↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メンタル・ポルノ 量子的食脳  作者: よねり
第5章「覚醒の儀式」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
64/66

64

 屋上へは、栞が「空の見える場所がいい」と望んだ。

 五年ぶりの階段を、栞は支えられながらも自分の足で登った。その足取りは頼りなくて、でも、一段ごとに確かになっていった。まるで体が、歩き方と一緒に生きていた頃の時間を思い出してゆくようだった。

 歩きながら、量子は栞と色々な話をした。まるで、この時間が永遠に続くみたいな気がした。栞の足がうまく動かないのを差し引いても、わざとゆっくり歩いているように感じた。

「ねえ、お姉ちゃん。ひとつ訊いていい?」

「なあに」

「訓練のシミュレーションでね、いつもお父さんが出てきたの。栞を助けるな、って叫んで。あたし、そのたびに弾き出されて……あれ、お父さんの、なの?」

 栞は少しだけ黙って、それから、ごめんね、と笑った。

「私。お父さんの姿を、借りてた」

「なんで」

「あなたが深く潜るほど、あの夜を思い出してしまうから。それに、あなたの目は、あの人と繋がっていたから。あなたが私を探し当てたら、あなたの目を通して、あの人が私を見つけてしまう」

 量子は息を呑んだ。実際、その通りになったのだ。特異点で、九条博士は量子の目を辿って栞を見つけた。五年間、姉は妹の目から隠れることで、妹を守っていたのだ。

「ひどいよ。あたし、ずっと自分のトラウマのせいだと思ってた」

「トラウマのせいでもあるのよ。私はただ、その背中を少し押しただけ」

 姉はいたずらっぽく笑った。その顔が昔と同じで、量子は怒れなくなった。この会話を最後に、二人はとうとう屋上へたどり着いた。量子は屋上の扉を開けるのをためらった。この扉を開けてしまったら、この楽しかった時間が終わってしまう。震える手で、扉の取っ手を掴めないでいると、横から灰原がそっと手を重ねてきた。見ると、灰原が頷く。それを見て、量子は吹っ切れた。

 屋上の扉を開けると、灰色の空が広がっていた。

 静止した黒い花弁が、視界の果てまで敷き詰められた空。世界中の悪意と孤独を貼り付けたような、動かない空だった。

「ずいぶん汚しちゃったのね。あの人」

 栞は空を見上げて、怒るでもなく、ただ悲しそうに言った。

「ねえ、りょうこ。最後に一つだけ、わがままを言っていい?」

「なに?」

「喉が渇いたわ」

 量子は、一瞬きょとんとして、それから、弾かれたように階段を駆け下りた。三階の自販機。売店はもう閉まっていたが、そこにあることを知っていた。五年間、通うたびに買った。飲ませてあげられないまま、持ち帰り続けたオレンジジュース。

 静止した販売機に硬貨は通らなかった。量子は構わず右目を光らせ「この販売機は、あたしにジュースをくれる」と定義した。ごとん、と音がして、取り出し口に冷えた一本が落ちてきた。世界を確定させる力の、最後の使い道がこれか。でも、しょぼいくらいがちょうどいい。

 屋上に戻り、キャップを開けて、手渡す。

 栞は両手で受け取って、ゆっくりと、一口飲んだ。

「ん。美味しい」

 目を細めて、心の底から言った。

「五年ぶりの味が、これでよかった」

「安いジュースだよ。もっといいやつ、いくらでも」

「これがいいの」

 栞は、もう一口飲んで、笑った。

「小さい頃、あなたが熱を出すたび、私が買ってきてあげたでしょう。おつかいの帰りに、二人で半分こしたこともあった。覚えてる?」

「覚えてる」

 栞は残りを大切そうに飲み干すと、空の容器を、宝物のように量子に返した。

「その味も、一緒に持っていくわ」


 準備は、静かに整った。量子が神崎の前に立った。

「手荒になるかもよ。渡し方なんて、知らないから」

「構いません」

 量子は右目を閉じ、姉から受け継いだ夜のことを思い出した。額と額。あのときの逆をやればいい。爪先立ちで、滲んだマスクの額に、自分の額を押し当てる。

「持ってけ」

 右目の奥で、純白の光が解けた。五年間、憎しみの色に燃え、姉の色に染まり、最後に自分の色になった光が、白い光の細い帯になって、額を通って流れてゆく。あとに残った右目は、何の変哲もない、ヘーゼルブラウンの瞳に戻った。

