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空間の亀裂に身を委ねる。亀裂は生き物の傷口のように脈打っていた。それを肌に感じることは出来なかったが。
亀裂の奥から吹き出してくるのは風ではなく、耳が痛くなるほどの完全な静寂だった。サーバーの唸り、警告音、化け物どもの唸り声——現実の喧騒のすべてが、その静寂に塗りつぶされて消えてゆく。
白い闇だ——量子は思った。
「行きますよ」
アルゴン博士のペストマスクが、亀裂の放つ光を鈍く照り返した。上下左右も方向感覚も曖昧な真っ白な空間の中を、彼は躊躇なく進んでゆく。
量子は震える拳を握りしめた。姉の温もりがまだ右目の奥に残っている。忘れるものか——そう自分に言い聞かせ、アルゴン博士に続いた。
暫く歩くと、まるで眠りに落ちるように、景色が一瞬にして塗り替わった。そこは、白でも黒でもない部屋だった。
到着したのだ——直感的に気づいた。病院というから、量子は自分と灰原に馴染みのある景色が見られるものと思っていたが、そうではなかった。そこはあの病院の姿をしていなかった。当たり前だ。ここは現実の病院ではないのだ。九条博士の意識の中なのだ。
床は艶やかな漆黒と純白が交互に並んだ、巨大な市松模様。壁と呼べるものはなく、代わりに無数の姿見が、床から生えた墓標のように四方八方へ続いていた。数えることを拒むほどの数だ。天井はない。見上げれば、そこには止まった時間があった。黒い花弁が、雪のように、しかし一片たりとも落ちることなく、虚空に凍りついていた。
「趣味が悪いわね」
リーが吐き捨てるように言う。やけに大きく反響した。
「なんで鏡なんか」
灰原が誰にともなくつぶやく。
「九条博士にとって、ここは思考そのものです。彼の孤独な脳内を、そのまま空間に投影している。トラップの可能性もある。あまり、鏡を覗き込まないように」
アルゴン博士がそう忠告した。
「趣味が悪いわね」
リーが再び吐き捨てる。量子も同じことを言おうと思っていたところだ。
大きな門が立ちはだかった。触れるだけで指が落ちそうなくらい鋭い柵に、赤ん坊の頭の取っ手がついている。
「何だこんなもの。ビビることはない」
灰原が取っ手を掴んでひねる。すると赤ん坊の頭が取れて、泣き声が響いた。灰原は驚いて後ずさる。
「趣味が悪いな」
灰原は手の中に残った赤ん坊の頭を見下ろした。
残った方の取っ手を恐る恐る捻ると、扉は開いた。
「気をつけて。ここからは彼の領域です」
「まかせとけ。俺が先陣を切る」
灰原が門の中へ飛び込む。その瞬間、彼の姿が消えた。
「言ったそばから……」
量子はため息をついた。しかし呆れてもいられない。罠とわかっていても飛び込むしかないのだ。
意を決して飛び込んだ。
飛び込む刹那、視界の端で何かが白く光った気がした。だが確かめる間もなく、量子の体は門の内側へ吸い込まれていた。
量子が飛び込んだ先は、先ほどとあまり変わらない風景だった。違うのは門の内側にいることだ。そして、量子の他に誰もいない。
「どいてどいて」
後ろからリーが現れて量子にぶつかった。
「痛いわね」
リーが量子を睨む。
「あんたがぶつかってきたんでしょう」
量子がリーを睨んだ。二人の視線の間で火花が散る。しかし、すぐにリーの視線は量子の後ろに移った。
ふと、灰原はどこへ行ったのか——考えかけて、なぜかその疑問はすぐに霧散した。量子のすぐ後ろにある姿見が、ひとりでに白く発光していたからだ。
「な、なに、これ……」
リーが後ずさろうとする。珍しく声が震えていた。しかし体は鏡の方へ、まるで見えない手に引かれるように傾いてゆく。量子がとっさにその腕を掴んだが、間に合わなかった。リーの手のひらが鏡面に触れた瞬間、彼女の瞳から色が抜け落ちた。
「リー!」
量子の鋭い声が響いた。しかし、すでに手遅れだった。まるで魂が囚われるように、鏡の中に若い女の姿が映った。
鏡の中に映るのは、見慣れた姿のリーではなかった。化粧っ気のない、地味なワンピースを着た若い女。今よりずっと丸みを帯びた、幸福そうな頬。彼女は狭いアパートのキッチンに立って、鍋をかき混ぜていた。背後から、若い男が「味見させろ」と言いながら抱きついてくる。その男の顔は、傷も、機械も、なにひとつ纏っていない灰原だった。
「……嘘」
量子の口から、思わず声が漏れた。鏡の中に写っているような、穏やかな顔の灰原を見たことがなかった。
映像は続く。膨らんだ腹を愛おしそうに撫でる女。ただの人間だった頃の灰原。幸福だけがそこにあった。
次の瞬間、映像が裂けた。
白衣の群れ。
手術台。
悲鳴——レストランで見た、リーの記憶だと思ったが、これは意識世界のまえに現実世界で起こったことのようだ。
モニターの音が、ふつりと途切れる。腹の中で確かに動いていたものが、動かなくなる。女の絶叫。そしてヒッヒッヒという、聞き慣れた哄笑。
『いい実験体だ。幸福な人間ほど、壊した時の反応がいい』
九条博士の声だった。
『男の方は記憶を消して木偶にしよう。ああ、女の方はぁ……どうせ廃棄予定だ。手間をかける価値もない』
「やめて……やめてよ……」
鏡の中の女が——かつてのリーが手術台の上で泣き叫んでいた。その傍らで、記憶を消される直前の灰原の瞳から、最後の理性の光が消えてゆく様が、スローモーションのように映し出される。
「もう、いい」
量子が、震える声で呟いた。
「もう、いいから……見せないでよ……」
だが鏡は止まらない。彼女の孤独な五年間——誰にも本当のことを言えず、ソムリエとして酒瓶に自分を漬け込むようにして生きてきた歳月が、早送りの映像となって流れ続けた。量子は一人でリーの体を引き剥がそうとしたが、びくともしない。指先が滑り、爪が割れそうになる。
「リー!」
あたしには助けられないのか——そう思った瞬間、後ろから手が伸びてきて、リーの体を鏡から力任せに引き剥がした。
「サトー?」
「……美味しくない」
サトーだった。
「これは、美味しくないよ、リー」
その一言に、リーの瞳へ色が戻った。彼女は自分がサトーに縋りついていることに気づき、慌てて突き放そうとしたが、力が入らなかった。代わりに、化粧の崩れた顔をサトーの肩に押し付けて、しばらく動かなくなった。
量子は、何も言えなかった。ただ、右目の奥がじわりと熱くなるのを感じていた。




