57
螺旋階段は、内側が吹き抜けになっていた。手すりから覗き込むと、底が見えない。壁は全面が鏡張りだったが、もう誰のトラウマも映さなかった。ただ、登ってゆく五人の姿を、無限に反復して映すだけだった。
「なあ」
しばらく登ったところで、灰原が口を開いた。
「さっきから気になってたんだが……この鏡、俺たちの姿、微妙に遅れて映ってないか」
言われて量子も気づいた。鏡の中の自分たちは、半歩ぶんだけ遅れて階段を登っていた。まるで、少し前の過去が壁の中を歩いているようだった。
「時間の流れが螺旋状に歪んでいるんです。ここは登るほど、時間の芯に近づいてゆく」
アルゴン博士が事も無げに言う。灰原は訊いたことを後悔した。
「悪かった。説明されてもわからんということを忘れてた」
「そうよ。あんたの頭じゃ少しだってわからないんだから。今だって昔だってね」
リーが酒を呷りながら灰原を挑発する。その歩き方は、ヒールであることを忘れさせるほど軽快だった。
「なんだよ、突っかかるな」
リーはふんと顔を背ける。
「ねえ」
量子は、少し迷ってから、前を歩くリーの背中に声をかけた。
「なによ」
「……さっきの、鏡。ごめん。見るつもりじゃなかった」
リーの足が、一瞬だけ止まった。酒瓶に口をつけ、長い長い一口を飲んでから、彼女は振り返らずに言った。
「別に。減るもんじゃないし」
「でも」
「あんたが謝ることじゃないでしょ。……それに」
リーは前を向いたまま、少しだけ声を落とした。
「誰かに知っててもらうのも、悪くないわ。私が死んだら、あんたが覚えててよ」
「やめてよ、縁起でもない」
リーは大げさに笑った。量子はその背中を目に焼き付けるように見つめた。最初は嫌な女だと思っていたけれど、今は絆を感じている。もっと別の形で出会えていたら、友達になれたかも知れない。
その少し後ろで、サトーがぽつりと言った。
「わたしも」
「え?」
「わたしのことも、覚えてて」
サトーは欠伸をしながら、まるで明日の天気の話でもするように言った。
「そしたら、わたし、ずっといるから」
——観測されている限り、存在は消えない。
彼女は誰よりも、この世界のルールを体で知っているのだ。量子は頷いた。幼い子供のようなサトー、ギャルソン姿の格好良いサトー、勇敢に戦うサトー、彼女ほど多くの面のある人を知らない。リーにだけ懐いていて、ほとんど喋らないけれど、彼女のことだって絶対に忘れたりしない。
「覚えてる。ふたりのこと、絶対に忘れない。でも死なないで」
「重いわねえ、この子」
リーがケラケラと笑った。サトーも、少しだけ笑ったように見えた。
「おい、なんの話だ?」
少し遅れて登ってくる灰原が、下から声を上げる。
「あんたには関係ない話」
「なんだよ、それ」
灰原が舌打ちする。その、あまりにいつも通りのやり取りに、量子は少しだけ泣きそうになった。
どれほど登っただろうか。
時間の感覚は、とうに失われていた。足の疲労だけが、確かに積み重なってゆく。この空間で肉体の疲れが本物かどうかも怪しいものだが、九条博士はわざわざ疲れるように設定しているのだろう。悪趣味な男の考えそうなことだ。
やがて、階段が終わった。
最上階は、拍子抜けするほど何もない、円形の広間だった。
床は一枚鏡。天井も一枚鏡。互いを映し合い、上下に無限の広間が続いているように見える。その中央——。
九条博士が、立っていた。
白衣はすでに物質としての形を失い、黒い花弁の渦となって彼の痩身に纏わりついている。皮膚の下では黒い菌糸が脈打ち、そして右目だけが、量子から奪った観測者の光を宿して、シュレディンガー方程式の紋様を静かに明滅させていた。現実で見たときよりも、より死神のように見えた。
「よく来たね」
九条博士は両腕を広げた。心底、嬉しそうだった。
「長い実験だった。五年……いや、私の人生すべてを賭けた実験だ。その最終検証に、被験者が全員、自分の足で揃ってくれるとは。ああ、感動的じゃあないか」
