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メンタル・ポルノ 量子的食脳  作者: よねり
第1章「螺旋の夢」

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 事件の怪我の回復、ニューロンコネクタの適合を待って、訓練が開始された。このときはまだ、シナプススキャナは簡易的なもので、他人の意識を取り込むことはできなかった。だから、もっぱら九条博士の作った義人格プログラムを相手に、意識の世界への適応を目指した。

 意識の世界というのは、悪夢のようなものだ。どうせなら甘い夢のような仕様にしてほしかった。しかし、意識の世界は寒々しく——実際に寒い訳では無いが——空虚で、目眩はするし、色彩感覚の崩壊した不気味なものばかりだ。どうやら人間の精神とは、腐肉を貪る蛆虫が蠢く暗闇の底で、怨嗟の瘴気を紡ぎながら形作られているらしい。

 九条博士曰く、「人間の精神の奥底には、忌まわしき闇が蠢いている。あの粘稠(ねんちゅう)な闇こそが、我々の思考を紡ぐ糸車の原動力なのだ。人間の脳髄を満たす思考液は、腐敗した悪意で錬成されている。誰もが気付かぬふりをしているが、理性という薄氷の下では、禁忌の原料が黒い泡を立て続けているのだ」ということらしい。意味はよくわからなかった。

「実に惜しいよ。私も君のように観測脳の素質があればよかった」

 そう言って、九条博士はLSDのシートを舌の上に乗せる。踊るように体をクネクネ動かして、量子を見て笑う。彼いわく、量子が報告した意識世界を疑似体験するのにちょうどよいらしい。それが違法薬物であることは知っていたが、どうでもよかった。九条博士ならそれくらいするだろうし、今更恐れたりはしない。

 訓練は大学の施設内で行われた。本当は、警察施設の中にも研究所があるらしいが、そこでは本物のシナプススキャナを建造中であり、そのテスト被験者も用意されていると説明された。そのテスト被験者こそ灰原のことだったが、このときはまだ量子と灰原に面識はなかった。




 いよいよ、ただのデータではなく、人間の意識にアクセスする実験が始まった。量子汚染症患者が出たと聞いて、九条博士が真っ先に向かった。相手の素性は明かされなかったが、患者は大学病院から九条研究所へ移送された。無人タクシーで研究所へ向かう間、九条博士は舌なめずりをしながら興奮した様子で、これから始める実験の手順を説明した。それは、量子に向かってというよりも、自分に向かって言い聞かせているようだった。量子汚染症は発見されたばかりの病気だ。量子の姉の栞が一人目、今回の被験者でまだ二人目であり、彼にとっても数少ないチャンスなのだ。それも、研究所に完成したシナプススキャナのお披露目会も兼ねている。失敗するわけにはゆかない。

 研究所に到着すると、人だかりができていた。シナプススキャナが見えるコンソールルームには、いかめしい顔をした年配の男たちが顔を並べている。量子はこの中に並ぶのは嫌だなあと思った。

 初めて見るシナプススキャナは、MRI検査装置のようだった。その中に意識を読み取られる側が入る。意識を読み取る側、つまり灰原はその装置の横で、大きなヘルメット型の冷却装置をつけて寝かされていた。九条博士が入念に患者と灰原の様子をモニタリングする。シナプススキャナからでたケーブルは、コンソールを介して灰原のニューロンコネクタに接続された。量子よりも先にニューロンコネクタを取り付けていた灰原が、なにか九条博士と言葉をかわしているのが見えた。このとき、量子は初めて灰原を見た。まだ刑事課だった彼は、屈強な見た目をしており、どんな困難にも打ち勝てそうな強さを感じさせた。こんな意味不明な実験にさえ、彼は少しも不安そうな顔をしていなかった。刑事というのは流石だと思った。

 やがて実験が始まる。患者の意識を灰原の脳にダウンロードすると、灰原がうめいた。観客たちはざわついたが、うめき声が収まると、ざわつきも収まった。まるで圧倒的な視覚的インパクトを持つ映画を見ている観客のようだ。

