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メンタル・ポルノ 量子的食脳  作者: よねり
第6章「螺旋の外側で」

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65/66

65 了

第6章「螺旋の外側で」



 カーテン越しの柔らかい光で目が覚めた。

 白い天井。消毒液の匂い。一瞬、あの止まった世界に戻ったのかと思ったが、違った。廊下から足音が聞こえる。遠くで誰かの笑い声がする。窓の外で、鳥が鳴いている。

 世界に、音があった。

「お、起きたか」

 ベッドの横で、灰原がパイプ椅子に窮屈そうに座っていた。膝の上に、包装もろくにされていない見舞いの花束が、ぞんざいに乗っている。

「あたし、どれくらい寝てた?」

「三日だ。三日間、こんこんとな。医者は過労だと。ま、世界一の過労だろうよ」

 量子は身を起こした。体は重かったが、痛みはどこにもなかった。右目にそっと触れる。

 そこにはもう、量子の光も温もりもなかった。鏡を借りて覗き込むと、映っていたのは、ただの、量子自身の右目だった。五年前、全部が始まる前と同じ目。ただ、視界の端にうっすらと桜色の影が、舞っているような気がするだけだった。

「外はどうなってるの」

「戻ったよ。何もかもな」

 灰原は、窓の外に目をやった。

「眠ってた患者連中が、次々に目を覚ましてる。量子汚染症、もうそう呼ぶやつもいないがな。カルテから病名が消えてるんだ。誰も不思議に思ってない。それでな」

 灰原は、少し言いにくそうに、頭を掻いた。

「九条の野郎のことなんだが。消えていってる。死んだ、とかじゃない。書類から名前が薄れて、研究所の登記から消えて、あいつを覚えてる人間が、日に日に減ってる。警備局長なんて、もう『九条? 誰だね、それは』だ。俺もな、正直あいつの顔が、もう思い出せねえ。九条の野郎だけじゃなくて、警備局長も消えてほしかったぜ」

 そう言って笑った。強がっているだけであることはわかった。声が震えていたからだ。

「そう」

「怖くねえのか」

「ううん」

 量子は、首を振った。

「それで、いいの。それが、あいつへの罰だから」

 灰原は何か言いかけて、やめた。代わりに、ずっと訊けずにいたことを、ようやく口にした。

「お前の姉さんは?」

 量子は答えられなかった。

 ただ、自分の右目に手を当てる。そこにはもう、鎖の熱も、姉の残り火もない。

「行ったの」

 量子は呟いた。

「あたしを、世界を、守るために」

 灰原は何も言わず、ただ黙って量子の肩を抱いた。らしくなくて量子は笑ってしまった。

 窓の外、桜の花びらが一枚、風に舞って病室へと入り込む。季節外れの桜だった。それは量子の唇に触れ、そして溶けるように消えた。

 昔、姉がくれたジュースの味と、同じ味がした。


 世界は、驚くほどの速さで日常に戻っていった。

 人々は「あの数日間」のことを、大規模な通信障害だったとか、集団的なパニックだったとか、思い思いの言葉で片付けて、忘れていった。観測されなくなった記憶は、静かに世界から退場してゆく。それでいいのだ、と量子は思う。覚えているべき者が、覚えていれば。

 特殊犯罪対策室は、解散が決まった。追うべきクォンタム犯罪そのものが、この世界から消えたからだ。あの辺鄙な庁舎の、みんなの部屋だったあの一室を、量子は最後にもう一度だけ訪れて、ソファに寝転がって、スナック菓子を一袋だけ空けて、出てきた。

 灰原は、刑事課に戻った。警察手帳をアルゴン博士に預けてしまったので「再発行の手続きが死ぬほど面倒だった」と怒っていた。約束通り、何度も手助けをしてくれていた所轄の警官を刑事課に推薦してやることにしたらしい。

 彼の左脳は、世界が再観測された朝、人間の脳に戻っていた。栞が、そう定義し直したのだ。壊されたものは、あるべき形に。カーボンナノチューブのウイッグは要らなくなり、冷却液の交換も、もう必要ない。ただし、消された記憶だけは戻らなかった。歪められたものは直せても、失われたものまでは還らない。それが、この世界の誠実さなのかもしれなかった。

