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記憶から戻ると、量子はまだ床に這いつくばったままだった。横にはアルゴン博士——いや、神崎が佇んでいる。
「神崎さん」
量子が呼びかけると、彼は静かに首を振る。
「神崎はもうこの世にはいません。今の私はアルゴン博士です」
「でも……」
量子が涙ながらにアルゴン博士の仮面に触れようとした瞬間だった。破裂音とともに、客の一人が立ち上がった。頭が破裂し、中から黒い花が覗いている。
「何?」
考えるよりも早く、他の客も次々と頭が破裂してゆく。
「あっ」
アルゴン博士の体が、ブロックノイズを帯び、歪んでゆく。
「ヒッヒッヒ」
客たちが一斉にこちらを見て笑う。その笑い方は——。
「九条博士……。見つかったか」
「小癪な手を考えたね、神崎くぅん。なんだかチョロチョロしているのは知っていたけれど、邪魔をするなら消えてもらうよ」
客の一人がナイフとフォークを手に襲ってきた。
アルゴン博士が手近にいる客の一人にメニューを書き込む。同じようにナイフとフォークを持って猛然と向かっていったが、加勢に来た他の客たちに取り囲まれて全身の骨を折られ肉塊となった。
「この隙に逃げなさい。リー。ナイフを……」
言っている最中にアルゴン博士が消滅した。量子たちが悲鳴を上げる。
「神崎さん!」
「大丈夫。意識から追い出されただけ。現実に戻ればいるわ」
リーが量子の腕をぐいと引っ張った。
「あんたも……」
リーが灰原の腕も引っ張って立たせようとしたとき、灰原の機械脳も破裂して黒い花が咲いた。
「まさか……」
「誰がその機械脳を作ったと思っている?」
灰原の口から九条博士の声が吐き出される。
「うそ……灰原さんも」
——そういうことか。あの男に端子なんかいらない。誰かの脳の中に、住むのだ。
「俺はぁ、刑事だぁ」
灰原がゆらりと立ち上がる。彼の頭から上がる異臭の湯気が限界を超え、彼自身が完全に量子汚染に呑まれようとしていた。
「灰原さん! しっかりして!」
量子が叫ぶが届かない。
その時、クァンタム・リーが舌打ちをして前に出た。彼女の手には、神崎から託されたソムリエナイフが握られていた。
「ちょっと! 何する気?」
「あんたは下がってなさいよ、お嬢ちゃん」
リーはソムリエナイフの刃を展開した。刃の表面に、微細なシュレディンガー方程式が明滅している。それは本来、九条博士のネットワーク中枢に突き立てるための、たった一度きりの切り札だった。
リーは暴れる灰原の胸ぐらを掴み、その機能停止寸前の機械脳の接続ポートへ、躊躇いなくソムリエナイフを突き立てた。
「悪いね、アルゴン博士。あんたの切り札、ちょっと無駄遣いさせてもらうわ」
リーは虚空に消えた神崎に謝るように呟くと、コードによって変形してゆく灰原の頬をそっと撫でた。
「さよなら。今度こそ本当に」
ナイフから灰原の脳髄へ、浄化のコードが濁流のように流れ込む。灰原の絶叫と共に、彼の体が空間ごと様々な形に捻じ曲がり、折りたたまれるように縮小していく。そして、唐突に電源を切られたブラウン管テレビのように、一瞬で虚空へ掻き消えた。
「え……?」
アルゴン博士の時のようなブロックノイズとは全く違う、完全な削除。灰原が本当に死んでしまったのではないかという不安が、量子の胸を冷たく締め付けた。
「ねえ……」
量子はリーに話しかけようとしたが、彼女の表情を見て口をつぐんだ。灰原がいた空間を見つめるリーの派手な化粧が、涙で少しだけ崩れていた。
これで事態が良くなったわけではなかった。むしろ少しも好転していない。客たちはゾンビのような緩慢な動きで量子たちに近づいてきていた。
「サトー」
リーが言うと、サトーが量子たちの前に立った。
「下がるわよ」
リーが量子の腕を掴んでサトーから離れた。
客たちはサトーに群がり、身体に噛み付いたり、皮膚を引き裂いた。しかし、サトーは自分の体から流れる血を見てケラケラと笑った。
「その程度の痛みじゃ、ちっとも美味しくないよ」
サトーが躊躇いなく自身の傷口に深々と指を突っ込んだ。内側の神経回路を直接引きちぎる嫌な音が響く。彼女が感じたであろう致死量の激痛が、強力な脳波のノイズとなって空間全体に耳障りなハウリングを引き起こした。その結果、空間そのものに巨大な亀裂が走り、襲いかかってきた客たちの動きが、バグを起こした映像のようにカクカクと停止する。
サトーはスタックした客たちの頭蓋に手を突っ込み、そこに咲いた黒い花をむしり取って次々と口へ放り込んだ。「美味しい……」と、血まみれの唇で恍惚と笑う彼女の姿は、恐ろしくも美しかった。
「小娘ども……思い出したぞ。私が廃棄した実験体たち」
九条博士の声が空間に響く。遠巻きに見ていた残った客たちが、共食いを初めた。客が他の客の黒い花を食べ、さらにその客の花を別の客が食べ——そうするごとに、彼らは一つの大きな肉塊となってゆく。やがてそれは瞬く間に、天井まで届くほど巨大な九条博士の顔へと変貌した。
「私ノ観測カラ、逃レラレルカネェ!」
巨大な腕が振り下ろされると、サトーの顔面が潰され、リーも量子も壁際まで吹き飛ばされた。物理的な質量を持った絶望。もう抗う手段はない。量子が死を覚悟し、目を閉じたその瞬間。
「量子、こっち」
どこからか声が聞こえた。
「お姉ちゃん?」
懐かしい声だ。記憶の中でしっかりと思い出した。姉の栞の声だ。
声のした方を見ると、天井から吊り下がった栞が、血を流す指先で逆五芒星を描いていた。
「また私の邪魔をする気か。逃さんよ」
九条博士が腕を振り上げる。その瞬間、逆五芒星がシュレディンガー方程式の光を放ち、エレベーターの床のように抜け落ちた。量子とリーとサトーがそこへ飛び込む。三人は光に包まれた。
よかった——安心した瞬間、右目の奥で『アパートの殺人現場で九条博士と目を合わせた時の記憶』がフラッシュバックする。
「育チ切ッタ果実ヲ、収穫スルヨ」
九条博士の笑い声と共に、巨大な肉塊となった九条博士の目から、漆黒のレーザーのような数式の束が射出される。それは寸分の狂いもなく、量子の右目に吸い込まれるように深々と突き刺さった。
量子の悲鳴が響く。アパートであの祭壇を観測させたのは、彼女の右目のポートを開き、いつでもハッキングできるようにするための九条博士の罠だったのだ。数式の束を通して、量子の脳内から光り輝くデータが吸い上げられ、量子は激痛と共に現実の闇へと落ちてゆく。




