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第5章「覚醒の儀式」
世界は、息を止めていた。
旧市立病院を出た四人を迎えたのは、音のない街だった。
空を埋め尽くす黒い花弁は、一片も動かない。風もない。雲すら、ちぎれた形のまま静止している。街路樹の葉も、電線も、道の真ん中で横転したままの車から立ちのぼる煙さえもすべてが、写真の中に閉じ込められたように止まっていた。
「静かすぎる」
灰原が呟いた。その声だけが、生々しく響いた。この世界でまだ動いているのは、自分たち四人だけなのだと、嫌でも思い知らされる。
道の途中、逃げ惑う姿勢のまま静止した人々とすれ違った。子供の手を引く母親。転びかけた老人。空を見上げて口を開けたままの学生。誰も彼も、恐怖の一瞬に凍りついている。
量子は、母親の顔の前で足を止めた。
「……この人たちは、死んでいるの?」
「いいえ」
アルゴン博士が答えた。その声は、以前より遠くから聞こえるようだった。輪郭の滲んだ彼の体は、歩くたびに薄い砂嵐のようにざらつき、時折、蛍光灯が切れかけるように一瞬だけ透けた。
「死んでも、生きてもいません。九条博士の演算が止まったことで、世界は『次の状態』を計算できなくなった。今のこの世界は、確定を待つ巨大な保留です」
「保留……」
「ええ。誰かが世界全体をもう一度観測し、『こうである』と定義し直さない限り、時間は再生されません。逆に言えば……」
アルゴン博士は、静止した母子を見た。
「まだ、誰も死んでいない。取り返しはつくのです」
量子は頷き、母親の凍りついた指先に、そっと自分の指で触れた。温かかった。止まっているだけで、この人はちゃんと生きている。
「待ってて」
誰にともなく言って、量子は再び歩き出した。
大学病院までの道は、灰原が誰よりも知っていた。何十回、量子を乗せて走った道か。その道を、今は徒歩で行く。車は使えなかった。信号も、道を塞ぐ静止した車列も、この世界ではどかしようがないのだ。
「なあ」
しばらく歩いたところで、灰原が後ろを振り返った。
サトーが、列の一番後ろを歩いていた。いつもの、興味なさげな緩慢な足取り。ただ、その両腕だけが、ずっと自分の腹を抱えたままだった。大事なものを抱えるように。壊れものを運ぶように。
「おい、お前。腹でも痛いのか」
灰原が声をかける。サトーは首を振った。
「……リーが、なかで寝てる」
「は?」
「起きたら、お酒、欲しがるとおもう」
サトーはそれだけ言うと、また黙って歩いた。
灰原は、意味がわからなかった。わからないのに、喉の奥に何かが詰まった。あの塔の最上階で、派手な女が光になって散った。自分の知らない女のはずだった。それなのに、あれから胸の奥に、穴の形をした痛みがずっと居座っている。
——産んであげられなくて、ごめんね。
意味のわからない、あの最後の言葉と一緒に。
「そうか」
灰原は、それ以上訊かなかった。代わりに、道端で静止していた無人のコンビニに入り、棚から酒瓶を一本、勝手に取った。レジの前で財布から紙幣を出し、静止した店員の手の上に置く。
「何してるの」
量子が訝しげに見る。
「起きたら欲しがるんだろ」
灰原は酒瓶をサトーに放った。サトーは片手でそれを受け取ると、じっとラベルを見つめた。灰原は無意識に、リーが好きだった酒を選んでいた。そのことにサトーは驚いた。それから、腹を抱えていない方の手で、大事そうに抱え直した。
「……ありがと」
サトーが、ぽつりと言った。彼女が灰原に礼を言うのを、量子は初めて聞いた。
「いいって。代金、足りてりゃあ良いけどな」
灰原は決まり悪そうに頭を掻いて、先に歩いていった。
量子は、その背中を見つめた。この人は、何も覚えていない。それでも、何かが正しく動いている。記憶を消しても、脳を機械に変えても、消せなかったもの——リーが最後まで守ろうとした、この人の芯のようなもの。
——あんたは私たちみたいな化物とは違うんだから。
いつかのリーの言葉が、耳の奥で蘇った。
日が傾くことのない空の下、時間の感覚のない道を、四人は歩き続けた。
やがて、遠くに大学病院の白い建物が見えてきた。五年間、姉が眠り続けてきた場所。量子が数え切れないほど通い、数え切れないほど、何の変化もないままエレベーターを降りた場所。
その白い壁の一面に——巨大な、黒い蔦のようなものが絡みついていた。
近づくにつれ、それが蔦ではないことがわかった。黒い花弁の連なりだ。空に静止している花弁とは違う。病院に絡みつくそれだけは、ゆっくりと、生き物のように脈打っていた。
「動いてる……」
「九条博士の残滓です」
アルゴン博士の声が、硬くなった。
「深部へ逃げた彼の意識は、栞さんの肉体を最後の楔にしている。世界が止まっても、あそこだけは彼の支配下。いわば、心臓が二つあるうちの、もう一つです」
「じゃあ、お姉ちゃんは」
「あの中です。急ぎましょう。ただし……」
アルゴン博士は、正面玄関の前で足を止めた。滲んだマスクの奥の目の穴が、量子を見た。
「中に入る前に。あなたに、聞いてもらわなければならない話があります」
「……話?」
「私の、罪の話です」
黒い蔦の脈動だけが、静かな世界に、どく、どく、と音のない音を刻んでいた。




