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「やりましたね」
アルゴン博士が量子を見て手を叩く。
「え?」
床に倒れ込んだ量子の右手には、光を放つ無骨な鎖が握られていた。
「よかった、持ってこられた」
安堵した瞬間、鎖が生き物のように意思を持って動き出す。鎖の先端が蛇のように鎌首をもたげ、量子の右目の空洞めがけて容赦なく深々と突き刺さった。
激痛を伴う量子の悲鳴とともに、頭蓋の奥で物理的な連結音が鳴り響く。鎖が右目の奥深くへ吸い込まれてゆき、量子の脳髄と直接リンクする。黒い粒子が純白の光に浄化され、押し出されてゆく。
あまりの痛みに量子はその場にのたうち回った。灰原がどうしようもない状況に右往左往する。アルゴン博士もそれは想定外だったのか、量子を見て唸った。
これまでのことをすべて後悔するほどの痛みだった。脳髄を鎖がかき回すような痛み。この痛みさえ取り除いてくれるなら、九条博士のことなんてどうでも良い、と一瞬、そんな惨めな逃避すら脳裏をよぎった。
「大丈夫、すぐ慣れるわ」
脳裏に響く栞の声と共に、突如として右目の視界が劇的に開けた。それと同時に波が引くように痛みがなくなる。
量子が立ち上がった。
「おい、大丈夫か?」
右往左往していた灰原が、恐る恐る量子を覗き込む。量子が顔を上げ、灰原を真っ直ぐに見つめ返して頷いた。その瞬間、灰原は息を呑んだ。量子の右目には、もうあの不気味な絶望の空洞はない。眼球があるべき場所には、シュレディンガー方程式の緻密な幾何学模様が浮かび上がり、静かに、しかし絶対的な意思を持つ純白の光を放って輝いていた。 それは、姉から託された世界を確定させる観測者の瞳だった。
「それで、これからどうするの?」
リーがアルゴン博士に尋ねる。尋ねられたアルゴン博士が量子を見る。量子は灰原を見る。
「え? なんだよ」
灰原がたじろいだ。
「え、いや……なんとなく」
量子の中で、まだ情報がまとまっていなかった。栞から聞いた話をぽつりぽつりとアルゴン博士に話し始める。アルゴン博士は口を挟まずに耳を傾ける。量子はなんども戻りながら、思い違いかどうかを確かめながら話してゆく。灰原はちんぷんかんぷんだったが、アルゴン博士はふんふんとわかったように頷いた。
「えーと、なに? 病院? 病院って、アルゴン博士がいたところでしょ」
リーが尋ねる。確かに、彼女とは九条博士の勤める大学病院で会ったことがある。アルゴン博士は同じ病院に潜伏していたのか。中身が神崎なのだとしたら、勝手知ったるといったところなのだろう。しかし、どうやって九条博士に気づかれずにいたのだろうか。
「そうですね。わたしと、九条博士と、量子さんが初めて出会ったところですね」
「ここからだいぶ遠いじゃない」
リーの言う通り、旧市立病院から大学病院までは距離がある。
「大丈夫です。今、この世界は三次元の檻から解き放たれつつあります。つまり、量子さんの力があれば三次元世界のどの座標にだって一瞬で飛んでいけます。距離は関係ありません」
まるでSFみたいな話だ。だが、ここまでのことを考えればこんなことでは驚かなくなっていた。
「どうすれば良い?」
アルゴン博士が量子に右目を指さした。まだ、右目の視界になんとなく慣れない。右目だけで見る量子世界と、左目だけで見る現実世界とが重なって歪んで見えるからだ。
「あなたの観測者の目があれば、サーバーのポートから九条博士の城までひとっとびですよ。我々は体の一部をそれぞれ量子化していますので、量子世界へ行くことが出来ます。あなたの導きさえあればね」
アルゴン博士がさも簡単なことのように言う。
「待て待て。お前らみたいなびっくり人間ならまだしも、俺は普通の人間だぞ」
灰原が慌てる。
「Memory-Xに依存した機械脳の人は、普通の人間ではないと思いますが……」
アルゴン博士が気の毒そうな顔で灰原を見る。彼は意識世界のレストランのことをすっかり忘れている。今の人格が、心身ともに九条博士によって改造されていることを。
灰原がハッとした顔で左脳の機械部分に触れる。
「大丈夫。我々びっくり人間同士、みんなで行きましょう」
「でも、このサーバーはもう九条博士から捕捉されているんじゃない?」
量子が尋ねる。
「確かに、九条博士はここのことをわかっているでしょう。ただ、彼には最初からここを使うことをわかっていたと思いますよ」
「どういうこと?」
「彼はわたしの正体に気づいているでしょう。そのうえで、この状況を打破するにはここに来ざるを得ないということも」
「だったら、トラップとか……」
「今の彼は、我々のことなんて相手にしていないはずです。唯一の懸念だった栞さんまで手中に収めたのです。文字通り、神になった気分でしょう」
アルゴン博士の言うことは一理あった。そして、先程九条博士に捕まった栞の姿がフラッシュバックしてくる。その苦しみで胸が詰まったようだ。
「気に食わないわね」
リーが地面を蹴った。サトーはその後ろで興味なさそうに欠伸をしている。
今の会話で、ふと気になったことがあった。
「待って? じゃあ、ここからあたしがお姉ちゃんに会いに行くことを九条博士がわかってて罠を張っていた、ということを知っていたのに行かせたって言うこと?」
考えたくないが、彼は九条博士の慢心を引き出すために、わざと栞を捕まえさせたということではないか。
「あんた……お姉ちゃんが囮になることを、最初から知ってて……」
量子がアルゴン博士を鋭く睨みつける。彼女の怒りに呼応するように、右目に宿った光の鎖が瞬き、危険な熱を帯びた。
アルゴン博士は困ったように首を傾げた。
「この状況が必要でした」
「だからって……!」
量子が叫ぶ。自分の声の大きさに驚いてしまった。
「すみません。心から謝罪します。あなたと栞さんを利用しました。でもわかってほしい。これしかなかったんです。九条博士の慢心を引き出し、その隙を突いてあなたに観測者の力を取り戻させるには、彼女が自ら特異点に留まる必要があったのです。すべてが終わった後、私のことを八つ裂きにしてくれても構いません。ですが、九条博士だけは討たせてください。それだけが、あの男の狂気を手伝ってしまった私の、みっともない贖罪なのです」
アルゴン博士は深々と腰を折った。その横で、リーとサトーも同じように腰を折る。プライドの高いリーにまでそんなことをされてしまったら、嫌とは言えないではないか。
「わかったわよ。でも、お姉ちゃんが無事に帰ってこられるように全力を出して。もし無事じゃなかったら許さないから」
「ありがとう。約束します」
アルゴン博士がホッと息をついた。
「では、善は急げです」
アルゴン博士の声に、量子は力強く頷いた。彼女はサーバーから放たれる純白の光の束に向かって、覚醒した右目を見開く。右目に宿った光の鎖が激しく明滅し、空間の確率を強制的に書き換えてゆく。
地下室の空気が悲鳴を上げた。何もない虚空が歪み、ガラスが割れるような不快な音と共に、九条研究室へと直結する空間の亀裂が口を開けた。




