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メンタル・ポルノ 量子的食脳  作者: よねり
第4章「鏡の向こう側」

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「……ふむ」

 静寂を破ったのは、九条博士の、心底つまらなそうな声だった。

「共食いとはね。ゴミがゴミを漁る。実に美しくない」

 右目が、床にうずくまるサトーへ向けられた。

「まとめて廃棄だ。被験体No.006」

 閃光。

 量子は思わず目を背けかけたが、何も起こらなかった。

 サトーは、そこにいた。

 輪郭がぶれてはいる。体の端々がノイズに滲み、翼は溶けかけた蝋のように床へ垂れている。だが、消えない。

「ほう?」

 九条博士の右目が、初めて訝しげに細められた。紋様が忙しなく明滅し、何度も何度もサトーを観測しようとする。そのたびに、サトーの姿は揺らぎ、崩れかけ、そして戻った。

「なるほど。読めんな、君は」

 九条博士が独りごちる。

「私のデータを喰らい、失敗作どもの花弁を喰らい、挙句、今しがたの女まで取り込んだか。もはや君は一個の被験体ではない。ラベルのない、雑多な混合物だ。『これ』と定義できないものは、『存在しない』とも定義できん、というわけか」

 ヒッヒッヒ、と乾いた笑いが漏れた。

「面白い。実に面白い偶発事象だ。だが」

 九条博士は興味を失ったように指を振った。

「定義できないものは、脅威にもなり得ない。そこで溶けていたまえ、名もなきゴミよ」

 サトーは答えなかった。答えられなかったのだ。彼女は両腕で自分の腹を抱え込み、胎児のように丸くなって、小さく震えていた。守っているのだ、と量子は思った。腹の中の、リーだったものを。もう戦える状態ではない。

「量子さん」

 アルゴン博士の声が、低く、鋭く飛んだ。

「彼を止められるのは、あなただけです。同じ観測者である、あなただけ」

「でも……」

「彼は今、この空間ごと、世界の定義そのものを書き換える演算に入っています。ここで議論している時間は、一秒もない」

 アルゴン博士が一歩前に出た、その瞬間だった。

 九条博士の右目が、ちら、と彼を見た。

 ただ、見ただけだった。

 それだけで、アルゴン博士の輪郭が、紙が湿るように滲んだ。ペストマスクの嘴の先から、ぽろ、ぽろ、と黒い粒子が零れ落ちる。

「ああ、君か。君はいつでも消せるから、後回しだ」

 九条博士は、本当にどうでもよさそうに言った。その無関心こそが、鏡の間で誰よりも雄弁だった沈黙の、答え合わせだった。

「アルゴン博士!」

「構わず……!」

 彼は滲む体のまま、量子の肩を掴んだ。マスク越しでも、その声が張り詰めているのがわかった。

「行きなさい。彼の演算の中心、演算核へ。あなたの右目なら、あの男の内側へ潜り込める」

「潜り込むって、どうやって……」

「考えるな」

 声を挟んだのは、灰原だった。

 彼は立ち上がっていた。膝は笑い、額は割れて血が流れている。それでも、その目には——記憶を失っても、脳の半分を機械にされても、決して消せなかったものが、燃えていた。

「おい、小娘」

「なによ」

「深く潜るんだろう。なら、命綱がいる」

 灰原は自分の左脳を、拳でごつんと叩いた。

「俺のこの頭、九条博士の作ったポンコツだがな。ニューロンコネクタと直結できる。俺がお前を、現実に繋ぎ止めておいてやる。アンカーだ。錨って意味だ」

「知ってるわよ、そのくらい」

「なら話が早い。行って来い。溺れそうになったら、綱を引いてやる」

 量子は、灰原の顔を見た。

 この人は、何も覚えていない。かつて愛した女のことも、かつて産まれなかった子のことも、たった今、目の前で二度目に失ったことも。それでも——いや、だからこそ、彼の差し出すその綱だけは、何ひとつ疑わずに掴めると思った。

「……死なないでよ、おじさん」

「誰がおじさんだ。行け!」

 灰原の機械脳が、唸りを上げた。カーボンナノチューブの髪から白い湯気が噴き上がり、彼の意識が量子の首筋の端子へと流れ込んでくる。温かい、と量子は思った。機械なのに、脳筋の、無骨な、温かい何かだった。

 量子は九条博士を——正確には、九条博士の右目に宿る、奪われた自分自身の光を、真っ直ぐに見据えた。右目が光を帯びる。鎖がほどけるように、観測者の力が広がってゆく。

「返してもらうわよ。全部」

 右目のリミッターが外れた。

 視界が、白く弾けた。


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