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病室に、長い沈黙が降りた。
先に口を開いたのは、栞だった。彼女はベッドの上に身を起こし、窓の外の静止した黒い空を、まっすぐに見た。
「りょうこ。あなたはもう、わかっているんでしょう? この世界を動かすには、誰かが世界全体を、もう一度観測し直さないといけない。空の花弁ひとつ、道端の石ころひとつ、七十億の人間の、ひとつ残らず全部を『在る』と、定義し直さないといけない」
栞は、自分の両手を見下ろした。五年ぶりに動く、細い指を。
「一人の観測者が抱えるには、世界は大きすぎる。観測自体はできる。でも、観測した者は世界そのものに溶ける。器がもたないから」
「だめ」
量子の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「だめだよ。やっと会えたのに。やっと、迎えに来たのに。五年だよ? 五年待って、たった今、返事をしてくれたばかりなのに」
「りょうこ」
「他の方法を探す。あたしの右目でやる。あたしだって観測者よ。姉妹でしょ、半分こしようよ、ねえ」
「あなたの右目じゃ、だめなの」
栞は、静かに首を振った。
「あなたの観測は『確定』の力。一点を射抜く力よ。九条博士を討てたのは、その力だから。でも、あなたの右目じゃ、世界そのものは包めない。一点を射抜くことはできても、空の花弁ひとつ、七十億を等しく——その、柔らかく包む観測こそが要るの。私が五年間、意識の海で身につけたのは、その力なの。皮肉ね。囚われていた時間が、そのまま資格になるなんて」
「そんなの……そんなの、ずるいよ……」
量子の目から、また涙がこぼれた。さっきの涙とは、違う涙だった。
「あたしは、お姉ちゃんを助けるために、ここまで来たんだよ。復讐のためだって言い聞かせてきたけど、ほんとは、ずっと、それだけだったんだよ。それなのに、助けた先が、これなの? これのために、あたしは……」
「違います」
声が割って入った。
アルゴン博士だった。彼はベッドの足元に、静かに歩み出た。滲んだ体が、病室の白い光の中で、頼りなく明滅していた。
「量子さん。あなたは間違っていない。そして栞さん。あなたも、一つだけ間違えている」
「何を?」
優しく、しかし、芯の通った強い声だった。
「一人で背負う必要がある、という部分です」
アルゴン博士は、栞の前に立った。
「観測の器が一人ではもたないなら、器を二つにすればいい。あなたが世界を包み、私がそれを支える。演算の負荷を分かち合えば、完全に溶け切るまでの間、互いの輪郭を、互いが観測し合っていられる。ただし、私には観測者の力がありません。器はあっても、注ぐものがない」
アルゴン博士は、量子に向き直った。
「量子さん。あなたの右目を、私に預けていただけませんか」
「え?」
「栞さんの観測は、波。すべてを包む力。あなたの右目は、一点しか射抜けない。けれど、すでに存在が量子化したこの私が受け取れば、その一点を、世界の一つひとつすべてへ拡張できる」
栞の目が、見開かれた。
「何を言ってるの。あなたまで溶けるのよ。わかってるの?」
「わかっています」
「あなたには、まだやり直せる道が……」
「ありません」
栞の言葉を遮って、アルゴン博士が言った。彼は、自分の滲んだ手を掲げてみせた。指先が砂のように崩れては、かろうじて戻る。
「この体は、もう長くもたない。九条博士に後回しにされた瞬間から、私の存在は借金の返済猶予を受けているだけです。いえ、それは言い訳ですね。正直に言いましょう」
彼は、マスクの奥の暗い目で、栞を、それから量子を順に見た。
「私は、罪を精算する場所を探していました。レストランの客たち。病院の患者たち。鏡百合さん。九条博士を止めるという大義の下で、私が壊してきた人たち。世界が再観測されるとき、彼らの壊れた意識も、定義し直される。歪められた心が、あるべき形に還る。その演算の一部にこの身を使えるなら」
