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屋上へは、栞が「空の見える場所がいい」と望んだ。
五年ぶりの階段を、栞は支えられながらも自分の足で登った。その足取りは頼りなくて、でも、一段ごとに確かになっていった。まるで体が、歩き方と一緒に生きていた頃の時間を思い出してゆくようだった。
歩きながら、量子は栞と色々な話をした。まるで、この時間が永遠に続くみたいな気がした。栞の足がうまく動かないのを差し引いても、わざとゆっくり歩いているように感じた。
「ねえ、お姉ちゃん。ひとつ訊いていい?」
「なあに」
「訓練のシミュレーションでね、いつもお父さんが出てきたの。栞を助けるな、って叫んで。あたし、そのたびに弾き出されて……あれ、お父さんの、なの?」
栞は少しだけ黙って、それから、ごめんね、と笑った。
「私。お父さんの姿を、借りてた」
「なんで」
「あなたが深く潜るほど、あの夜を思い出してしまうから。それに、あなたの目は、あの人と繋がっていたから。あなたが私を探し当てたら、あなたの目を通して、あの人が私を見つけてしまう」
量子は息を呑んだ。実際、その通りになったのだ。特異点で、九条博士は量子の目を辿って栞を見つけた。五年間、姉は妹の目から隠れることで、妹を守っていたのだ。
「ひどいよ。あたし、ずっと自分のトラウマのせいだと思ってた」
「トラウマのせいでもあるのよ。私はただ、その背中を少し押しただけ」
姉はいたずらっぽく笑った。その顔が昔と同じで、量子は怒れなくなった。この会話を最後に、二人はとうとう屋上へたどり着いた。量子は屋上の扉を開けるのをためらった。この扉を開けてしまったら、この楽しかった時間が終わってしまう。震える手で、扉の取っ手を掴めないでいると、横から灰原がそっと手を重ねてきた。見ると、灰原が頷く。それを見て、量子は吹っ切れた。
屋上の扉を開けると、灰色の空が広がっていた。
静止した黒い花弁が、視界の果てまで敷き詰められた空。世界中の悪意と孤独を貼り付けたような、動かない空だった。
「ずいぶん汚しちゃったのね。あの人」
栞は空を見上げて、怒るでもなく、ただ悲しそうに言った。
「ねえ、りょうこ。最後に一つだけ、わがままを言っていい?」
「なに?」
「喉が渇いたわ」
量子は、一瞬きょとんとして、それから、弾かれたように階段を駆け下りた。三階の自販機。売店はもう閉まっていたが、そこにあることを知っていた。五年間、通うたびに買った。飲ませてあげられないまま、持ち帰り続けたオレンジジュース。
静止した販売機に硬貨は通らなかった。量子は構わず右目を光らせ「この販売機は、あたしにジュースをくれる」と定義した。ごとん、と音がして、取り出し口に冷えた一本が落ちてきた。世界を確定させる力の、最後の使い道がこれか。でも、しょぼいくらいがちょうどいい。
屋上に戻り、キャップを開けて、手渡す。
栞は両手で受け取って、ゆっくりと、一口飲んだ。
「ん。美味しい」
目を細めて、心の底から言った。
「五年ぶりの味が、これでよかった」
「安いジュースだよ。もっといいやつ、いくらでも」
「これがいいの」
栞は、もう一口飲んで、笑った。
「小さい頃、あなたが熱を出すたび、私が買ってきてあげたでしょう。おつかいの帰りに、二人で半分こしたこともあった。覚えてる?」
「覚えてる」
栞は残りを大切そうに飲み干すと、空の容器を、宝物のように量子に返した。
「その味も、一緒に持っていくわ」
準備は、静かに整った。量子が神崎の前に立った。
「手荒になるかもよ。渡し方なんて、知らないから」
「構いません」
量子は右目を閉じ、姉から受け継いだ夜のことを思い出した。額と額。あのときの逆をやればいい。爪先立ちで、滲んだマスクの額に、自分の額を押し当てる。
「持ってけ」
右目の奥で、純白の光が解けた。五年間、憎しみの色に燃え、姉の色に染まり、最後に自分の色になった光が、白い光の細い帯になって、額を通って流れてゆく。あとに残った右目は、何の変哲もない、ヘーゼルブラウンの瞳に戻った。
神崎の滲んだ体が、内側から光を帯びた。崩れかけていた輪郭が、光に縁取られて、確かな形を取り戻す。マスクの目の穴の奥に、小さな白い点が二つ灯った。
「重い、力だ」
神崎が、噛みしめるように言った。
「ええ。あなたの五年間の重さです。確かに、お預かりしました」
屋上の中央で、栞とアルゴン博士が、向かい合って立つ。
「本当にいいのね。神崎さん」
「ええ。ああ、その名前で呼ばれるのは、久しぶりだ」
アルゴン博士——神崎は、滲んだ手をゆっくりと差し出した。
「行きましょう、栞さん」
栞がその手を取ろうとしたとき、灰原が「待った」と声を上げた。彼はつかつかと神崎に歩み寄り、その滲んだ胸元に、何かを押し付けた。
警察手帳だった。
「これは?」
「貸しといてやる。お前の逮捕状の代わりだ。世界中がお前の留置場ってわけだ。脱走すんじゃねえぞ」
神崎は、手帳を見下ろして、それから、マスクの奥で確かに笑った。
