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黒い蔦の脈動を背に、アルゴン博士は静かに語り始めた。
「あなたは私を、九条博士の被害者だと思っている。それは、半分だけ正しい」
「半分?」
「残りの半分は……共犯者です」
量子は何も言わなかった。灰原が眉をひそめる。サトーだけが、興味なさそうに酒瓶のラベルを眺めていた。
「九条博士に対抗するには、力が要った。彼と同じ技術、彼と同じ知識、そして……彼と同じ、実験が」
アルゴン博士は、自分の滲んだ両手を見下ろした。
「レストランを開いたのは、隠れ家のためだけではありません。ニューロングリドル——料理を媒介に、客の意識へ干渉する装置。私はあの店で、何も知らない客たちを使って、量子干渉の実験を繰り返していた。味覚から入る干渉なら痕跡が残りにくい。常連客ほど、データが蓄積される。あなたと灰原さんが最初に来店したあの夜も、店内では実験が走っていました」
アルゴン博士の手が、自分の首元へ伸びた。マスクと皮膚の境目を、確かめるように撫でる。
「客たちだけではありません。あなたにも金平糖を食べさせました」
「え?」
右目が、疼いた。
目の奥で、光が弾ける。
虹色の金平糖。表面に刻まれた逆五芒星。光にかざすと、内側に方程式が透けていた。人の手では作り得ない芸術品だと、あのとき思ったのだ。
実戦訓練。サトーの意識。十三歳の、あの日。
——これは意識の世界。ここでやられても、現実に戻れば体は無事だし記憶も残ってる。
あの日、そう言った自分の声が聞こえた。
十三歳の量子は、二つとも間違えていた。
罵倒しようとした。息を吸った。
吸ったまま、吐けなかった。
この右目がなければ、あたしは特別捜査官になれなかった。神崎さんの意識に潜れなかった。お姉ちゃんの声を聞けなかった。九条博士の顔を、殴れなかった。
——あたしの五年間は、全部、この男が蒔いたものだ。
量子は、自分の右目に触れた。温かかった。それがいちばん、許せなかった。
「おい、待て」
灰原の声が低くなった。
「じゃあ、あの眼球と脳の事件は……」
「あれは九条博士の仕業です。ですが、彼があの店の客を選んだのは偶然ではない。私の実験で意識の耐性が緩んだ客は、彼にとって格好の苗床だった。旧市立病院の、白いマスクの応援医師の話を覚えていますか。あれは九条博士です。彼は私の名を騙り、白いマスクであの病院に出入りしていた。私が彼から隠れて、彼を監視しているつもりでいた、その間ずっと」
アルゴン博士の声が、初めて乱れた。マスクの奥で、何かを噛み潰すような音がした。
「滑稽でしょう。隠れていたのは私で、泳がされていたのも私だ。私が名前を捨てて怪物になったことすら、あの人には偽名の在庫が一つ増えただけだった。私が耕した土地を奪い、私の名で種を蒔き、咲いた花の罪まで私に着せる。どちらに罪があるか、という話ではない。両方にあるのです。ただ、種を蒔かせたのが自分の間抜けさだということだけは、私は一生、忘れるつもりがありません」
量子は、まだ黙っていた。喉の奥が、乾いていた。
「それから」
アルゴン博士は、一度言葉を切った。マスクの奥の暗い目の穴が、量子を真っ直ぐに見た。
「鏡百合さんを、覚えていますか」
心臓が、嫌な音を立てた。
あの気弱な看護師。目の下のそばかす。消え入りそうな声。驚くたびにビクリと震える肩——そして、記憶スキャンの中で白マスクの傍らに立っていた、あの人型。
「あの人は、九条博士の仲間だったんじゃ」
「違います。彼女は、私の道具でした」
量子の足元から、地面が消えたように感じた。
「九条博士の病院を内側から監視する目が、どうしても必要だった。彼女を選んだのは、気が弱く、孤立していて、干渉の痕跡に気づかれにくいから。彼女の心が白マスクの医師に縋っていたことすら、私は監視に利用した。私は彼女の意識に潜り、意思の一部を書き換え、九条博士の動向を私に送信する装置に変えた。彼女自身は、何も知りません。自分がなぜあの病院を辞められないのか、なぜいつも不安なのか、なぜ時々、記憶が飛ぶのか……何ひとつ、知らないまま」
「あのとき……」
量子の声が、震えた。
「あたし、訊けなかった。あの人が誰の犠牲者なのか、怖くて訊けなかった。こういうこと、だったのね」
「はい」
アルゴン博士は、目を逸らさなかった。
「病院の患者への干渉も、複数、行いました。九条博士の実験体にされた患者の経過を観察するため、彼らの意識に印をつけた。アフターケアと言いましたね、以前。あれは嘘ではない。ですが、全てでもない。私は彼らを治療しながら、同時に、観測していた。九条博士の研究を解析するための、生きた資料として」
量子は息を呑む。口を挟まなかったのは、ここで言うべき言葉が見つからなかったからだ。
「私は、九条博士を止めるためなら何でもすると決めた。その『何でも』の中身が、これです。悪意の代わりに大義を置いただけで、やったことは、あの男と同じだ」
静寂が落ちた。
止まった世界の静寂ではない。四人の間に横たわる、生きた沈黙だった。
最初に動いたのは、量子の右手だった。
振り上げて、アルゴン博士の胸ぐらを掴んだ。滲んだ体は掴んだ端からざらりと崩れかけ、それでも量子は離さなかった。
「なんで……っ」
声が、勝手に裂けた。
「なんで今言うのよ。ずっと黙ってればよかったじゃない。あんたが黙ってれば、あたしは……あたしは最後まで、あんたのこと、神崎さんのままで……」
言いながら、量子は気づいていた。これは怒りの形をした、別のものだ。裏切られた痛みですらない。この人はこれから、罪を告白した上で、いなくなるつもりなのだ。それが、わかってしまったのだ。綺麗な恩人のまま消えることも出来たのに、わざわざ軽蔑される道を選んで、身辺を整理している。
「黙ったまま逝くのは」
アルゴン博士が、静かに言った。
「楽すぎるでしょう」
量子は、胸ぐらを掴んだまま、俯いた。肩が震えた。
「最低よ、あんた」
「はい」
「大っ嫌い」
「はい」
「でも……」
量子は顔を上げた。涙で滲んだ左目と、純白に光る右目で、まっすぐに彼を見た。
「まだ、返事はしない。あんたを許すかどうかも決めない。全部終わってから決める。だから……それまで勝手に消えたりしないで。いいわね」
アルゴン博士は、少しだけ黙って、それから深く、腰を折った。
「承知しました」
「おい」
黙って聞いていた灰原が、口を開いた。
「俺はお前を逮捕する権限がある。全部終わったらな。だから、それまで死ぬんじゃねえぞ。被疑者に死なれるのが、刑事は一番困るんだ」
それは灰原なりの、不器用な「消えるな」だった。アルゴン博士のマスクの奥から、ふ、と息の漏れる音がした。笑ったのかもしれなかった。
「行こう」
量子は病院の正面玄関に向き直った。黒い蔦が脈打つ、五年間通い続けた建物。
「お姉ちゃんが、待ってる」




