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灰原が落ち着きを取り戻すと、五人は無言のまま歩き出した。もう、誰も口を開かない。市松模様の床のどこまでが本当に進んだ距離なのか、誰にもわからなかった。
やがて、それが見えた。他のどの姿見よりも一回り大きな鏡が、たった一枚だけ、離れた場所にぽつりと立っていた。表面には何も映っていない。ただ、静かに、こちらを待っていた。
「これは……」
アルゴン博士が足を止めた。マスクの奥から漏れる声が、わずかに強張っている。
「気をつけてください。これは、おそらく……」
「わかってる」
量子は前に出た。他の鏡のように、引きずり込まれるのを待つつもりはなかった。震える足で歩み寄り、自分の意思で、鏡面に向き合う。
右目の奥で、姉から託された鎖が静かに熱を持った。
——見てやる。あんたの中身を、あたしが観測してやる。
量子が右目で鏡を覗き込んだ。
最初に見えたのは、若い九条博士だった。
白衣の下の体は今よりよほど人間らしく、顔は今のように老人のような相貌ではない。それでも眼光だけは変わらない、蛇のように冷たい光を宿していた。
医学部の卒業式。壇上で名前を呼ばれ、拍手を浴びながら、その口元は誰よりも早く、誰よりも大きく笑っていた。しかし目は少しも笑っていなかった。
次のコマ。
解剖実習室。同期の学生たちが青い顔でメスを持つ中、若き九条博士だけが恍惚とした表情で、死体の脳を取り出していた。指先が震えているのは、恐怖ではなく興奮だ。
『ふふ……この人間、生きていた頃より、今のほうがずっと素直だ』
誰にも聞こえない声で、彼は死体に語りかけていた。
コマが切り替わる。
学会の壇上。九条博士が発表する量子脳理論に、居並ぶ教授たちが眉をひそめ、口々に何かをまくし立てる。倫理的に問題がある、危険すぎる、狂っている——そんな単語だけが、音の割れたノイズのように反響する。
周りの人間は、彼を理解されない哀れな天才だと思っていただろう。だが、鏡に映る九条博士の表情は、傷ついてなどいなかった。
嗤っていた。心の底から、愚かしいものを見る目で。
『猿どもが。私の高尚な遊びに、指図するつもりか』
その声には、憐憫すら滲んでいた。
コマが切り替わる。
夜の路地裏。搬送される複数の遺体。外傷はどこにもない。ただ、頭蓋を開けば、脳の内部構造だけが物理的にありえない形へと書き換えられている。法医学者たちが困惑し、頭を抱える映像。
これは、九条博士の初期実験の失敗作たちだった。彼はそれを失敗とすら思っていない。
『量産型の試作品だ。この程度で驚くとは、警察というのはずいぶんと想像力が貧しいらしい』
コマが切り替わる。
夜の病院の屋上。焦点の合わない目をした患者たちが、九条博士に見下ろされながら、赤い塗料で床に大きな図形を描いている。逆さまの五芒星。九条博士は自分の右腕のアザを愛おしそうに撫でながら、出来上がった印を眺めていた。
『私の署名だよ。あの子の脳の一番深いところに、五年かけて灼きつけてやった印だ。ニュースにでも映れば、忘れているつもりでも、体のほうが勝手に嗅ぎつけて来る。犬笛と同じさ』
コマが切り替わる。
真新しい看板——特殊犯罪対策室。招聘された九条博士が、権力者たちに囲まれ、握手を交わしている。彼らを見る九条博士の目は、駒を並べるチェスプレイヤーのそれだった。
『三次元の脳など、私の実験のパーツに過ぎない』
最後のコマ。
今の、あの解剖室。失敗した観測者たちの死体を前に、九条博士が平然と偽りの死因を書き込んでいる。彼にとってそれは隠蔽ですらない。壊れたおもちゃを、ゴミ箱に片付けるだけの、ただの片付けだった。
どの映像でも、称賛を浴びていても、権力を手にしていても、嗤っていても——鏡の中の九条博士の瞳だけは、決して変わらなかった。
底なし沼のように暗く、冷たく、そして果てしなく孤独だった。
