62
病院の中は、外よりも暗かった。
黒い蔦は建物の内側にまで這い込み、廊下の壁を、天井を、点滴スタンドを、静止した看護師たちの白衣の裾を、脈打ちながら覆っていた。蔦の表面では黒い花弁がゆっくりと開いては閉じ、そのたびに、囁くような音が廊下の奥から染み出してくる。
『……クク……来たのか……』
量子の足が止まった。
声だ。九条博士の声。だが、あの塔で聞いた朗々とした哄笑ではない。掠れて、途切れて、壁の中から漏れてくる、弱々しい残響だった。
『まだ……終わって、いない……私は、まだ……』
「無視してください」
アルゴン博士が短く言った。
「今の彼に、直接干渉する力はもうありません。あれは恐怖を煽って、あなたの観測を乱そうとしているだけです。観測者の心が揺れれば、観測も揺れる。それだけが、今の彼に残された唯一の武器です」
量子は頷いた。頷いて、それでも指先の震えは止まらなかった。恐怖のせいではない。この廊下の先に、五年間があるからだ。
エレベーターは動かない。非常階段を、四人は黙って登った。
三階。
五年間、数え切れないほど登った階段。売店で姉の好きだったオレンジジュースを買って、飲ませてあげられないまま持ち帰った日々。声をかけて、返事のない病室に、それでも通い続けた日々。
三〇八号室。
引き戸の前で、量子は立ち尽くした。
戸の隙間から、黒い蔦が溢れ出していた。この部屋にだけ、異様な密度で蔦が集中している。九条博士が栞の肉体を最後の楔にしている——アルゴン博士の言葉が蘇る。
量子が右目で蔦を睨んだ。右目の光に照らされると、蔦は嫌がるように身をよじって退いた。
「開けます」
アルゴン博士が戸に手をかけた。
部屋の中は、黒い繭だった。
床も、壁も、天井も、蔦に覆い尽くされている。医療機器のモニターだけが蔦の隙間で健気に光を点し、規則正しい電子音を刻んでいた。この止まった世界で、その音だけが、時間の生き残りのように鳴っていた。
そして、部屋の中央、蔦が幾重にも絡みついたベッドの上に、姉は眠っていた。
「お姉、ちゃん……」
量子は、吸い寄せられるように歩み寄った。量子の通る道は、蔦が勝手に避ける。まるでモーセだ。
五年分、伸びた髪。五年分、細くなった手首。それでも、その寝顔は記憶の中のままだった。黒百合町の家で、朝、なかなか起きてこない量子を起こしに来る前の、まだ布団の中にいる姉の顔と、同じ顔だった。
蔦が、ベッドの上でざわりと蠢いた。侵入者を拒むように、栞の体を守るように——いや、違う。閉じ込めるように、締め付けを強くする。
『渡さん……それは、私の……最後の……』
「うるさい」
量子は静かに言った。右目が、白く燃え上がる。
「あんたのものだったことなんて、一秒もない」
右目の光が、部屋を薙いだ。
観測——量子は、蔦を存在しないと見たのではない。もっと単純に、もっと強く「この部屋は、姉とあたしの場所だ」と定義した。五年間、通い続けたこの部屋の、消毒液の匂いと、窓辺に置いた小さな写真立てと、姉の呼吸の音。それが、この部屋の本当の姿だ。
黒い蔦が、悲鳴のような軋みを上げて、端から光の粒になって溶けていった。
壁が現れる。見慣れた白い壁。窓辺の写真立て。二人で撮った、最後の家族写真。
ベッドの上には、蔦から解放された栞が、静かに横たわっていた。
「アルゴン博士」
「ええ」
彼はすでにベッドの反対側に回り込んでいた。滲んだ指先が、栞のこめかみに、羽のように軽く触れる。
「肉体は無事です。五年間、良い状態で保たれています。皮肉なことに、九条博士が大切に保管していたおかげで。彼にとって栞さんは、最初にして最高の実験体。手放せるはずがない。あとは、あなたの右目です。演算核で繋がった栞さんの意思は、今もあなたの右目の中に、細い糸で繋がっている。それをこの肉体に還すのです」
「どうすれば」
「額を合わせて。あとは呼んであげてください。名前を。この世界で、彼女を一番強く観測できる人が呼べば、意思は還るべき場所を思い出す」
量子はベッドに屈み込み、姉の額に、自分の額をそっと合わせた。
冷たくはなかった。かすかに、体温があった。五年ぶりに触れる、姉の温度だった。
目を閉じる。右目の奥で、あの残り火が、演算核で見た小さな光が、静かに揺れているのがわかった。
「お姉ちゃん」
声に出して、呼んだ。
「帰っておいで」
右目から、何かが流れ出ていくのを感じた。熱いような、冷たいような、五年分の何か。それは涙の形をして量子の頬を伝い、合わせた額を通って姉の中へ還っていった。右目の奥には、まだもう一つの熱が残っている。五年前に奪われ、あの演算核で取り返した、量子自身の光が。
モニターの電子音が跳ねた。
規則正しかったリズムが乱れ、速くなり、それから深く、大きく、うねった。
栞の指先が動いた。
シーツの上で、五年間動かなかった指が、ゆっくりと、開いて、閉じた。
「お姉ちゃん」
量子が栞の手を握る。
栞の睫毛が、震えた。
そして、
目を開けた。
量子と同じ色をした瞳が、白い天井を、しばらくぼんやりと見つめた。それから、視線がゆっくりと横に滑り、自分を覗き込んでいる顔を捉えた。
「りょう、こ……?」
掠れて、五年分錆びついた、それでも間違いようのない、姉の声だった。
「……大きく、なったね」
量子の中で、何かが決壊した。
「あ……あぁ……お姉ちゃん、お姉ちゃんっ……」
気づいたときには、抱きついていた。細くなった体を折ってしまわないように、それでも力いっぱい、抱きしめていた。栞の腕が、ゆっくりと持ち上がり、量子の背中に回される。あの頃と同じように。転んで泣いた日、テストで失敗した日、両親に叱られた日——いつでもそうしてくれたように、ぽん、ぽん、と背中を優しく叩いた。
「ただいま、りょうこ」
「おかえ、り……おかえりなさい、お姉ちゃん……っ」
言葉は、それ以上続かなかった。量子はただ、姉の肩に顔を埋めて、五年分、泣いた。声を上げて、子供のように泣いた。復讐を誓った日も、初めての潜入で恐怖に竦んだ日も、リーが散った夜も流さなかった分まで、全部まとめて、泣いた。
灰原は病室の入口で、そっと目を逸らした。サトーは酒瓶を抱えたまま、珍しく、じっと二人を見つめていた。アルゴン博士は滲んだ体で、静かに、写真立ての家族写真を見ていた。
どれくらい、そうしていただろう。
時間の止まったこの世界で、その病室にだけ、確かに時間が流れていた。
やがて栞は、量子の頭を撫でながら、窓の外へ目を向けた。
静止した黒い花弁に埋め尽くされた、灰色の空。
その空を見上げる栞の目に、量子は気づいてしまった。再会の喜びの奥に、静かに横たわっている、覚悟の色に。
「ありがとう、りょうこ。迎えに来てくれて」
栞は、妹の頬を両手で包んだ。
「それから、ごめんね」
「なんで?」
量子の声が、震えた。
「なんで、謝るのよ」
栞は答えずに、ただ、泣き笑いのような顔で、妹を見つめていた。




