59
白い光が引くと、そこは鏡だった。
どこまでも鏡。床も、天井も、壁と呼べるものすらなく、無限に連なる鏡面だけが、あらゆる角度から量子を映し返している。いや、映っているのは量子だけではない。無数の九条博士。嗤う九条博士、腕を組む九条博士、こちらを覗き込む九条博士。
「ようこそ、演算核へ」
声が、全方位から同時に響いた。
「私の演算の中心だ。光栄に思いたまえ。ここを見た人間は、君で二人目だよ」
二人目。一人目が誰なのか、訊くまでもなかった。
「お姉ちゃんを返して」
「返す? おかしなことを言う」
鏡の中の九条博士たちが、一斉に首を傾げた。ぞっとするほど、同じ角度で。
「彼女はもういないよ。力は私が取り込んだ。ああ、本体のことを言っているなら、あれはただの抜け殻だ。ああ、そうだ、いいことを教えてあげよう。君も私と一つになればいい。そうすれば、お姉さんと、また会えるんだ。私の中でなら、ね」
「ふざけないで!」
量子は最も近い鏡の九条博士へ拳を叩きつけた。だが、その拳は鏡面をすり抜けた。手応えはない。
「遅いよ、量子君。私はすでに、どこにもいない。私はあらゆる場所に存在し、あらゆる時間を観測している」
鏡が増えた。
一枚が二枚に、二枚が四枚に。九条博士の像が指数関数的に増殖してゆく。まるで庭の石をひっくり返したときのようなおぞましさ。そして、そのおぞましさのすべての右目から観測の光が、一斉に量子へ注がれた。
強烈な頭痛。右目の奥が破裂しそうなほど痛む。原因は圧倒的な情報の奔流。無数の視線に観測され、量子という存在の定義が、外側から上書きされてゆく。
膝が折れる。
視界が明滅する。
自分の名前すら、砂のように輪郭を失ってゆく。
——これが、神の視座。
一人の人間が、抗える相手ではなかった。
「善悪? 倫理? そんなものは多数決のまやかしだ。観測者の数が増えれば、殺人も正義になる。見たまえ、今の私は無数だ。無数の私が『こうあれ』と観測すれば、世界はそうなる。私が全人類を量子化し、一つの意識へ統合すれば、そこには苦しみも、悲しみもない。完全なる調和だけがある」
「そんな、の……」
反論の言葉が、続かない。思考そのものが削られてゆく。意識が遠のく。
その時だった。
ぐん、と。
首筋の端子から、無骨な力が量子を引き戻した。
『——おい、小娘。溺れてんじゃねえぞ』
灰原の声だった。粗くて、無遠慮で、脳筋で、現実の声だった。命綱が確かに繋がっている。
「……っ、はっ」
量子は、息を吸った。呼吸の仕方を思い出した。
「あたしは……あたしは、量子。量子と書いて、りょうこ……!」
削られかけた名前を、自分の声で塗り直す。父がくれた名前。姉が呼んでくれた名前。
顔を上げる。無数の九条博士は、まだ嗤っている。
だが——。
『りょうこ』
声がした。
九条博士の声ではない。もっと優しく、もっと哀しい、懐かしい声。
無数の鏡のうち、たった一枚。その最も深い場所で、小さな光が瞬いていた。
「お姉、ちゃん……?」
『ごめんね。もう、力はほとんど残っていないの。あの人に、全部取り込まれてしまったから』
光は、蝋燭の残り火のように頼りなかった。それでも、消えていなかった。
『でもね、りょうこ。あの人は一つだけ、間違えたわ』
「間違えた……?」
『力は奪えても、意思までは奪えない。私はまだ、ここで見ている。あの人の、いちばん内側から』
量子は理解した。
九条博士は栞を取り込んだ。勝利の証として、自分の内側に。
それはつまり敵を、自分の観測の死角のない場所へ、自ら招き入れたということだ。
『私たちは鏡の表裏。あなたが外から見て、私が内から見る。二人の観測が一点で重なれば、無数に散らばったあの人の可能性は、たった一つの現実に収束する』
「……世界は、確定する」
量子は呟いた。
そうだ。あたしは一人じゃない——。九条博士は孤立した観測者として世界を支配しようとした。でも、あたしたちはもつれた観測者。距離を超え、次元を超え、互いを規定し合う姉妹なのだ。
『ただし、一度きりよ。私に残った力では、一瞬しか重ねられない。その一瞬で、あの人の本体を見つけて』
「見つけるって、どうやって……」
言いかけて、量子は口をつぐんだ。
わかっていた。鏡の間で、あの男の過去を見たときから。
九条博士は、無数であることを誇った。あらゆる場所に存在すると嗤った。でも、それは裏返せば、たった一人の自分ではいられなかったということだ。空っぽで、幼稚で、誰とも並び立てなかった男。無数の像は玉座ではない。隠れ家だ。
だったら、本体は——。
「何をごちゃごちゃ言っている」
九条博士が勝ち誇った声のまま喚いた。その声に頭痛が増す。しかし、量子は目を見開いて見た。無数の鏡の中で、ただ一枚、他の像とほんのわずかに嗤い方のずれた鏡。孤独の色が、一段だけ濃い鏡。
