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「どうだったね、量子君」
どうして良いかわからずに、モニタールームに座ったままでいると、九条博士がやってきた。随分時間が経っていたらしい。
「あの人はどうなったの」
「あの人?」
「あの……灰原って人」
「ああ、彼ね。彼は……」
九条博士は言葉を切った。さすがの彼も、不用意なことを言うのは避けようと思ったらしい。
「まあ、心配することはない。生きている」
灰原の脳の半分と左目が機能を失ったと聞いたのは、それからしばらく後のことだった。灰原は機械脳の移植とリハビリで、何年も病院から出られなかったと聞いた。彼が警察に復帰したのは五年後だった。そのとき量子は18歳になり、二人は特殊犯罪捜査の仲間となるが、まだ先の話だ。
「君が心配する必要はない。君の脳は特別だ」
九条博士が言う。本当か嘘か、量子には判断できなかった。彼の言うことをすべて信じられるほど純粋ではない。確かに彼は恩人ではあるが、信頼できる大人ではない。
「ただ、彼はもう他人の意識にアクセスすることができない。つまり、これからは君がメインパイロットだ」
九条博士が勢いよく量子の肩を叩く。その力の強さに、反論は許さないという言外の圧力を感じた。
「それって、どういうこと? 灰原さんはどうなったの?」
「君は先程の顛末を見ていたかね」
脳裏に灰原の様子が思い出される。青い顔で量子は頷く。
「彼は元々、観測脳ではなかったのだ。間違ったものに触れてしまったから意識を侵食されたのだ。まあ、悪いことにはならないよ。脳の半分が機械脳になるくらいだろう。むしろ、賢くなるはずだ。羨ましいね」
本当は羨ましいなんて思っていないくせに——脳の半分が機械になるなんて、想像できない。どう考えても良いことだと思えない。
「その、観測脳ってなんなのよ」
「我々の目に見える範囲では、古典物理学で説明できることが多い。しかし、よりミクロの世界を考えると、量子物理学に支配されている。普段我々が常識と考えているようなことは役に立たない。予想不可能なことばかりなのだ」
まるで学生に講義をするような口ぶりだ。
「世界のことをすべて把握することは、いかな天才の私としても不可能なのだよ。意識の世界はそういった量子論が適用される世界であって、適応できるものとできないものがいる。灰原君はできなかったんだな。まあ、安心したまえ。君はああはならないということだけ覚えておけば良いんだ」
「だったら、どうして灰原さんにやらせたの」
「私が強要したわけではない。彼がやると言ったんだ」
飄々とした顔で答える。
「だったら、なんで灰原さんがあんなことになったのよ」
「さあね。そんなこと、私にはどうだって良い。強いて言うなら、彼は正義の男だからね」
ヒッヒッヒと笑う。だが眼鏡の奥の目は笑っていないのを知っている。
「本当にあたしは大丈夫なんでしょうね」
「ああ。それは大丈夫。保証するよ。ただ……」
九条博士がメガネクイと押し上げる。
「君の脳には特殊な抗体があるが、決して深層まで潜るな」
かつてないほどの真剣な表情だった。
信用はできないが、今は彼に運命を委ねるしかない。九条博士だって、量子がいなくなったら困るだろう。利害関係が一致している間は、悪いことにはならないと信じるしかない。
量子が去ったあと、九条博士のメガネにコンソールルームのディスプレイが反射していた。量子にはああ言ったが、絶対に大丈夫という保証はできない。誰にも言っていないが、潜入には重大な代償がある。1回の潜入でランダムに記憶が消失するのだ。実は、彼女の記憶が薄れているのはシナプススキャンの訓練のせいでもある。そのことに、量子自身は気付いていない。気付いたら、彼女はどう思うだろうか。
わかったところで、その記憶も消してしまえば良い。九条博士はヒッヒッヒと笑う。
無意識に右腕にある逆五芒星のアザを撫でる。九条博士のクセだった。量子がこのアザを目にするたびに、その記憶だけを摘み取っていることは、誰も知らない。
訓練は、五年かけて量子を作り変えていった。
最初の関門は適性試験だった。「形式的なものだよ」と九条博士は言ったが、モニタールームにはあの日灰原の失敗を見物していた、いかめしい顔の男たちが並んでいた。
「警察というのは馬鹿にうるさくてね、君が特別である証拠を出せと言うんだ」
博士はそう言ってクツクツ笑ったが、量子の呼吸は寝台の上で早くも乱れた。脳裏に浮かぶのは、白目をむいて泡を吹く灰原の姿だ。警告音。歪む視界。
「大丈夫、君は観測脳だ。あの男とは違う。それに、お姉さんのことを考えろ。救うんだろう?」
スピーカー越しの声が、呪詛のように首筋へ流れ込む。それが呪いだと気付くのは、ずっと後のことだ。あのときの量子には、それだけが命綱だった。呼吸が戻り、プログラムされた意識の世界でマネキンの胸から黒い花を摘み取ると、ガラスの向こうで男たちが手を叩いた。しかし、目を覚ましたとき、褒めてくれる者は誰も残っていなかった。
「お疲れ様。体調はどう?」
いつも、神崎だけがいた。
訓練は続いた。他人の意識データを流し込まれるたび、首筋は大火傷のように灼け、冷却液が通る瞬間は氷柱を突き込まれたように凍えた。灼けて、凍えて、また灼ける。自分の体温がわからなくなる訓練だと量子は思った。
もっとわからないのは、量子汚染への対策訓練だった。量子汚染症の中核にはメンタル・ポルノと呼ばれる精神物質が関わっている——他人の快楽や絶望を、脳が「ごちそう」として貪ってしまう汚染だ。それを防ぐ術を身につけるため、シミュレーションはよりにもよって、黒百合町事件を再現した。あの夜に囚われたままの栞を救い出すには、あの夜を追体験できなければならない。理屈はわかる。だが体は言うことを聞かなかった。他のどの訓練でも成績優秀だった量子が、あの再現の中でだけ、毎回すくんで動けなくなった。
しかも、決まって父が出てくるのだ。九条博士がプログラムした覚えのない父が、毎回同じ言葉を叫ぶ。
「栞を、助けるな」
そこで量子はいつも、意識の世界から弾き出された。
失敗した日の夜は、決まって研究所の廊下のベンチにいた。隣にはいつの間にか神崎が座っていて、自販機の缶ココアをひとつ、黙って膝に置いてくれる。失敗の理由を訊かれたことは、五年間で一度もない。代わりに彼はどうでもいい話をした。学生時代に流行りかけて廃れた文通アプリの話。研究室の観葉植物に名前をつけている話。
「神崎さんって、昭和のおじさんみたい」
「ひどいな。これでも君と九条博士の間では最年少なんだよ」
「比較対象がジジイしかいないじゃん」
量子が笑うと、神崎は「君は勇気があるね」と言った。九条博士に文句を言ったときも、初めての訓練で泣いたときも、失敗して黙り込んだ夜も、彼はいつも同じ言葉を使った。安い言葉だ。安いのに、この研究所でその言葉を人間の声で言うのは彼だけだった。だから量子は、翌朝もう一度、装置に横になることができたのだ。
その五年の、いちばん入り口のこと——量子は初めて、生身の人間の意識に潜る試験を受けた。




