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第4章「鏡の向こう側」
空が、割れていた。雲の隙間から降り注ぐのは雨ではない。黒い花弁——いや、花弁の形をした数式だ。シュレディンガー方程式の断片が雪のように舞い、触れたものを確率の霧へと変えてゆく。アスファルトが、ビルが、悲鳴を上げる人々が、輪郭を失い、揺らめく幽霊のように溶けていく。
「くそっ、どうなってる」
車を運転する灰原がフロントガラスから見える地獄に声を荒げる。
「ちょっと、もっと丁寧に運転しなさいよ」
リーが運転席の背中を蹴った。
「うるさいな、だったら降りればいいだろ。どうしてついてくるんだよ」
「あんた馬鹿じゃないの。この車はアルゴン博士が貸してくれたもんでしょ。つまり私のもんなのよ。あんたはただの運転手」
「それはおかしいだろ」
量子化の影響を受けないように、Memory-Xを外装に応用し改造した車だった。それにより、車内は量子遮断領域となっている。アルゴン博士は後部座席でケラケラと笑っていた。
「急に出てきて仲良しになりましたって、俺にもわかるようにちゃんと説明してくれよ」
助手席の量子を見る。彼女は研究所で目覚めてから様子がおかしかった。アルゴン博士から駆け足で説明を受けたが、よくわからない。わかったのは、アルゴン博士は悪者ではなくて、九条博士が悪者であるということだけだ。
「あんたの頭の中にあった爆弾、そこの派手なお姉さんが取り除いてくれたのよ。感謝したほうが良いよ」
量子が、久しぶりに口を開いた。
「は?」
灰原が声を上げる。
「爆弾ってなんだ。そんな物騒なものが俺の頭に入ってたのか?」
リーのソムリエナイフは、灰原の機械脳に書き込まれていた、九条博士への絶対服従のコードを書き換えていた。そうしなければ、今頃、灰原によって量子たちは全滅させられていたことだろう。意識世界ならまだしも、現実世界の暴力においては灰原がずば抜けて強い。
「ふふ、美味しそう」
サトーが灰原の左脳を見つめながら言った。灰原は彼女らの気味が悪い結束感についていけなかった。
「それで、これはなんだって?」
「これは、九条博士が観測者として世界を量子化し始めたということです」
やはり何度聞いてもわからない。
「観測者ってお前じゃなかったっけ?」
灰原がバックミラー越しに、助手席の量子を横目で窺った。彼女はひどく青ざめた顔で、うつむいたまま右目元を押さえている。その右目には、急ごしらえの分厚いガーゼの眼帯が痛々しく貼り付けられていた。血と、黒い染みのようなものが滲んでいる。以前の威勢の良かった少女とはまるで違う、その沈み込んだ横顔に、記憶を失っている灰原でさえも、軽口を叩くのをためらうほどの重苦しい喪失感が漂っていた。
「で、あんたは結局何者なんだっけ?」
「アルゴン博士です」
灰原は深い溜息をついた。
バイパスは車がスタックしたまま道を塞いでいた。
「通れないな」
速度を落とし、灰原が呟いた。
「突っ込みましょう」
アルゴン博士が背後から明るく言う。
「そうよ、みんな意識を失ってるんだから、わからないわ。行っけー」
リーも酒瓶を振り回して大騒ぎする。
「馬鹿か。俺は刑事だぞ。誰も見ていないとしても、そんなことできるか」
灰原はUターンして下道に降りた。誰もいなくて助かった。
「俺達はどこへ向かっているんだ?」
灰原はアルゴン博士の指示通り走っているが、目的地を知らなかった。
「旧市立病院です」
「はあ? あそこは閉鎖されたはずだぞ。そうでなくても、あんなところになんの用があるんだよ」
「あそこは……」
アルゴン博士が言いかけたとき、眼の前に人が飛び出してきた。灰原は慌ててブレーキを踏む。リーが運転席に頭をぶつけて激怒した。間一髪のところで轢かずに済んだ。
灰原の心臓は飛び出しそうなくらい早鐘を打っていた。
「おいおい危ないな」
顔を上げて息を呑んだ。飛び出してきた人は、頭が破裂して、そこから黒い花が咲いていたからだ。それは顔がなくても、こちらをじっと見つめていることがわかる。
「あれって……」
量子が振り返る。アルゴン博士が頷いた。意識世界でのことを思い出す。現実世界であれに囲まれたらひとたまりもない。
「まずいね」
リーが低い声で言い、灰原のシートベルトを外すと、運転席を倒し、無理やり後ろに引きずった。その膂力に灰原は驚いた。
空いた運転席にリーが滑り込む。
「おいおいおい、何を……」
灰原の嫌な予感は的中した。リーがアクセルを全開で踏んで跳ね飛ばしたのだ。それはぶつかってボンネットに乗った。距離が短かったので跳ね飛ばされなかったのだ。それがフロントガラスに手を伸ばす。
「舌噛まないように口を閉じてな」
言うが早いか、リーはプロレーサー顔負けの鮮やかな手つきでシフトレバーを叩き込み、サイドブレーキを力任せに引いた。タイヤが悲鳴を上げ、車体が強烈な遠心力でスピンターンをキメる。ボンネットにしがみついていた黒い花の怪物は、あっけなく遠心力で振り落とされ、アスファルトの上を無様に転がっていった。
リーはヒールの踵でアクセルを床まで踏み抜く。エンジンが咆哮を上げ、車はまるで狂った獣のように、限界の速度で旧市立病院へと弾き出された。