アルゴン博士は、深く、頭を下げた。
「これ以上の贖罪の形を、私は知りません」
「都合が、いいのよ……」
量子が声を絞り出した。
「そうやって、綺麗に終わろうとして。返事は保留だって言ったでしょ。全部終わってから決めるって。まだ、終わってない。終わってないのに……」
「量子さん」
「二人とも、勝手すぎるよ! お姉ちゃんも、あんたも、あたしに黙って全部決めて、あたしはまた、置いていかれるだけ。五年前と、同じじゃない」
叫んで、量子は自分の言葉に、自分で刺された。
五年前と同じ。あの夜、何もできずに、ただ助かってしまった子供。守られる側に置かれたまま、大切な人たちが決めた結末を、受け取ることしかできなかった子供。
沈黙の中で、栞が、そっとベッドを降りた。
五年ぶりの素足が、床を踏む。アルゴン博士に支えられながら、ふらつく体で、それでも自分の足で妹の前に立った。そして、あの頃と同じ高さになった妹の目を、まっすぐに見た。
「りょうこ。ひとつだけ、訂正させて」
「私は、消えるんじゃないの」
栞は、妹の濡れた頬に、両手を添えた。
「世界中に、いることになるの」
「そんなの、詭弁だよ」
「そうかもね。でも、聞いて」
栞は、笑った。泣き笑いではない、本当の笑顔だった。
「朝の光の中にも、雨の音の中にも、あなたが淹れるコーヒーの湯気の中にも、私はいる。あなたが世界を見るたび、その世界のほうが、あなたを見ている。観測されている限り、存在は消えない——そうでしょう? だったら、あなたが世界を見続けてくれる限り、私は一度だって、あなたのそばを離れない」
量子は、答えられなかった。
その理屈が詭弁なのか真実なのか、この世界でなら、もう区別がつかなかった。ただ、姉の手のひらの温度だけが本物だった。
「サトーと、同じこと言うんだね」
「サトー?」
「友達。あたしの友達。『覚えてて、そしたらずっといるから』って」
部屋の隅で、サトーが酒瓶を抱えたまま、こくりと頷いた。栞はサトーを見て、それから量子を見て、嬉しそうに目を細めた。
「いい友達ね」
「うん」
量子は、頷いた。頷いて、それから長いこと、俯いて、拳を握って、震えて——やがて、顔を上げた。
左目は真っ赤に泣き腫らしたまま。右目は、静かな純白のまま。
「わかった」
声は、もう震えていなかった。
「わかったよ。止めない。止める権利、あたしにはない。その代わり、二つだけ条件がある」
「聞くわ」
「一つ。あたしは絶対に、忘れない。お姉ちゃんのことも、何もかも。世界中にいるなら、世界中で、あたしがずっと観測し続けてやる。逃げ場なんてないから、覚悟して」
栞は、吹き出した。
「怖い妹ね」
「二つ目」
量子は、アルゴン博士に向き直った。
滲んだペストマスクの男。恩人で、共犯者で、嘘つきで、味方だった男。
「保留してた返事、今する」
「はい」
「許さない」
はっきりと言った。
「レストランのお客さんのことも、患者さんたちのことも、百合さんのことも、あたしは許さない。許す資格もあたしにはない。でも……」
量子は一歩、彼に近づいた。
「忘れもしない。あんたがやったことも、あんたがあたしたちを守ったことも、神崎さんがくれた五年間も、全部、全部覚えたまま、あんたを見送る。良いことだけ覚えててあげるなんて、優しい嘘はつかない。丸ごと覚えてる。丸ごと観測し続ける。それが、あたしの返事。それがあんたへの、赦しの代わりで、罰の代わり」
アルゴン博士は、動かなかった。
長い、長い沈黙のあと、マスクの奥から、押し殺した、掠れた音が漏れた。それが嗚咽なのだと気づくまで、少しかかった。人間の顔を捨てた日から一度も泣けなかった男が、涙腺のないマスクの奥で泣いていた。
「もったいない、返事です」
「感謝しなさいよ」
量子は、泣きながら、笑ってみせた。
窓の外で、黒い蔦が力なく脈打った。壁の中の九条博士の残響が、何かを喚いていたが、もう誰も聞いていなかった。




