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量子は九条研究所の冷たいスキャナーのベッドで跳ね起きた。首筋のコネクタから冷却液の蒸気が上がっている。彼女は右目を両手で激しく押さえながら絶叫した。指の隙間から、大量の血と、Memory-Xの混ざった赤黒い液体が溢れ出す。
そこへ、激しい足音と共にスキャンルームの扉が蹴破られる。アルゴン博士、リー、サトーの三人が車を飛ばして駆けつけてきたのだ。
「無事ですか、量子さん」
駆けつけたアルゴン博士は、痛みにのたうち回る量子の手を無理やりどかして息を呑んだ。量子の右目は、眼球そのものが物理的にえぐり取られたわけではない。しかし、白目も黒目も黒い花弁のタトゥーのように染め上げられ、完全に光を失っていた。
「右目が……右目が見えない! あたしの目が!」
物理的な視力だけでなく、量子空間を見る観測者としての力が完全に機能停止していた。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん、助けて」
量子は天井を見上げたが、当然そこに栞の姿はなかった。
アルゴン博士が目に手を当てると、痛みはすっと消えた。
「ただの一時しのぎです。治す方法を探しましょう」
隣のベッドで、灰原が激しく咳き込みながら目を覚ました。
「灰原さん……」
生きていた灰原に、量子は思わず抱きついた。驚いた灰原が突き放そうとしたが、思ったよりも力が強くて突き放せなかった。
「おい、どうした。その顔。誰かにやられたのか?」
顔を上げてアルゴン博士たちを睨みつける。
「違うの……この人たちは……味方」
灰原が、息を切らすリーを警戒するように見据える。
「おい……お前ら、レストランの連中だろう? なぜここにいる」
灰原の瞳には、リーの記憶を覗いた衝撃も、先ほどまでの死線の記憶も、一切残っていなかった。取り戻しかけていたものごと、削ぎ落とされたのだ。それが、九条博士の呪いから逃れるための、ソムリエナイフの副作用だった。
リーの肩が一瞬だけビクッと震え、厚化粧の下の瞳が揺れる。しかし彼女は、いつもの傍若無人な態度を顔面に貼り付けた。
「フン。なんだ、せっかく助けに来てやったのに、その間抜け面。私だってあんたのことなんて知らないけど、命の恩人には変わりないのよ」
軽口を叩きながらそっぽを向くリーの背中を、量子はただ痛切な思いで見つめるしかなかった。
「命の恩人? 何いってんだこいつ。それで、何があったのか説明してくれ。変な死体を確認しにアパートに行ったところまでは覚えているんだが」
「それより、九条博士は?」
量子が叫ぶ。
「九条博士? モニタリングルームにいるだろ?」
灰原がモニタリングルームを見るが、そこには誰もいなかった。
「あれ、どこ行ったんだろう」
「馬鹿、逮捕するのよ」
「はあ? 逮捕? 何言ってんだ」
先程までのことを、灰原はすっかり忘れている。説明するのももどかしい。
「ああ、もういいから探して」
量子の剣幕に、灰原は驚いて九条博士を探しに行った。もちろん量子も研究所を探すが、九条博士の姿はどこにもない。いつも彼が座っていたコンソールデスクはもぬけの殻だった。
全員が揃うと、メインモニターが勝手に起動し、黒いノイズと共に九条博士の姿が映し出された。
「九条博士……」
モニターに映し出された九条博士は、すでに人ならざる姿へと進化しつつあった。皮膚の下で黒い菌糸が脈打つ中、彼の顔の右半分——その「右目」だけが、量子の瞳と同じ色に発光し、失われたはずの美しいシュレディンガー方程式を宿して輝いている。
『ヒッヒッヒ……見事な生還だ、ゴミども。そして、極上の味わいだったよ、量子君』
モニターの中の九条博士が、光る自身の右目を指先でトントンと叩く。
『アパートで君の右目をチューニングした甲斐があった。五年間かけて熟成させた君の観測者としての特権は、たった今、私へとインストールされた。これでもう、私を止められる観測者はこの世界に存在しない』
彼の皮膚の下で黒い菌糸が脈打ち、彼自身が観測者を超えた何かへ進化しつつある。
『私はここを出る。この三次元という窮屈な牢獄を捨て、全人類の脳髄を黒い花で満たす準備が整ったのだよ。君たちの足掻きすらも、世界を書き換える良質なデータとなった。さあ、始めよう。世界を私の思考へと統合する、美しき狂宴を!』
「一体、なんなの……」
量子たちはスキャンルームから外へ出た。
「ねえ、見て」
リーが言った。建物の窓の外——空を、おびただしい数の黒い花弁が雪のように舞い落ちていくのが見える。
世界が、九条博士の量子汚染に飲み込まれようとしていた。