彼の見ている世界には、彼と同じ高みに立てる人間が、一人もいなかったのだ。
量子はやっとわかった。最初に神崎の意識に接続したとき、九条博士は「想定通りだ。最初からうまくいくなんて思っていないさ。それに、あんな男になにか証拠を残していくほど敵も馬鹿じゃあない」といった。あのとき、量子は敵をアルゴン博士のことだと思っていたが、九条博士は自分自身のことをいっていたんじゃないか。自分はこんなトラップに手がかりを残すようなヘマはしないと。思えば、あの屋上の赤い逆五芒星を見た瞬間、あたしは考えるより先に叫んでいた。あれは事件の痕跡なんかじゃない。あたし一匹を釣り上げるための、撒き餌だったのだ。
そして、もうひとつ、やっとわかった。あたしだけが犯人の特徴を知っている——あたしだけが、相対したときにわかる。ずっと、自分の優位だと思っていた。笑える。本当は、逆だったのだ。あたしだけが、気づけないように作られていた。見るたびに、忘れさせられていた。あの、右腕のアザを。
「……なんだ」
量子は、鏡に映る虚ろな瞳を見つめたまま、静かに呟いた。
「悲しい過去なんて、一つもないじゃない」
鏡に手を触れる。
「あんた、ただのガキね」
声が震える。悲しみでも、恐怖でもない。込み上げてくるのは、もっと単純な、心底からの軽蔑だった。
「他人の痛みがわからないから、平気で人を壊せる。自分の思い通りにならない三次元のルールが気に食わないから、おもちゃ箱に逃げ込んで神様ごっこをしてるだけ。……あんたの孤独は、あんた自身が空っぽで、幼稚なサイコパスだからよ」
言い終えた瞬間、鏡の中心に亀裂が走った。
パキ、パキ、と音を立てて、蜘蛛の巣のように広がってゆく。
その奥から——ゆっくりと、拍手の音が響いた。
「素晴らしい」
声が、鏡の裂け目という裂け目から、同時に響いた。
「その通りだよ、量子君。私は最初から、この世界の泥臭いルールなど大嫌いでね」
鏡が、粉々に砕け散った。
「倫理? 道徳? なぜ天才であるこの私が、凡人どもの作ったルールに縛られてやらねばならない? 壊れるなら、壊れる人間が悪いのだ」
一切の悪びれもない、むしろ「よくぞ言い当ててくれた」とばかりの、無邪気な笑い声だった。
周囲に立ち並んでいた無数の姿見が、割れた鏡の振動に共鳴するように、一斉にビリビリと震え始める。
「来たか」
声が、五人を取り囲むように反響した。
「私の、愛しい実験体たちよ」
声の残響が消えぬうちに、床が動いた。市松模様のタイルが一枚、また一枚と剥がれ、宙へ舞い上がってゆく。無数の姿見が倒れ、砕け、その破片が黒い花弁と混ざり合いながら、渦を巻いて空へ昇ってゆく。五人の眼前で、それらは組み上がっていった。
塔だった。
鏡の破片を鱗のように貼り付けた、天を衝く螺旋の塔。ねじれながら、どこまでも、雲すらない虚無の空へと伸びてゆく。塔の全面で無数の鏡片がぎらぎらと明滅し、そのひとつひとつに、歪んだ九条博士の嗤い顔が映り込んでいた。
「登っておいで」
塔の頂から、声が降ってくる。
「私は最上階にいる。逃げも隠れもしない。——ああ、安心したまえ。途中で殺したりはしないよ。せっかく熟成した実験体だ。最後まで観察させてもらわなくてはね」
声が、ヒッヒッヒという哄笑とともに遠ざかっていった。
「……趣味が悪いわね」
リーが塔を見上げて言った。もう何度目かもわからないその台詞に、なぜか少しだけ、皆の肩から力が抜けた。
「登るしかない、か」
灰原が首を鳴らす。
「転送とか出来ないわけ? あんたの領域でしょ、量子世界って」
リーが量子を見る。量子は右目に意識を集中してみたが、首を振った。
「だめ。ここは九条博士の意識の中だから……あたしの観測が上書きされちゃう。あいつが階段を登れって決めたなら、登るしかない」
「そういうことです。ここでは彼が家主ですから」
アルゴン博士が塔の入口——ご丁寧に赤絨毯まで敷かれた、悪趣味な観音開きの扉を指した。
「最悪」
リーが腹の中から新しい酒瓶を取り出した。