「見つけた」
量子は、その一枚を指差した。
「灰原さん! あたしを繋ぎ止めてて……全力で!」
『言われなくてもな! それが相棒の仕事だ!』
端子が灼けるように熱くなる。現実という重りが、量子の存在を錨のように固定する。
「行くよ、お姉ちゃん」
『ええ。あの人の悪夢を、終わらせましょう』
量子の右目が、見開かれた。
同じ瞬間、九条博士の内側で、消えかけの残り火が——最後の輝きを放った。
外から、一条。
内から、一条。
二つの観測が、無数の鏡のうちのたった一枚を、表と裏から同時に射抜いた。
「なにっ……」
九条博士の哄笑が、初めて途切れた。
「二重の観測による、波束の収束だと……馬鹿な、そんなことが……」
鏡が割れる。
一枚、また一枚。無数にあった可能性の殻が、外側から順に砕け散ってゆく。散らばっていた九条博士の像が、悲鳴を上げながら、たった一つの点へと——強制的に、引きずり戻されてゆく。
「いやだ! 戻りたくない! 私は無数だ! 私は神なのに……」
「あんたはただの……」
最後の鏡が砕けた。
その向こうにいた。
黒い花弁を纏った、痩せこけた、たった一人の男。逃げ場を失い、初めて剥き出しの一個の存在として、そこに確定させられた男。
「駄々をこねたガキよ!」
量子の拳が、九条博士の顔面を捉えた。
感触があった。確かな肉の手応え。すり抜けない。ごまかせない。たった一つの現実の重さだった。
九条博士の体が仰け反り、その右目から、光が、剥がれた。
シュレディンガー方程式の紋様を宿した観測者の光が、あるべき場所へ帰るように、量子の右目へと吸い込まれてゆく。奪われていた五年分の何かが、体の芯に、音を立てて還ってくる。右目の奥で、二つの熱が触れ合った。姉の鎖の冷たいほどの白と、自分自身の熱。二つは溶け合い、もう鎖の感触はしなかった。ただの、白い光だった。
「返して、もらったわ……」
「……ヒ……ヒッ……」
九条博士は、顔を押さえてよろめいた。指の隙間から覗く右目は、もう、ただの濁った人間の目だった。
「おのれ……おのれおのれおのれ……観測者ふぜいが、私の、私の五年を……!」
その体が、黒い花弁の渦に呑まれてゆく。憎悪に歪んだ嗤い声だけを残して、九条博士の姿は演算核の深部へと崩れ落ちるように消えた。
直後。
世界が軋んだ。
主を失った演算核が、崩壊を始めたのだ。
『りょうこ、早く。戻って』
「お姉ちゃんは? お姉ちゃんも一緒に……」
『私の体は、まだあの人の病院にある。意思だけじゃ、ここからは出られないの』
崩れゆく鏡の破片の向こうで、残り火が、ふ、と柔らかく揺れた。笑ったのだ、と量子にはわかった。
『でも、もう隠れない。もう、諦めない。迎えに来て、りょうこ。今度は、現実で』
「行く。絶対に迎えに行くから!」
量子が叫んだ瞬間、首筋の綱が、力任せに引かれた。
世界が、
白く、
裏返った。
冷たい床の感触。サーバーの爆音。チカチカと明滅する蛍光灯。
旧市立病院の地下だった。
「おい! しっかりしろ、おい!」
覗き込む灰原の鼻から、血が二筋垂れていた。機械脳を限界まで回した代償だろう。量子はその不細工な顔を見上げて、掠れた声で笑った。
「ひどい顔」
「うるせえ。誰のせいだと思ってんだ」
量子は身を起こした。体中が軋んだが、右目は温かかった。純白の光が、静かに、確かに、そこに在った。
部屋の隅で、サトーが壁にもたれて眠っていた。両腕で、大切そうに自分の腹を抱えたまま。その傍らに、アルゴン博士が立っている。彼の輪郭は、まだ薄く滲んだままだった。蛍光灯の明滅に合わせて、存在そのものが点いたり消えたりしているように見えた。リーの姿はない。
「終わったの?」
量子が訊くと、アルゴン博士は静かに首を振った。
「演算核は潰しました。彼の演算は止まり、世界の書き換えは中断された。ですが……」
彼は、天井を、その遥か上の外の空を示した。
「あの男は、消滅していません。深部へ逃げただけです。それに……」
量子は立ち上がり、割れた窓から外を見た。
空はまだ割れたままだった。
黒い花弁は、もう降ってはいない。だが消えてもいない。無数の花弁が、空一面に静止していた。まるで、映像の一時停止のように。世界そのものが、続きを待って、息を止めているかのように。
「散った花弁は、まだ世界に根を張っています。九条博士が完全に消えない限り、この停止は、いつでも再生に変わる」
量子は、右目にそっと触れた。
姉は、あの男の中で、まだ待っている。
サトーの腹の中で、リーが、まだ眠っている。
「迎えに行くわよ、全員」
静止した黒い空に向かって、量子は言った。それは誓いというより、もう決まっている予定を、世界に通告する声だった。




