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灰原が先に案内され、量子はたっぷりと待たされてから検査室へ案内された。
「待たせたねぇ」
少しも悪びれる風もなく、九条博士が言った。量子たちは言われてすぐこちらへ来たのに、九条博士がのんびりしていたから待たされたに違いない。どうせ九条博士が検査するなら、研究所ですればいいのに。
九条博士は白衣を腕まくりしていた。肘まで濡れていたから、何かの液体に触れていたのだろう。右腕の逆五芒星のあざが見えたが、量子はそれを見るたびに無意識に目をそらしてしまう。そうして、そのあざを見たことを忘れる。
「本当だよ。酷い目にあったんだから」
量子は待合室であったことをベラベラと喋った。
検査室にはすでに灰原が検査用の椅子に座らされており、頭に冷却液のチューブが繋がれていた。もちろん、ウイッグは取り払われており、グロテスクな機械の脳が露出していた。機械脳を留めるボルトに「010」と刻まれている。生身の方は見えないが、機械の脳は生身と似た形で作られており、気分が悪くなるには充分だった。右目は閉じており、機械の左目は開いていた。ピカピカ光っている。冷却液交換時はインジケータの代わりになるらしい。眩しくないのだろうか。
量子の首筋のニューロンコネクタにケーブルが繋がれる。接続された瞬間、氷を当てられたみたいにヒヤッとした。
「では、始めようか」
九条博士の声とともに意識が急速に遠のいてゆく。雨が地表に落ちるように、急速に意識が寝台に吸い寄せられてゆく。
廃墟のピアノが見える。ピアノの前に座っているのは幼い日の量子である。綺麗なドレスを着て、鍵盤の上に指を踊らせている。夢はいつもノイズ混じりで、まるで雑に編集されたビデオテープのようだ。
時間が巻き戻るみたいに、廃墟だった建物が家になってゆく。量子が両親と暮らした家だ。検査のとき、いつもこの夢を見る。量子の誕生日の夢だった。おめかしをしてピアノを弾いて、そのあと、姉と両親とケーキを食べる。そのシーンの合間に、なぜか泣いている量子と荒れた部屋、存在が霞んで揺らぐ姉の姿が差し込まれる。ピアノのシーンとは何の関係もない。どう見てもただの夢のはずなのに、妙にリアリティがあった。
急に場面が変わる。このあとの展開も知っている。血の染みついたリビングで、逆さに転がるピアノの蓋。鍵盤の隙間に挟まった緑色の髪。母の形見の髪飾りが、量子の脳裏に灼きつく。
父の絶叫。その胸に、黒い花が咲く。その花弁の散るのと姉の悲鳴とが混じりあう。
振り返ると頭蓋に衝撃があった。
薄れゆく識閾の底に、白いマスクがひとつ。腐った眼玉のように覗いていた。
五年前
九条博士がカルテを弄ぶ。偶然運び込まれた病院で、九条博士に出会った。彼は量子のことを見て驚いたようだった。どうして彼が驚いたのか、そのときはわからなかった。
その病院で、量子は手術を受けたらしい。どんな事件に巻き込まれたかも、このときはまだわかっていなかった。体はどこも痛んだりはしなかった。
手術後の病室で、九条博士から家族がどうなったのかを聞いた。病室は眩しいほどのLED照明だったはずなのに薄暗く感じた。九条博士の声は不快で、何を言っているのかわからなかった。
「家族を殺した連中を捜すなら、私についてくるしかない」
急に声がクリアに聞こえた。まるで今まで遠い異国の言葉を聞いていて、突然母国語が聞こえたみたいに。
「探せるの?」
「ああ。それが君の願いならねえ。約束するよ」
「探して、見つけたら?」
「君の好きにするといい」
「本当に?」
九条博士が頷く。
「その代わり、条件がある」
「やる」
「おいおい、まだ何も言っていないのに」
「どんな条件だって飲むわ。魂だって差し出す」
「魂? 君は面白いね」
九条博士がヒッヒッヒと笑う。変な笑い方をする大人だと思った。
「よろしい。では協力しよう。そのために、早く怪我を治すんだな」
九条博士が部屋から出ていくと、急に部屋の中が明るくなったように感じた。
それから数日は泥のように眠った。頭の包帯が取れる頃、九条博士が再びやってきた。
九条博士の条件というのは、観測者になるということだった。観測者が何なのか、説明を何度聞いても理解できなかったが、そんなことはどうだっていい。
「説明はもういい。なにかするなら早くして」
そう答えたことだけ覚えている。
甲高い笑い声と共に注射器が閃く。冷たい液体が血管を伝い、意識が焼かれそうな感覚。
量子はグッと目を閉じた。首筋を熱い感触。強い痛みに意識が遠のきそうだったが、歯を食いしばって耐えた。家族のことを想えば、痛みなんて怖くない。本当に怖いのは、復讐の機会を失うことだ。
ニューロンコネクタを受け入れる手術は、あっけなく終わった。こんなもの、心の痛みに比べればなんてことなかった。ニューロンコネクタ自体が脈打つような感じがした。
「体の方はもう大丈夫だね?」
量子の方を見もせずに九条博士が尋ねる。彼にとって、実物を見るよりも、カルテを見たほうが定量的に判断できる。
量子は軽く首を回すと、頷いた。本当は、まだ少し首筋が疼く。なにせ、今ニューロンコネクタを取り付けたばかりなのだ。だが、彼が言っているのは事件の後遺症がないかということだろう。13歳の量子でもそのことくらいわかる。
「君の脳波パターンは観測者候補に適合している。これから君は特別捜査官となるのだ」
「なにそれ。事件の犯人と関係があるの?」
「さあ、まだわからん」
「あたし、関係ないことはやらないから」
九条博士を睨みつけ、量子は部屋を飛び出した。助手の神崎が慌てて量子を追いかける。彼は九条博士と違い、博士号を取ったばかりの青年だった。とはいえ、死体解剖資格こそないが、片手間に医師免許を取得して臨床医にならず研究員になったエリートである。若く柔らかい物腰で、彼がいなければ、量子は我慢できずに九条博士の下から去っていただろう。
「大丈夫? 深呼吸して」
量子は誰もいない廊下のベンチで、過呼吸になるくらい泣いていた。
「君は勇気があるね。九条博士にあんなこと言えるなんて。僕は怖くて君みたいに文句を言ったことがない」
大学病院内にある処置室の外で、冷たいベンチに横並びに座った。まだ首筋が不快に疼く。神崎がパックのジュースを量子に手渡した。量子は黙ってそれを受け取ってストローを挿す。
もう、部屋を飛び出しても、本当はどこにもいけないことはわかっていた。
もう、どこにも帰る場所などなかった。
もう、迎えてくれる家族はいなかった。
急に涙が溢れてきた。これまで、憎悪で誤魔化して現実から目を背けてきたが、一瞬でも我に返ってしまったら駄目だった。
涙が溢れて止まらなかった。子供らしく大声を上げて泣いた。手に持っていたパックのジュースはまだ一口も飲んでいないのに、握りつぶして服を汚した。神崎は泣いている小さい子供を相手に、どうしたら良いのかわからずオロオロしていた。九条博士は部屋から一度だけ顔をのぞかせたが、深く眉間にシワを寄せて乱暴に扉を締めた。
涙が枯れるまで一晩かかった。神崎は一晩中隣りにいてくれた。




