55
リーが落ち着きを取り戻すのを待って、三人は再び歩き出した。誰も何も言わない。市松模様の床を踏む足音だけが、無機質に響く。
ふと、足元の市松模様に、見覚えのある染みがあった。さっき通り過ぎたはずのものと、同じ位置に、同じ形で。量子は足を止めかけたが、気のせいだと自分に言い聞かせて先を急いだ。
「趣味が悪いわね」
量子が呟いた。あの姿見のトラップは九条博士の仕業だろう。ああやって、わざとトラウマを掘り起こして、その様子を何処かから見て楽しんでいるに違いない。
「あ」
サトーが態勢を崩し、姿見に手をついた。その瞬間、再び鏡が光った。
彼女は逃げようとしなかった。むしろ、自分から鏡に一歩近づいた。
「サトー、危な……」
量子が手を伸ばしたが、今回も遅かった。サトーの瞳から色が消える。
鏡の中に映ったのは、狭くて薄暗い部屋だった。カーテンの隙間から差し込む光の筋の中、痩せた少女が体育座りで震えていた。壁の向こうから怒鳴り声。皿が割れる音。少女は耳を塞ぐこともせず、ただじっと、自分の傷だらけの膝を見つめていた。少女の体は、膝だけでなく全身が傷だらけだった。床にパンくずが落ちているのを見つけて拾った。それを口に入れようとしたとき、扉が開いて母親がサトーを殴った。部屋中を引きずり回して、最後は投げ飛ばした。サトーは抵抗しなかった。ただ、自由になってからパンくずがどこに行ったのか探したが、見つからなかった。
「声一つだしゃあしない。気味の悪い子供だよ、あんたは」
少女は外へ放り出された。冬の夜だった。誰も振り返らなかった。
少女はしばらく歩き、公園の隅にうずくまって眠った。目が覚めると、白衣を着た痩せぎすの男が、彼女を覗き込んでいた。九条博士だった。
『おや。捨てられたのかい、君は』
若い頃の九条博士は、笑いながらそう言った。少女は首を傾げた。自分に捨てるほどの価値があるとも思わなかった。
『いいだろう。私が君を拾ってあげよう。君にはこれから、自分でたくさんの価値を生み出すんだ』
次の場面は、旧市立病院だった。量子たちが訪れたあの精神科病棟。清潔だった頃の廊下を、白い患者衣を着た少女が、点滴の管を引きずりながら歩いている。彼女の目には、あの人同様に光がなかった。何度も、何度も、注射器が彼女の腕に刺さる映像が重なってゆく。体の傷は増えていた。
『あの子は誰にも探されない。都合がいい』
九条博士の声が、笑いながら繰り返される。
「……サトー」
量子は、震える声で名前を呼んだ。
鏡の中のサトーは、一度も泣かなかった。ただ、注射のたびに、小さく口を動かしていた。声には出ていなかったが、量子にはわかった気がした。
おなかすいた——。
それだけを、ずっと呟いていたのだ。
量子とリーの二人がかりでも、サトーを引き剥がすことはできなかった。二人の腕が、鏡の重力に負けてずるずると引き寄せられてゆく。
「くそっ、離れなさいよ!」
リーが叫んだ、その時だった。もう一つ、横から腕が伸びて、サトーの体を鏡から引き剥がした。
「サトーさん」
その声で、量子はようやく気づいた。
「アルゴン博士……いたの?」
どこからともなくアルゴン博士が現れて、サトーを鏡から引き剥がした。
「ずっと、一緒にいましたよ」
「……ふふ」
現実のサトーの目に、唐突に光が戻った。乾いた、感情の読めない笑い声を上げた。
「だから、わたし、いっぱい食べるの。もう、誰にも取り上げられないように」
その言葉に、量子は胸をつかれた。彼女が黒い花弁を貪り食う姿は、狂気の症状ではなく、飢えた少女の、切実な生存本能そのものだったのだ。
「アルゴン博士……」
量子は、震える声で彼を見た。
「あなた、本当は……いつからここに」
「言ったはずですよ、量子さん」
アルゴン博士のマスクが、静かに量子の方を向いた。
