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光の奔流が脳髄を灼く感覚は、唐突に消失した。量子が目を開けると、そこは果てしなく続く、無機質で真っ白な回廊だった。病院の地下にいたはずの灰原やアルゴン博士たちの姿はない。耳障りだったサーバーの爆音も、チカチカと点滅する蛍光灯も、すべてが消え失せている。
「ここは……」
声を出した直後、量子は強烈な違和感に襲われた。自分の発した声が、コンマ数秒遅れて、しかも背後から聞こえてきたのだ。量子が戸惑いながら一歩踏み出す。
足音が響いた。しかし、量子の靴の底はまだ真っ白な床に触れていない。歩みを止めているのに、自身の足音が無数に増殖し、前後左右から不協和音となって耳に痛い。時間の概念が狂っているのだ。
気持ちが悪い——。体の感覚はない。吐き気のようなものもないが、とにかく精神がざわつくような気味の悪さが魂を包み込む。
不快感に両耳を塞ごうと手を上げた瞬間、量子は息を呑んだ。 視界の端で、自分の指先が四角いブロックノイズとなってボロボロと崩れ落ちていたからだ。 痛みはない。ただ、空間の絶対的な管理者である九条博士のネットワークにおいて、量子の存在確率が不正なデータとして認識されているのだ。指先から腕へ、そして足元から。肉体の輪郭が砂嵐のようにザラつき、白い空間へ溶け出してゆく。
量子は叫んだ。その声もあらゆる方向からディレイがかって聞こえてくる。
——走らなければ。九条博士に捕捉される前に。
量子はノイズにまみれた体で、無機質な回廊を駆け出した。しかし、どれだけ全力で走っても景色は一切変わらない。一メートル進んだのか、十キロ走ったのか。壁も床も均一な白の中で、距離の概念すらも剥奪される。上下左右が反転し、五感がぐちゃぐちゃにすり潰されてゆく。焦燥感とノイズの渦の中で、量子の意識が完全に白く塗りつぶされそうになった、その時。
「りょうこ」
狂ったノイズの海を切り裂くように、たった一つだけ、純粋で透き通った音が響いた。
「お姉……ちゃん?」
「こっちよ。私の声だけを見て」
それは視覚でも聴覚でもない。魂に直接響いた。量子は崩れゆく右手を前に押し出し、その声の震源へと手を伸ばす。
白い空間が左右へと割れた。現れたのは、黒百合町の家。そして、そこへと続く道。何度ここを通って家へ帰ったか。
一歩、足を踏み出すと、体のブロックノイズが消える。量子は焦る気持ちを抑えきれず、家の中に飛び込んだ。
「おねえちゃん」
家に入るとすぐ目についたのは、シュレディンガー方程式の美しい光の鎖に手足を縛られ、逆さまに吊られている女性がいた。純白のドレスを着た、姉の栞だった。長い髪が床にとぐろを巻いていた。それが、離れていた月日を思わせた。
長い間、ずっと探していた人。量子はその姿を見た瞬間、すべての緊張の糸が切れ、その場に力なくへたり込んだ。抉られた右目の真っ暗な空洞から、止めどなく黒い粒子がこぼれ落ちる。それは九条博士の悪意に染まったデータでありながら、この瞬間だけは、姉との再会を喜ぶ量子の真っ黒な涙となって、実家の床へ静かに降り積もった。
「量子。ようやく会えたわね」
栞の顔を見て、量子の感情が爆発した。今まで、うまく思い出せなかった姉の顔、大好きだった姉のこと、全て思い出す。
「お姉ちゃん!」
量子は床を蹴り、姉の元へ駆け寄ろうとした。しかし、どれだけ走っても、栞との距離は一向に縮まらない。歩みを進めるたびに、二人の間にあるフローリングの床が無限に引き伸ばされてゆく。
「どうして……っ、どうして届かないの!」
量子が虚空へ必死に手を伸ばす。数メートル先で逆さ吊りにされている栞は、その届かない手を悲しげに見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。それは次元の壁に隔てられ、二度と触れ合うことの許されない悲痛な距離だった。
「時間がないの。よく聞いて」
栞はジッと量子の目を見つめた。
「九条博士の目的は、この世界からの脱出……いいえ、自身の神格化」
「神格化?」
「そう。九条博士は文字通り神になろうとしているの。この世界に上位の次元から干渉できる存在……私たちが神と呼ぶ存在そのものよ」
冗談じゃない。あんな男が神であってたまるものか。
「もうここも長く保たないでしょう。今まで隠し続けてきたけれど、今の九条博士ならこの次元を観測することもできるはず。そうなれば、私はあの人に捕まってしまう」
「そんなのだめ。一緒に逃げよう。今のあたしには仲間がいるもの。誰にもお姉ちゃんを捕まえさせやしないわ」
栞は静かに首を振る。
「現実の私の体はすでに九条博士に囚われている。どちらにしろ、手遅れなの」
そうだ。栞は九条博士が管理している病院に入院している。こうなることを見越してすでに手を回していることだろう。
「お願い。九条博士をとめて」
量子は頷く。
栞の手足から光の鎖が緩んだ。ゆっくりと床に降り、栞が息を吹きかけると、鎖は量子の方へ飛んできた。
「この鎖は、九条博士に唯一対抗できるもの。あなたに託すわ」
量子が両手で受け止めたその鎖は、無骨な見た目に反して、羽毛のように質量を感じなかった。しかし、確かな熱があった。眩しいほどの純白の光を放つその鎖からは、栞の命そのもののような、優しくて力強い温もりが脈打つように伝わってくる。栞の決意、そしてかつて持っていた量子の力の片鱗だ。
「見つけたぞ」
量子が鎖を手にすると同時に、周りの景色にブロックノイズが混じり始めた。
「馬鹿な女だ。ずっと隠れていれば良いものを。その忌々しいシュレーディンガー方程式の鎖がなければ、貴様なぞすぐに見つけることができるわ」
耳をつんざくような九条博士の声が響く。
「どこ? どこにいるのよ。かかってきなさいよ。あたしがやっつけてやる」
「なんだあ? 量子君じゃないか。君の出番はもう終わったよ。ああ、私のために栞くんを見つけてくれたんだな。礼を言うよ」
「黙れ」
量子が声を張り上げる。
「量子、聞いて。九条博士は病院の研究室よ。その鎖を使って」
そう言うと、栞が量子を押し出すようなポーズを取る。量子は後ろに吹き飛ばされ、玄関から転がり出た。
「お姉ちゃん!」
「量子。世界を頼んだわよ」
栞が微笑んだ次の瞬間。轟音と共に、家の天井が紙切れのように乱暴に引き剥がされた。黒い空を覆い尽くすほどの巨大な肉塊、上半身だけで顕現した九条博士が、虫箱を覗き込むようなおぞましい視線を下ろしてくる。巨大な手のひらが、栞ごと家を無慈悲に押し潰す。
「お姉ちゃん!!」
世界が圧壊する音の中、量子の絶叫は強烈なフラッシュバックに飲み込まれた。気がつくと、彼女は病院の薄暗いサーバールームの床にいた。




