51
三人がエレベーターに戻ると、アルゴン博士と量子の姿がなかった。エレベーターが地下へ移動している。二人は先に行ったらしい。
「待っててくれてもいいのに」
「馬鹿ね。今は時間の勝負なのよ。それに、あの二人は戦えないんだから、ここにいて襲われたら問題じゃないの。頭使いなさいよ。あら、ごめんね、半分空っぽなんだっけ?」
リーが灰原の機械脳をコツコツと指で叩く。それを灰原は無言で振り払った。
「何よ、空っぽの頭で拗ねちゃったわけ?」
リーは鼻で笑い、尖ったヒールで灰原の脛を軽く蹴り飛ばした。いつもならすぐに怒鳴り返してくるはずが、灰原は俯いたまま何も答えなかった。
灰原に彼女に関する記憶はない。目の前の派手な女が何者かも知らない。だが、彼女に頭を小突かれた瞬間、どうしようもない喪失感と、胸を締め付けるような微かな痛みが灰原の奥底をよぎったのだ。彼はその説明のつかない感情に戸惑い、ただ沈黙するしかなかった。
電気が通った瞬間、廃病院の廊下の蛍光灯がチカチカと不気味に点滅しながら点灯した。
「つきましたね」
エレベーターが起動する音がする。押しボタンが点滅した。
「彼らならやってくれると思っていました」
ボタンを押すとエレベーターが開く。
「さあ、行きましょう」
「三人をまたなくていいの?」
「あの三人なら大丈夫でしょう」
手を伸ばすアルゴン博士に、量子は少し不安を覚えた。彼は本当に神崎なのだろうか。彼についていって、本当に良いのだろうか。アルゴン博士の顔を見ても表情は読めない。
ギュッと目をつぶり、量子はアルゴン博士の手を取った。
アルゴン博士がサーバーラックの電源を投入すると、無停電電源装置が耳障りな警告音を地下室全体に響かせた。 続いて、サーバーの冷却ファンがまるでジェット機のような爆音を上げて回り始めた。
「音がデカすぎる! これじゃあ上の階にいる化け物どもが全部集まってきちゃうわよ!」と量子が焦った。
制御用モニターには黒い画面に白い文字で『System Booting...』と表示されていた。それだけ見ても、量子にはなんのことかわからない。チラとアルゴン博士の横顔を盗み見る。彼に焦りは見えなかった。
量子が自分を見ていることに気づいたアルゴン博士は落ち着いた顔で言った。
「エンタープライズ用のサーバーのコールドブートには時間がかかります。OSが立ち上がり、栞さんのいる特異点へアクセスできるまで。まだ時間がかかりそうですね」
まるで他人事のようだ。
この部屋は、以前はよく見なかったが、壁際にラックが組まれていた。そのどれもが、今は静かに鎮座している。うるさいのは冷却用ファンだけだ。
エレベーターを待っていると、地下から轟音が響いた。
「なんの音だ?」
灰原が言うのと同時に、窓ガラスが割られる音がした。見ると、ゾンビが入ってこようとしている。
エレベーターが到着し、軽快な音とともに扉が開いた。
「これ、俺達で処理しなくちゃだよな」
リーはゾンビに視線を合わせたまま「当たり前でしょ」と言った。灰原の背後でエレベーターの扉が閉まった。
ゾンビは動きは鈍いが、灰原が殴っても何度でも起き上がってくる。サトーが黒い花を食べてようやく動きは止まるが、ゾンビの数を考えると、追い詰められてゆくのは明白である。こちらはエレベーターの前から動けない。やつらをエレベーターに乗せるわけにはゆかない。
リーが腹の中から手術用のメスを取り出し、倒れたゾンビの花をメスで刈り取ろうとするが、出来なかった。
「ただのメスじゃ駄目か。ソムリエナイフも、もう力が残ってないし……」
「腹の中に取り込めば良いんじゃないか?」
「こんなデカい赤ちゃんを入れられないわよ。私のは入口が狭いの」
それを聞いて、灰原はおもむろにゾンビの頭部を両手でガッチリと掴み、そのまま力任せにねじり切った。
「これならいいだろ?」
灰原がゾンビの頭を差し出す。虚勢を張る声とは裏腹に、頭部を差し出す灰原の手は小刻みに震えていた。彼の中にある正義の刑事としての魂が、殺戮の感触に悲鳴を上げているのだ。リーはその震える血まみれの手を見て、痛ましく目を見開いた。