 いよいよ、意識世界の構築が始まった。ダウンロードされた意識データが、灰原の神経回路に砂時計の砂のように流れ込む。億単位の電子パルスがシナプスを煌めき、虚構の世界を築き上げる。ディスプレイに流れる文字の帯は瞬き、人間には解読不能なデータの波が押し寄せた。人工知能が混沌を織り上げるように3Dデータにレンダリングしてゆく。それは、脳波の渦を具現化し、記憶の襞を掻き分けるような作業だ。正確に映し出されるまで少しタイムラグがあった。だから、見誤ってしまった。

 ディスプレイに簡易的な3D映像がレンダリングされると、観客たちから拍手が沸き起こった。九条博士は満足そうにそれを見て頷く。

 画面に映し出されたのは、ねずみ色のスウェットを着たスキンヘッドの大男。彼が透明な仕切りのある部屋で、白いマスクを着けた白衣の男と仕切り越しに向かい合っている。

「白マスク!」

 思わず量子は叫んでいた。慌てて口に手を当てたが、近くにいた大人が迷惑そうな顔を向ける。量子が顔を隠している間に、声が上がった。どうやら量子が見ていない間に展開が進んだらしい。見てみると、スキンヘッドの男の胸から黒い花が咲いていた。

 量子は観客たちを押しのけてディスプレイに張り付いた。あの男が、あたしから家族を——。

 意識に砂時計の幻影が映る。砂が逆流するたびに景色が変化する。記憶が書き換わっているようだ。灰原が砂時計に触れた。

 そのとき、大音量で警告音が流れた。

「どうした」

 観客たちがざわつく。警告音は耳障りで、聞いているだけで気が立ってくる。誰もが耳をふさぎながら大声を張り上げている。見ると九条博士がコンソールを見つめながら汗をかいていた。

「説明しろ、九条」

 警告音に合わせて灰原の様子も変化した。体が小刻みに震えだしたと思ったら、痙攣が大きくなり口から泡を吹いた。

「中止しろ」

 怒号にも似た声が飛び交う中、九条博士が「情報を持ち帰れ」と指示を出す声がスピーカーから漏れた。

「問題になるぞ。わかっているのか、九条」

 外では大騒ぎになっているが、意識世界では静かに場面が移ろっていた。中と外では時間の感覚が違うのだろうか。灰原が黒い花に触れようとした。その瞬間、画面が静止して、画像が乱れ始めた。タイムラグを考えれば、意識世界で黒い花に触れたときに彼の意識がなにかに侵食されたのだろう。

 画面が完全にブラック・アウトすると、警告音が鳴り止んだ。冷静さを取り戻した観客たちが、次々に部屋を出て九条博士の元へ急いだ。

 寝台の上では灰原が泡を吹いたままだったが、痙攣は止まっていた。

「御覧ください。彼はやり遂げてくれました」

 九条博士の声がスピーカーから聞こえる。九条博士は、自身の下へやってきた観客たちへ向かって両手を広げた。こちらからは見えないが、何かがコンソールのディスプレイに映し出されているようだった。それは何かポジティブな衝撃であったらしく、九条博士を責めようとする空気を一気にかき消した。むしろ拍手さえするものがいた。

 彼らにとって、よほど有益な情報を得たのか、満足げな顔で彼らは九条博士と握手をしたり背中を叩いたりした。九条博士は満足そうに頷くと、彼らを外へ連れて出ていった。ぼんやりしているうちに、量子は研究所に一人残されてしまった。

 見ると、灰原はまだ寝台の上で白目をむいたままだった。彼はこのまま放置されて死んでしまうのだろうか。なんだか嫌な予感がした。そのうち、神崎が白衣を着た人たちを何人も連れてやってきて、灰原をストレッチャーに乗せて連れて行った。

 もしかしたら、自分もああなってしまうのではないか。

 初めて恐ろしいと感じた。


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