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「……ふむ」
静寂を破ったのは、九条博士の、心底つまらなそうな声だった。
「共食いとはね。ゴミがゴミを漁る。実に美しくない」
右目が、床にうずくまるサトーへ向けられた。
「まとめて廃棄だ。被験体No.006」
閃光。
量子は思わず目を背けかけたが、何も起こらなかった。
サトーは、そこにいた。
輪郭がぶれてはいる。体の端々がノイズに滲み、翼は溶けかけた蝋のように床へ垂れている。だが、消えない。
「ほう?」
九条博士の右目が、初めて訝しげに細められた。紋様が忙しなく明滅し、何度も何度もサトーを観測しようとする。そのたびに、サトーの姿は揺らぎ、崩れかけ、そして戻った。
「なるほど。読めんな、君は」
九条博士が独りごちる。
「私のデータを喰らい、失敗作どもの花弁を喰らい、挙句、今しがたの女まで取り込んだか。もはや君は一個の被験体ではない。ラベルのない、雑多な混合物だ。『これ』と定義できないものは、『存在しない』とも定義できん、というわけか」
ヒッヒッヒ、と乾いた笑いが漏れた。
「面白い。実に面白い偶発事象だ。だが」
九条博士は興味を失ったように指を振った。
「定義できないものは、脅威にもなり得ない。そこで溶けていたまえ、名もなきゴミよ」
サトーは答えなかった。答えられなかったのだ。彼女は両腕で自分の腹を抱え込み、胎児のように丸くなって、小さく震えていた。守っているのだ、と量子は思った。腹の中の、リーだったものを。もう戦える状態ではない。
「量子さん」
アルゴン博士の声が、低く、鋭く飛んだ。
「彼を止められるのは、あなただけです。同じ観測者である、あなただけ」
「でも……」
「彼は今、この空間ごと、世界の定義そのものを書き換える演算に入っています。ここで議論している時間は、一秒もない」
アルゴン博士が一歩前に出た、その瞬間だった。
九条博士の右目が、ちら、と彼を見た。
ただ、見ただけだった。
それだけで、アルゴン博士の輪郭が、紙が湿るように滲んだ。ペストマスクの嘴の先から、ぽろ、ぽろ、と黒い粒子が零れ落ちる。
「ああ、君か。君はいつでも消せるから、後回しだ」
九条博士は、本当にどうでもよさそうに言った。その無関心こそが、鏡の間で誰よりも雄弁だった沈黙の、答え合わせだった。
「アルゴン博士!」
「構わず……!」
彼は滲む体のまま、量子の肩を掴んだ。マスク越しでも、その声が張り詰めているのがわかった。
「行きなさい。彼の演算の中心、演算核へ。あなたの右目なら、あの男の内側へ潜り込める」
「潜り込むって、どうやって……」
「考えるな」
声を挟んだのは、灰原だった。
彼は立ち上がっていた。膝は笑い、額は割れて血が流れている。それでも、その目には——記憶を失っても、脳の半分を機械にされても、決して消せなかったものが、燃えていた。
「おい、小娘」
「なによ」
「深く潜るんだろう。なら、命綱がいる」
灰原は自分の左脳を、拳でごつんと叩いた。
「俺のこの頭、九条博士の作ったポンコツだがな。ニューロンコネクタと直結できる。俺がお前を、現実に繋ぎ止めておいてやる。アンカーだ。錨って意味だ」
「知ってるわよ、そのくらい」
「なら話が早い。行って来い。溺れそうになったら、綱を引いてやる」
量子は、灰原の顔を見た。
この人は、何も覚えていない。かつて愛した女のことも、かつて産まれなかった子のことも、たった今、目の前で二度目に失ったことも。それでも——いや、だからこそ、彼の差し出すその綱だけは、何ひとつ疑わずに掴めると思った。
「……死なないでよ、おじさん」
「誰がおじさんだ。行け!」
灰原の機械脳が、唸りを上げた。カーボンナノチューブの髪から白い湯気が噴き上がり、彼の意識が量子の首筋の端子へと流れ込んでくる。温かい、と量子は思った。機械なのに、脳筋の、無骨な、温かい何かだった。
量子は九条博士を——正確には、九条博士の右目に宿る、奪われた自分自身の光を、真っ直ぐに見据えた。右目が光を帯びる。鎖がほどけるように、観測者の力が広がってゆく。
「返してもらうわよ。全部」
右目のリミッターが外れた。
視界が、白く弾けた。