「ありがとう」
言って、リーが腹の中に収める。ゾンビはもう動かなくなった。
「俺は刑事だ。女に守られているだけの弱い人間じゃない」
「そのためだったら、人を殺すの? 変わったわね」
灰原は言葉が詰まった。
「違う……俺は……お前のためにやったんだ」
「これは私のわがままだけど、私なんかのために、あなたには変わってほしくない。だから、もうこんなことしないで」
リーが灰原の血まみれの手を優しく拭う。
「あんたは私たちみたいな化物とは違うんだから」
答えられない灰原に、ゾンビが襲いかかった。それを助けようとしたリーも、別のゾンビに捕まる。
「離しなさいよ」
もう駄目か、と思った瞬間、サトーの叫び声が聞こえた。
サトーの羽がゾンビたちを薙ぎ払う。彼女の羽の形が変わろうとしていた。
「美味しい……美味しい……」
サトーが片っ端からゾンビを捕まえ、黒い花を食べ尽くしてゆく。そのたびに羽根が変化する。ゾンビたちが彼女に噛みついた、その傷から更に羽が生える。傷が増えれば増えるほど、羽が増えて行き、それは羽というよりも触手のように見えた。サトーはその触手を操り、ゾンビをすべて拘束すると、次々と頭にかぶりついていった。サトーの両頬が耳の裏まで裂けた。人間の骨格を完全に無視して蛇のように外れた巨大な顎が、ゾンビの頭部を丸ごと飲み込む。硬い頭蓋骨を飴玉のように噛み砕き、黒い花弁ごと脳髄を咀嚼するおぞましい音が、静かな廊下に反響し続けた。
すべてのゾンビを食い尽くすと、サトーは裂けた口を元に戻し、まだ食べたりなさそうに指をしゃぶった。
「ありがとう、ラブリーちゃん。よくやったわね」
リーが、血と肉片にまみれたサトーを躊躇いなく抱きしめる。豊満で温かいリーの体に包まれ、サトーはふっと憑き物が落ちたように、あどけない子供の顔で目を閉じた。禍々しい肉の触手たちが、安心したように彼女の背中へ吸い込まれ、消えてゆく。
血まみれのリーとサトーを伴い、灰原が地下のサーバールームへ飛び込んだ時だった。
灰原は絶句し、その場に立ち尽くした。 爆音を立てるサーバーの前。量子が膝をつき、右目を押さえて苦悶の声を上げている。そして彼女の指の隙間から、黒い血が床へ滴り落ちていた。
「貴様……彼女に何をした! やはり裏切ったな!」
灰原が激昂し、傍らに立つアルゴン博士へ殴りかかろうとする。それを、リーが血に染まった腕で制止した。
「やめなさい。アルゴン博士に手を出すのは許さないわよ」
「やはり貴様ら……」
「待って! 違うの!」
量子が激痛に耐えながら、灰原へ片手を突き出して叫んだ。
「あたしの右目は……お姉ちゃんに繋がる鍵なの」
量子が、粒子に塗れたガーゼの眼帯を引き剥がす。抑えた指の隙間から、黒い粒子がこぼれ落ちる。黒い血だと思ったものは、粒子だった。サトーが黒い花を食べたときにこぼれ落ちるものと同じだ。つまり、彼女もまた、変化を起こしているということか。
九条博士によって視力と観測権限を抉り取られ、真っ暗な空洞と化した右目。そこへ、巨大なサーバーから伸びたシュレディンガー方程式の光の束が、まるで何万本もの光ファイバーの極細ケーブルのように直接吸い込まれ、突き刺さった。
光の束が脳髄を直接灼く激痛に、量子の体が大きく反り返る。車酔いなどという生易しいものではない。世界の輪郭がぐにゃりと歪み、重力が消失し、自身の存在確率がバラバラに引き裂かれそうになる感覚。
「お見事です」
アルゴン博士が、その凄惨な光景を冷徹な仮面の奥で見下ろしながら告げた。
「その光の束は、栞さんがいる次元へ続いています。アクセスできるのはあなただけ。九条博士がハッキング用のポートとして抉った右目の穴を、逆に利用してやりましょう。特異点へ行く準備は出来ましたか?」
量子が頷く。まだひどく視界が歪む。光の束に向かって行く道だけははっきり見えた。