「厳しい刑ですね。謹んで、服役します」
サトーが、とことこと歩み寄った。彼女は抱えていた酒瓶を——灰原が略奪してきた、リーのための一本を、少しだけ掲げてみせた。
「リーのぶん。いってらっしゃい」
「ええ。行ってきます」
最後に、神崎は量子を見た。もう、言葉は交わさなかった。全部、済んでいた。量子はただ、まっすぐに彼を見返した。丸ごと覚えている、と言った、その目で。
栞が、妹に向き直る。
「りょうこ」
「うん」
「泣かないで、とは言わないわ。いっぱい泣いて。いっぱい怒って、いっぱい笑って、いっぱい生きて。そのぜんぶを、私は見てるから」
「うん……っ」
「大好きよ。私の、自慢の妹」
栞は、最後にもう一度だけ、量子を抱きしめた。オレンジの匂いが、かすかにした。
そして、身を離すと神崎の手を取った。
二人の観測者が、目を閉じる。
世界が見つめ返された。
最初に変わったのは、空だった。
静止していた黒い花弁の一枚が、ふ、と白く色を変えた。一枚が二枚に、二枚が百枚に。夜が明けるように、汚れが洗われるように、白は空の果てへ向かって広がっていった。白く変わった花弁は、雪解けの淡雪のように輪郭を緩め、光の粒になって、ゆっくりと溶けてゆく。
栞と神崎の体が、足元から光に変わり始めた。
それは崩壊ではなかった。散っていくのではなく、広がっていた。二人の輪郭が柔らかくほどけて、空へ、街へ、静止した人々の上へ、降る光になって染み渡ってゆく。
「お姉ちゃん」
たまらなくなって量子が叫んだ。
「お姉ちゃん!」
もう一度叫ぶ。
「ありがとう! あたしも大好き!」
喉が潰れるほどの大声が、空に響いた。
『……見ろ』
そのとき、掠れた声が、世界の底から響いた。
『私を見ろ……私はここだ……私は九条だ……天才、九条だぞ……!』
すでに力を失ったはずの量子の右目が疼いた。
声の源が視えてしまう。世界の深部、溶けてゆく黒い花弁の残滓の奥で、必死に自分の輪郭を掻き集めている、小さな、小さな影。
拳が、震えた。
殺してやりたかった。八つ裂きにして、生まれてきたことを後悔させてやりたかった。五年間、その炎だけで生きてきた。灰原の車の中で、迷いなく「殺すよ」と言ったあの日の自分が、力を失った右目の奥で憎悪を燃やしている。
ふと、気付いた。この憎悪さえ、九条博士にとっては燃料となるということを。量子が憎めば憎むほど、九条博士に力を与えているということを。
『見ろぉ……頼む……誰か……誰でもいい……私を、観測しろ……私は、いる……私は、いるんだ……!』
声から、傲慢が剥がれ落ちていた。残ったのは、剥き出しの、ただの寂しさだった。
量子は、目を閉じた。気持ちを落ち着けるように深く息を吸って、そして、開けた。
その目は、もう深部を見ていなかった。空を見ていた。白く染まってゆく、姉の空を。
「あんたのことは、もう見ない」
静かに言った。
「憎むのもおしまい。あたしの世界に、あんたはもういない。ずっと前からいなかった。これからも、いない」
それが、量子の五年間の本当の終わりだった。
『あ……ああ……いや、だ……見ろ……みて……くれ……だれか………………クソ……いつか必ず蘇ってやるぞ……いつか……』
声は、次第に細く、遠くなり——白い光が世界の深部にまで届いたとき、そこには最初から何もなかったかのように、ただ、静寂だけが残った。
誰にも観測されなかったものは、存在しない。
誰にも看取られず、誰にも憎まれず、誰の記憶の敵役にすらなれないまま、九条博士という現象は、世界から静かに削除された。
光が、街に満ちてゆく。
静止していた雲が、流れ始めた。
風が吹いた。五年ぶんも十年ぶんも溜まっていたような、大きなあたたかい風だった。
眼下の街で、凍りついていた人々が、動き出す。逃げ惑う姿勢のまま止まっていた母親が、我が子を抱きしめてへたり込む。空を見上げていた学生が、悪夢から覚めたように頭を振る。街のあちこちから、ざわめきが、クラクションが、誰かを呼ぶ声が、音が還ってくる。
世界が、再生を始めた。
「終わった、のか」
灰原が、呆然と空を見上げた。
白い光の奔流の中に、栞と神崎の姿は、もうなかった。ただ、降り注ぐ光の粒が、屋上の四人、いや、三人とサトーの腹の中の一人を、優しく包んでいた。
量子は、空に向かって手を伸ばした。
光の粒が一つ、手のひらに落ちる。
温かい。姉の手のひらと、同じ温度。
その瞬間、量子の右目の奥で、ぷつ、と何かが切れる感触がした。
譲り渡した力と自分を繋いでいた、最後の細い糸。それが役目を終えて、光の中へ解けていったのだ。
支えを失ったように、量子の膝から力が抜けた。
「おい……」
灰原の慌てた声が、遠くに聞こえる。視界が、白く、白く、滲んでゆく。
怖くはなかった。
この白は、あの演算核の悪意の白ではない。眠りに落ちる直前の、朝の光の色だった。
——見てるから。
姉の声が聞こえた気がした。世界のどこからでもなく、世界のすべてから。
——いっぱい、生きて。
「うん」
量子の意識は、あたたかい白に包まれて、ゆっくりと、溶けるように途切れた。