「量子空間や、この鏡の領域のような高次元的な場では、距離や位置に意味はありません。あなた方が歩いて進んでいたつもりの時間、私たちは、常にすぐ側にいたんです」
その言葉に、量子は息を呑んだ。
——常に、すぐ側に。
脳裏に、さっき見た床の染みが蘇る。同じ位置に、同じ形で。あれは、見間違いではなかったのだ。
「じゃあ……」
量子は、恐る恐る周囲を見回した。
「灰原さんは……」
声にした途端、すぐ近くの姿見が、ぼんやりと白く光っていることに気づいた。
最初からそこにあった光だ。
門をくぐった、あの瞬間から、ずっと。
「……嘘」
量子はよろめきながら近づいた。鏡に貼り付くように、灰原が立っていた。色のない目で、微動だにせず。門を抜けてから今まで、彼はほんの一歩も、動いていなかったのだ。
鏡の中に映ったのは、酒瓶が転がる薄汚いワンルームだった。カーテンは閉め切られ、テレビだけが虚しく点いている。無精髭を伸ばした男が、床に座り込んだまま安酒を呷っていた。左半分の頭には、まだ真新しい包帯が巻かれている。どうみても病院で入院しているようには見えない。
『……なんで、俺は生きてるんだ』
男が、誰に問うでもなく呟く。
『何かを、失った気がする。何かを……』
男の視界の端に、ふと女のシルエットがよぎる。それは輪郭も定かでない、影のような存在だった。同時に、幼い子供の笑い声が、どこからともなく響く。男はハッと顔を上げ、慌てて周囲を見渡すが、誰もいない。
『気のせいか……』
男はまた酒を呷る。だがその手は、隠しようもなく震えていた。
『思い出せない。思い出せないのに、こんなに、胸が痛い』
映像の中の灰原が、声を殺して泣いていた。理由もわからないまま、ただ涙だけが流れ続けていた。
「灰原さん!」
量子が呼びかけても届かない。今までと違って、不吉な予感がする。光っていた姿見はその光を徐々に弱めていった。灰原の体は、瞳だけでなく、全身から光が失われてゆく。量子は喉の奥が凍りついた。
このままでは、彼は戻ってこられないのではないか——。
動いたのは、リーだった。
彼女は迷わず灰原に駆け寄ると、彼の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。手にはあのときのソムリエナイフを持っていた。しかし力を使い果たしたそれはもう、何の力も宿っていない、ただの金属のナイフだ。それでも彼女は、柄の部分を思い切り振りかぶり、灰原を捉えていた鏡へと叩きつけた。
乾いた音とともに、鏡が粉々に砕け散る。幻影が、破片とともに消えてゆく。
「あんたは私たちの運転手でしょ」
リーが、灰原の頬を平手で張った。乾いた音が響く。
「前だけ見てなさいよ」
その一言に、灰原の瞳へ光が戻った。彼は肩で息をしながら、目の前に立つ派手な女を見つめた。
「……なんで、お前が殴るんだよ」
「うるさい。文句言うな」
リーはそう言って、すぐに顔を背けた。だが量子には見えていた。背けたその横顔が、今にも崩れそうに歪んでいたことを。
灰原は何もわからないまま、それでも小さく「悪い」とだけ呟いた。リーは答えなかった。
その横で、誰にも気づかれず、アルゴン博士が姿見の前に立った。
鏡は、光らなかった。
彼は無言で手を伸ばし、鏡面に触れる。指先が、冷たいガラスの感触を返すだけだった。何も映らない。かつての顔も、失った日々も、なにひとつ。
「……そうですか」
アルゴン博士がぽつりと言った。その声には、安堵とも絶望ともつかない響きがあった。鏡は、彼という存在をどう扱えばいいのか、観測することすらできなかったのだ。借り物の肉体。おもちゃの頭部。そして——本当に自分は神崎なのかという、確信の持てない精神。
「私は、映るだけの何かにもなれないらしい」
「え? なにか言った?」
量子が振り返る。
「いいえ、何でもありません」
アルゴン博士がつぶやくように言った。