 神崎の滲んだ体が、内側から光を帯びた。崩れかけていた輪郭が、光に縁取られて、確かな形を取り戻す。マスクの目の穴の奥に、小さな白い点が二つ灯った。

「重い、力だ」

 神崎が、噛みしめるように言った。

「ええ。あなたの五年間の重さです。確かに、お預かりしました」

 屋上の中央で、栞とアルゴン博士が、向かい合って立つ。

「本当にいいのね。神崎さん」

「ええ。ああ、その名前で呼ばれるのは、久しぶりだ」

 アルゴン博士——神崎は、滲んだ手をゆっくりと差し出した。

「行きましょう、栞さん」

 栞がその手を取ろうとしたとき、灰原が「待った」と声を上げた。彼はつかつかと神崎に歩み寄り、その滲んだ胸元に、何かを押し付けた。

 警察手帳だった。

「これは?」

「貸しといてやる。お前の逮捕状の代わりだ。世界中がお前の留置場ってわけだ。脱走すんじゃねえぞ」

 神崎は、手帳を見下ろして、それから、マスクの奥で確かに笑った。

「厳しい刑ですね。謹んで、服役します」

 サトーが、とことこと歩み寄った。彼女は抱えていた酒瓶を——灰原が略奪してきた、リーのための一本を、少しだけ掲げてみせた。

「リーのぶん。いってらっしゃい」

「ええ。行ってきます」

 最後に、神崎は量子を見た。もう、言葉は交わさなかった。全部、済んでいた。量子はただ、まっすぐに彼を見返した。丸ごと覚えている、と言った、その目で。

 栞が、妹に向き直る。

「りょうこ」

「うん」

「泣かないで、とは言わないわ。いっぱい泣いて。いっぱい怒って、いっぱい笑って、いっぱい生きて。そのぜんぶを、私は見てるから」

「うん……っ」

「大好きよ。私の、自慢の妹」

 栞は、最後にもう一度だけ、量子を抱きしめた。オレンジの匂いが、かすかにした。

 そして、身を離すと神崎の手を取った。

 二人の観測者が、目を閉じる。

 世界が見つめ返された。

 最初に変わったのは、空だった。

 静止していた黒い花弁の一枚が、ふ、と白く色を変えた。一枚が二枚に、二枚が百枚に。夜が明けるように、汚れが洗われるように、白は空の果てへ向かって広がっていった。白く変わった花弁は、雪解けの淡雪のように輪郭を緩め、光の粒になって、ゆっくりと溶けてゆく。

 栞と神崎の体が、足元から光に変わり始めた。

 それは崩壊ではなかった。散っていくのではなく、広がっていた。二人の輪郭が柔らかくほどけて、空へ、街へ、静止した人々の上へ、降る光になって染み渡ってゆく。

「お姉ちゃん」

 たまらなくなって量子が叫んだ。

「お姉ちゃん!」

 もう一度叫ぶ。

「ありがとう! あたしも大好き!」

 喉が潰れるほどの大声が、空に響いた。

『……見ろ』

 そのとき、掠れた声が、世界の底から響いた。

『私を見ろ……私はここだ……私は九条だ……天才、九条だぞ……!』

 すでに力を失ったはずの量子の右目が疼いた。

 声の源が視えてしまう。世界の深部、溶けてゆく黒い花弁の残滓の奥で、必死に自分の輪郭を掻き集めている、小さな、小さな影。

 拳が、震えた。

 殺してやりたかった。八つ裂きにして、生まれてきたことを後悔させてやりたかった。五年間、その炎だけで生きてきた。灰原の車の中で、迷いなく「殺すよ」と言ったあの日の自分が、力を失った右目の奥で憎悪を燃やしている。

 ふと、気付いた。この憎悪さえ、九条博士にとっては燃料となるということを。量子が憎めば憎むほど、九条博士に力を与えているということを。

『見ろぉ……頼む……誰か……誰でもいい……私を、観測しろ……私は、いる……私は、いるんだ……!』

 声から、傲慢が剥がれ落ちていた。残ったのは、剥き出しの、ただの寂しさだった。

 量子は、目を閉じた。気持ちを落ち着けるように深く息を吸って、そして、開けた。

 その目は、もう深部を見ていなかった。空を見ていた。白く染まってゆく、姉の空を。

「あんたのことは、もう見ない」

 静かに言った。

「憎むのもおしまい。あたしの世界に、あんたはもういない。ずっと前からいなかった。これからも、いない」

 それが、量子の五年間の本当の終わりだった。

『あ……ああ……いや、だ……見ろ……みて……くれ……だれか………………クソ……いつか必ず蘇ってやるぞ……いつか……』

 声は、次第に細く、遠くなり——白い光が世界の深部にまで届いたとき、そこには最初から何もなかったかのように、ただ、静寂だけが残った。

 誰にも観測されなかったものは、存在しない。

 誰にも看取られず、誰にも憎まれず、誰の記憶の敵役にすらなれないまま、九条博士という現象は、世界から静かに削除された。




 光が、街に満ちてゆく。

 静止していた雲が、流れ始めた。

 風が吹いた。五年ぶんも十年ぶんも溜まっていたような、大きなあたたかい風だった。

 眼下の街で、凍りついていた人々が、動き出す。逃げ惑う姿勢のまま止まっていた母親が、我が子を抱きしめてへたり込む。空を見上げていた学生が、悪夢から覚めたように頭を振る。街のあちこちから、ざわめきが、クラクションが、誰かを呼ぶ声が、音が還ってくる。

 世界が、再生を始めた。

「終わった、のか」

 灰原が、呆然と空を見上げた。

 白い光の奔流の中に、栞と神崎の姿は、もうなかった。ただ、降り注ぐ光の粒が、屋上の四人、いや、三人とサトーの腹の中の一人を、優しく包んでいた。

 量子は、空に向かって手を伸ばした。

 光の粒が一つ、手のひらに落ちる。

 温かい。姉の手のひらと、同じ温度。

 その瞬間、量子の右目の奥で、ぷつ、と何かが切れる感触がした。

 譲り渡した力と自分を繋いでいた、最後の細い糸。それが役目を終えて、光の中へ解けていったのだ。

 支えを失ったように、量子の膝から力が抜けた。

「おい……」

 灰原の慌てた声が、遠くに聞こえる。視界が、白く、白く、滲んでゆく。

 怖くはなかった。

 この白は、あの演算核の悪意の白ではない。眠りに落ちる直前の、朝の光の色だった。

 ——見てるから。

 姉の声が聞こえた気がした。世界のどこからでもなく、世界のすべてから。

 ——いっぱい、生きて。

「うん」

 量子の意識は、あたたかい白に包まれて、ゆっくりと、溶けるように途切れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。