。知らない優勝。知らない初恋。これが——記憶のフルコース。脳髄に電極を突き刺されて、絶え間なく電流を流されているような体験だった。意識の中の量子はその強すぎる快楽に小便を漏らした。
どれくらい時間が経ったろうか。量子には永遠のように感じた。
「もうすぐ眼球が溶けて流れ出ます」
サトーがこともなげに言い放つ。量子はよだれを垂らしたまま虚ろな目でサトーを見上げる。
——眼球が? なんだって?
強すぎる快楽に声を出すことすらできない。
「お客様が召し上がったデザートには量子花弁の微粒子が含まれておりますので、そのうち右目が電子化して武器になります」
「あ、あんた……」
椅子から滑り落ちるように立ち上がり、サトーの足元を這いずる。ズボンの裾を掴んで彼女の顔を見上げると、先程とは違う邪悪な笑顔だった。これが、九条博士が言っていた不審点か。彼女は量子汚染症の感染源、つまり量子花弁を操る敵だったのだ。
「ひゃっはっは」
サトーが量子の手を蹴り上げる。それでも量子は、ニヤリと笑ってみせた。
「失敗したわね。これは意識の世界。ここでやられても、現実に戻れば体は無事だし記憶も残ってる。だから、あんたを捕まえるわ」
「お客様が召し上がられたデザート。あれにはニューロングリドルで指令が書き込まれていたんですよぉ」
「ニューロン……なに? 指令って?」
「脳内麻薬物質を固形化するには、生体脳保存液の蒸発温度を精密に制御する必要がある……アルゴン博士が教えてくれました」
彼女は突然、早口になった。知らない言葉が押し寄せてきて、理解が追いつかない。混乱していると、彼女は高らかに笑って量子の額を人差し指で小突いた。
「つまり、デザートを食べたあとの記憶はすべて消える、ってことです」
サトーが指を鳴らすと、彼女の言う通り量子の眼球が溶け始めた。痛みはないが、見えない恐怖でパニックになった。
サトーの狂った笑い声だけが聞こえ続ける。
失敗した。だが、この様子を誰か、九条博士か神崎がモニタリングしているはずだ。
そう願ったまま、量子は眼球とともに意識が溶けた。




