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メンタル・ポルノ 量子的食脳  作者: よねり
第4章「鏡の向こう側」

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 螺旋階段は、内側が吹き抜けになっていた。手すりから覗き込むと、底が見えない。壁は全面が鏡張りだったが、もう誰のトラウマも映さなかった。ただ、登ってゆく五人の姿を、無限に反復して映すだけだった。

「なあ」

 しばらく登ったところで、灰原が口を開いた。

「さっきから気になってたんだが……この鏡、俺たちの姿、微妙に遅れて映ってないか」

 言われて量子も気づいた。鏡の中の自分たちは、半歩ぶんだけ遅れて階段を登っていた。まるで、少し前の過去が壁の中を歩いているようだった。

「時間の流れが螺旋状に歪んでいるんです。ここは登るほど、時間の芯に近づいてゆく」

 アルゴン博士が事も無げに言う。灰原は訊いたことを後悔した。

「悪かった。説明されてもわからんということを忘れてた」

「そうよ。あんたの頭じゃ少しだってわからないんだから。今だって昔だってね」

 リーが酒を呷りながら灰原を挑発する。その歩き方は、ヒールであることを忘れさせるほど軽快だった。

「なんだよ、突っかかるな」

 リーはふんと顔を背ける。

「ねえ」

 量子は、少し迷ってから、前を歩くリーの背中に声をかけた。

「なによ」

「……さっきの、鏡。ごめん。見るつもりじゃなかった」

 リーの足が、一瞬だけ止まった。酒瓶に口をつけ、長い長い一口を飲んでから、彼女は振り返らずに言った。

「別に。減るもんじゃないし」

「でも」

「あんたが謝ることじゃないでしょ。……それに」

 リーは前を向いたまま、少しだけ声を落とした。

「誰かに知っててもらうのも、悪くないわ。私が死んだら、あんたが覚えててよ」

「やめてよ、縁起でもない」

 リーは大げさに笑った。量子はその背中を目に焼き付けるように見つめた。最初は嫌な女だと思っていたけれど、今は絆を感じている。もっと別の形で出会えていたら、友達になれたかも知れない。

 その少し後ろで、サトーがぽつりと言った。

「わたしも」

「え?」

「わたしのことも、覚えてて」

 サトーは欠伸をしながら、まるで明日の天気の話でもするように言った。

「そしたら、わたし、ずっといるから」

 ——観測されている限り、存在は消えない。

 彼女は誰よりも、この世界のルールを体で知っているのだ。量子は頷いた。幼い子供のようなサトー、ギャルソン姿の格好良いサトー、勇敢に戦うサトー、彼女ほど多くの面のある人を知らない。リーにだけ懐いていて、ほとんど喋らないけれど、彼女のことだって絶対に忘れたりしない。

「覚えてる。ふたりのこと、絶対に忘れない。でも死なないで」

「重いわねえ、この子」

 リーがケラケラと笑った。サトーも、少しだけ笑ったように見えた。

「おい、なんの話だ?」

 少し遅れて登ってくる灰原が、下から声を上げる。

「あんたには関係ない話」

「なんだよ、それ」

 灰原が舌打ちする。その、あまりにいつも通りのやり取りに、量子は少しだけ泣きそうになった。


 どれほど登っただろうか。

 時間の感覚は、とうに失われていた。足の疲労だけが、確かに積み重なってゆく。この空間で肉体の疲れが本物かどうかも怪しいものだが、九条博士はわざわざ疲れるように設定しているのだろう。悪趣味な男の考えそうなことだ。

 やがて、階段が終わった。

 最上階は、拍子抜けするほど何もない、円形の広間だった。

 床は一枚鏡。天井も一枚鏡。互いを映し合い、上下に無限の広間が続いているように見える。その中央——。

 九条博士が、立っていた。

 白衣はすでに物質としての形を失い、黒い花弁の渦となって彼の痩身に纏わりついている。皮膚の下では黒い菌糸が脈打ち、そして右目だけが、量子から奪った観測者の光を宿して、シュレディンガー方程式の紋様を静かに明滅させていた。現実で見たときよりも、より死神のように見えた。