「あんたの実験は、今日で終わりよ」
量子が一歩前に出る。右目の鎖が、応えるように熱を放った。
「そう。今日で終わる。私の勝利という形でね」
九条博士が指を一本立てた。
「だが、その前に。不良品の廃棄処分を、済ませておこうか」
その右目が、ぎょろりと動いた。
量子、リー、サトーと視線を移し、灰原で視線を止めた。
「させない!」
リーが動いた。誰よりも早く、その意図を察したのだ。腹の中からソムリエナイフを引き抜き、床鏡を蹴って一直線に九条博士へ肉薄する。サトーも背から肉の翼が唸りを上げて展開し、天井を掠めて九条博士の頭上を取った。
挟撃。完璧な連携だった。
ナイフの切っ先が九条博士の喉元に届く、その寸前。
「君たちはね」
九条博士は、避けもしなかった。
「私が『いる』と思ってあげていたから、いられたんだよ」
右目が、閃いた。
リーの体が、空中で止まった。
ナイフを握った指の先から、ブロックノイズが走る。それはリー救出のときに見たような、揺らいで戻る類のものではなかった。指が、手首が、腕が——輪郭ごと、光の粒子に解けてゆく。サトーはすんでのところで上空に逃げた。
「え……」
リー自身が、自分の腕を見た。
「観測終了だ。被験体No.007。長らくご苦労だったね」
「リー!!」
量子が叫んだ。
「いや……いや……どうにかして……」
量子は右目にギュッと力を込める。しかし、リーの崩壊は止められない。
「観測者の目なんでしょ。どうにかしてよ、お姉ちゃん」
右目は量子の声に応えなかった。必死に右目だけでリーを見たが、崩壊がおさまるどころか遅らせることすら出来ない。
「なんでよぉ」
量子はその場にへたり込んだ。
灰原が反射的に駆け出し——粒子の嵐に阻まれて弾き飛ばされた。
崩壊は止まらない。肩まで、胸まで。リーは床に膝をつき、それでも残った左手で、転がった酒瓶を掴もうとした。届かなかった。瓶は指先のわずか先で、からからと虚しく鏡の床を転がっていった。
「……最悪」
リーが、掠れた声で笑った。
「最後くらい、一杯やらせなさいよ……」
「おい……おい、しっかりしろ!」
灰原が這うように近づく。彼には何が起きているのかも、目の前の女が誰なのかも、わかっていない。それでも、その顔は蒼白だった。
リーは、消えかけた顔を灰原に向けた。
そして、ふ、と——今まで誰にも見せたことのない、化粧の下の、素の顔で笑った。
「ねえ、あんた」
「な、なんだ」
「……産んであげられなくて、ごめんね」
「は?」
灰原には、意味がわからなかった。
わからないまま、その言葉は彼の胸の、いちばん深いところに落ちて、消えない染みになった。理由もわからず、目頭が焼けるように熱くなった。
「なんだよ、それ……おい、なんなんだよ、それ……!」
答えはなかった。
リーの体は喉まで解けて、もう声は出なかった。それでも唇だけが、最後に小さく動いた。
音にならないその言葉を、読み取れた者はいなかった——ただ一人を除いて。
サトーが、動いた。
天井近くで静止していた彼女が、翼をたたんで、落ちるように舞い降りた。散ってゆくリーの粒子の、その中心へ。
「だめ」
サトーは両手で、宙に舞う黒い光の粒を掻き集めた。
「だめ、だめ、だめ……っ」
掻き集めて、口へ運んだ。頬張った。飲み込んだ。零れる粒子を、床に膝をついて、一粒も逃すまいと、獣のように貪った。
「リーは、わたしのだ……! だれにも、取り上げさせない……!」
それは傍から見れば、仲間の亡骸を漁る怪物の姿だったかもしれない。
だが量子には、わかってしまった。
パンくずを探した、あの冬の部屋。飢えたまま、誰にも探されなかった少女。彼女は生まれて初めて手に入れた大切なものを、この世界の理から、自分の内側へ ——誰の手も届かない場所へ、必死に匿っているのだ。
やがて、最後の一粒が、サトーの唇の中へ消えた。
広間に、静寂が戻った。声にならない叫びが、量子の喉を引き裂く。
鏡の床に、酒瓶が一本だけ、転がっていた。