「なんかよ、体が軽いんだ。生まれ変わったみたいでな」

 久しぶりに会った灰原は、そう言って笑った。タバコを咥えて、今度は本当に火をつけて、旨そうに煙を吐いた。もう、命取りにはならないから。

 鏡百合は、目覚めてすぐ病院を辞めたらしい。風の噂で聞いた。故郷に帰って、小さな診療所で働き始めたと。彼女は自分がなぜあの病院を離れられなかったのか、なぜいつも不安だったのか、その理由ごと忘れて。ただ、ある朝、憑き物が落ちたように体が軽くなったことだけを、覚えているという。

 それでいい。それが、あの人が返してもらった人生だ。


 街外れの小さな通りに、新しいビストロが開店した。

 看板はない。あるのは、ドアにかけられた手書きの黒板だけ。「本日のおすすめ:全部」という、ふざけた品書き。

 店を切り盛りするのは、派手な化粧の女ソムリエと、無口な少女のギャルソンだった。

 あの朝、サトーは腹の中が空っぽになった感覚で目を覚まし、隣に、二日酔いのような顔で眠りこけているリーを見つけたのだという。世界が定義し直されたとき、栞はサトーの腹の中に匿われていたデータを見つけ、あるべき場所へ、世界へ還したのだ。

「腹の中はどうだった、なんて訊かないでよね。乙女のプライバシーよ」

 リーは開口一番そう言って、量子の頭を小突いた。それから、少しだけ声を落として「ありがとう」と言った。何に対しての礼なのかは、言わなかった。訊かなかった。

 サトーは、今も食いしん坊だ。ただ、黒い花弁の代わりに、リーの作る賄いを、毎日、幸せそうに平らげている。

「食べても食べても、なくならないの」

 と、サトーは言う。

「だれにも、取り上げられないの」

 それを聞いたとき、量子は少しだけ泣きそうになったが、堪えて、代わりにサトーの皿から唐揚げを一個、奪ってやった。サトーは本気で怒った。


 その日、量子は店の向かいのカフェで、遅い昼を食べていた。

 ビストロの前に、業者のトラックが停まって、リーがワインの木箱を受け取っている。相変わらず、あんなヒールでよく重い物を持てるものだ。

 そのとき、通りの反対側から、見慣れた大柄な男が歩いてきた。

 灰原だった。非番なのだろう、着慣れないジャケット姿で、コンビニの袋を提げて歩いてくる。

 量子は、フォークを持つ手を止めた。

 二人の距離が縮まってゆく。

 リーが、木箱を抱えたまま顔を上げた。灰原が、足を止めた。

「よう。なんだ、また、店始めたのか」

「あら、刑事さん。おかげさまで繁盛してるわよ」

「お前も頑張ってるんだな」

「あんたも、ちゃんと食べてんの? ひどい顔してるわよ。コンビニばっかりじゃだめよ。うちの店で……いや、あんたの安月給じゃ無理か」

「余計なお世話だ」

 それだけだった。灰原は片手を挙げて、角を曲がって見えなくなった。振り返らなかった。リーも、見送らなかった。

 ただ、木箱を抱え直して店に入るその寸前、彼女が小さく呟いたのが、唇の動きでわかった。

 ——酒、ありがとうね。

 二人は今日、天気の話ほどの言葉しか交わさなかった。あの人が誰の夫で、誰の父になるはずだったか、灰原は知らない。これからも知らない。それでも「ちゃんと食べてんの」の一言に、あの人の五年間が全部入っていたことを、あたしは知っている。

 量子は、冷めかけたコーヒーを一口飲んで、窓の外の、誰もいなくなった通りを見た。

 季節外れの桜の花びらが一枚、通りをゆっくりと横切っていった。ビストロのドアの前で小さく一回転して、それから、風に乗って見えなくなった。

 世界で、あの立ち話の本当の意味を知っているのは、もう、あたしだけだ。

 いや——あたしと、世界中で見ている、あなただけだ。



了


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