「よく来たね」

 九条博士は両腕を広げた。心底、嬉しそうだった。

「長い実験だった。五年……いや、私の人生すべてを賭けた実験だ。その最終検証に、被験者が全員、自分の足で揃ってくれるとは。ああ、感動的じゃあないか」

「あんたの実験は、今日で終わりよ」

 量子が一歩前に出る。右目の鎖が、応えるように熱を放った。

「そう。今日で終わる。私の勝利という形でね」

 九条博士が指を一本立てた。

「だが、その前に。不良品の廃棄処分を、済ませておこうか」

 その右目が、ぎょろりと動いた。

 量子、リー、サトーと視線を移し、灰原で視線を止めた。

「させない!」

 リーが動いた。誰よりも早く、その意図を察したのだ。腹の中からソムリエナイフを引き抜き、床鏡を蹴って一直線に九条博士へ肉薄する。サトーも背から肉の翼が唸りを上げて展開し、天井を掠めて九条博士の頭上を取った。

 挟撃。完璧な連携だった。

 ナイフの切っ先が九条博士の喉元に届く、その寸前。

「君たちはね」

 九条博士は、避けもしなかった。

「私が『いる』と思ってあげていたから、いられたんだよ」

 右目が、閃いた。

 リーの体が、空中で止まった。

 ナイフを握った指の先から、ブロックノイズが走る。それはリー救出のときに見たような、揺らいで戻る類のものではなかった。指が、手首が、腕が——輪郭ごと、光の粒子に解けてゆく。サトーはすんでのところで上空に逃げた。

「え……」

 リー自身が、自分の腕を見た。

「観測終了だ。被験体No.007。長らくご苦労だったね」

「リー!!」

 量子が叫んだ。

「いや……いや……どうにかして……」

 量子は右目にギュッと力を込める。しかし、リーの崩壊は止められない。

「観測者の目なんでしょ。どうにかしてよ、お姉ちゃん」

 右目は量子の声に応えなかった。必死に右目だけでリーを見たが、崩壊がおさまるどころか遅らせることすら出来ない。

「なんでよぉ」

 量子はその場にへたり込んだ。

 灰原が反射的に駆け出し——粒子の嵐に阻まれて弾き飛ばされた。

 崩壊は止まらない。肩まで、胸まで。リーは床に膝をつき、それでも残った左手で、転がった酒瓶を掴もうとした。届かなかった。瓶は指先のわずか先で、からからと虚しく鏡の床を転がっていった。

「……最悪」

 リーが、掠れた声で笑った。

「最後くらい、一杯やらせなさいよ……」

「おい……おい、しっかりしろ!」

 灰原が這うように近づく。彼には何が起きているのかも、目の前の女が誰なのかも、わかっていない。それでも、その顔は蒼白だった。

 リーは、消えかけた顔を灰原に向けた。

 そして、ふ、と——今まで誰にも見せたことのない、化粧の下の、素の顔で笑った。

「ねえ、あんた」

「な、なんだ」

「……産んであげられなくて、ごめんね」

「は?」

 灰原には、意味がわからなかった。

 わからないまま、その言葉は彼の胸の、いちばん深いところに落ちて、消えない染みになった。理由もわからず、目頭が焼けるように熱くなった。

「なんだよ、それ……おい、なんなんだよ、それ……!」

 答えはなかった。

 リーの体は喉まで解けて、もう声は出なかった。それでも唇だけが、最後に小さく動いた。

 音にならないその言葉を、読み取れた者はいなかった——ただ一人を除いて。

 サトーが、動いた。

 天井近くで静止していた彼女が、翼をたたんで、落ちるように舞い降りた。散ってゆくリーの粒子の、その中心へ。

「だめ」

 サトーは両手で、宙に舞う黒い光の粒を掻き集めた。

「だめ、だめ、だめ……っ」

 掻き集めて、口へ運んだ。頬張った。飲み込んだ。零れる粒子を、床に膝をついて、一粒も逃すまいと、獣のように貪った。

「リーは、わたしのだ……! だれにも、取り上げさせない……!」

 それは傍から見れば、仲間の亡骸を漁る怪物の姿だったかもしれない。

 だが量子には、わかってしまった。

 パンくずを探した、あの冬の部屋。飢えたまま、誰にも探されなかった少女。彼女は生まれて初めて手に入れた大切なものを、この世界の理から、自分の内側へ  ——誰の手も届かない場所へ、必死に匿っているのだ。

 やがて、最後の一粒が、サトーの唇の中へ消えた。

 広間に、静寂が戻った。声にならない叫びが、量子の喉を引き裂く。

 鏡の床に、酒瓶が一本だけ、転がっていた。


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