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肺を切り裂くような絶叫と共に、量子は現実のレストランの床へ叩きつけられた。
復讐する相手など、最初からいなかった。
白マスクの悪魔でも、狂った科学者でもない。愛する両親を肉塊に変え、大好きな姉を永遠の地獄へ磔にしたのは、他ならぬ自分自身だったのだ。
胃袋が激しく痙攣し、量子は磨き上げられた床に這いつくばって黄色い胃液をぶちまけた。涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き叫ぶ量子を、アルゴン博士は静かな眼差しで見下ろしている。
「これが、私があなたに教えたかった『真実』です」
彼がアルゴン博士という怪物の皮を被り、リーやサトーと共に量子をここまで追い詰めた理由。それは、九条博士が作った『偽りの復讐心』から量子を解放し、自らの意思で九条博士を止め、姉を地獄から救い出させるためだった。
「これは真実なの?」
震える声で量子が尋ねる。アルゴン博士はゆっくりと深く頷いた。
「真実です。九条博士はあなたの記憶を消し、都合の良いように操った。そして、あなた達を使って作ったニューロンコネクタの技術。それを応用すれば誰でも他人の記憶をダウンロードし、意識の中に入ることができるのです。ニューロンコネクタの本当の役目は、観測者のコントロールなのです。今まで、あなたは彼の都合の良いように記憶を書き換えられていたのですよ。それもまた、ニューロンコネクタの技術。むしろそれは、あなたが余計な真実を持ち帰らないように埋め込まれた、思考のリミッターであり、奴隷の首輪なのです」
その言葉を聞いた瞬間、量子は狂ったように自らの首筋をかきむしった。
「嫌だ、嫌だ、外して! こんなもの!」
皮膚が破れ、血が滲んでも爪を立て続ける。皮膚と同化した銀色の端子を、肉ごと抉り出そうとする痛ましい自傷行為だった。
「無駄ですよ。現実世界でないここでそれをえぐり出したとしても」
ピタリと手を止め、量子は力なく床にへばりついた。
量子の眼の前に、アルゴン博士が小さな皿を置く。その皿には、金平糖が一粒載っていた。ただの金平糖ではない。脳内麻薬物質を固形化した金平糖である。
見覚えがある、と思った。どこで——と手を伸ばしかけて、記憶は指の形に崩れた。乾いた砂の感触だけが、掌に残った。
「これを作るためだけに、私はずいぶん多くの人間を犠牲にした。その点においては、私も九条博士と同じ、ただの狂った怪物です。すべて終わったら地獄に落ちるでしょう」
アルゴン博士のペストマスクの奥から、絞り出すような、深く哀しい声が響いた。彼は手袋越しに虹色の金平糖を一つ摘み上げると、床に崩れ落ちている量子の口元へ、まるで聖体を分け与えるようにそっと運んだ。
「これを食べれば、すべてが繋がります」
差し出す手が、ほんのわずかに震えていた。二度目だからだ、とは言わなかった。
アルゴン博士に促され、量子は涙ながらに金平糖を噛み砕いた。
量子の意識の中に広がったのは、恐ろしい恐怖の記憶ではなく、優しい記憶だった。
「私が化け物になってでも、君と栞くんの魂は必ず救う。だから……どうか君はその気高い魂を失わないでいてくれ」
懐かしい声が聞こえた。
目を開けると見覚えのある場所だった。九条研究室だ。量子が五年間通った場所だ。
眼の前には先程よりも大きくなった量子、今の量子と同じ成長した自分がいた。
神崎の記憶だ。眠っている量子の頭を優しく撫でていた。
「これから、私は昏睡を偽装するために、致死量に近いMemory-Xを静脈注射する」
原稿を朗読しているようだった。
「もし、私の計画が成功したならば、この記憶を君が見ているだろう。だから、ちょっとしたビデオレターのようなものだ」
神崎がふふと笑った。
「イマドキの子はビデオレターなんて知らないか。いつだったか、君に昭和のおじさんみたいと言われたね。あれは結構、傷ついたんだよ」
量子が寝息を立て、ピクリと動く。
これは、神崎が量子汚染症を発症する前夜の記憶だ。そうして、発症した彼の意識をダウンロードしたのが、量子の最初の実戦での意識のダウンロードだった。あの、腐ったカーテンの洋館。
「九条博士が君を次の実験体として本格的に利用し始めた。もう時間がない。君を救うためにはこうするしかないんだ。でも、君の最初の相手になれて嬉しいよ。きっと、九条博士は私の意図に気付いているだろう。だから気楽にやってくれ。と言っても、もう終わっているだろうけど」
手にはMemory-Xが充填された注射器。二の腕はゴムチューブでキツく縛っている。
「九条博士を止められなかったのは私の責任だ。だから、君のことを助けに行くよ」
神崎は深く息を吸い込むと、躊躇いなく太い注射針を自身の静脈へ突き刺した。 シャフトを押し込む。その瞬間、灼熱の鉛を血管に流し込まれたような絶絶たる激痛が全身を駆け巡った。 意識を共有している量子にも、神経が焼き切れるような苦痛が直接叩きつけられる。肉体があれば、悲鳴を上げて床を転げ回っていただろう。しかし、視界の中の神崎の腕は微かに震えながらも、決して止まることはなかった。自らの自我を粉々に砕く劇薬を、彼は量子を守るためだけに、ただ静かに致死量まで押し込み続けたのだ。
すべて血管に注入し終わると、ゴムチューブを緩める。全身にMemory-Xが流れ出し、意識が加速してゆくのを感じた。もう痛みはなくなっていた。それどころか、何も感じない。
部屋の天井に逆さ吊りの女が見える。
「あなたも、こちら側に来てしまったのね」
「ええ」
「ごめんなさい。私のせいで」
「君は何も悪くない。元はといえば我々のせいです。我々の手で決着をつけねばならないのです」
「これからどうするの?」
「九条博士を止めます。それに、あの子の味方でいないと」
「ありがとう」
量子化した神崎の意識は、情報の海を泳ぎ、旧市立病院の暗い地下病室へと到達した。そこにあったのは、九条博士の実験によって意識を完全に破壊され、二度と目覚めることのない空っぽの入院患者であり、失敗作としてチューブに繋がれたまま生かされているだけの、名もなき肉体だった。
神崎は量子を守るため、その忌まわしい由来の素体をハッキングし、自らの意識をダウンロードした。相手に自我がないのは好都合だった。無実の人間の魂を殺し、意識を競合させることだけは避けたかったからだ。
現実の地下病室。名もなき患者の肉体が、神崎の意識を宿して激しくむせ返り、他人の目を見開いた。喉の渇き、点滴の冷たさ。確かな物理的感覚に神崎は歯を食いしばる。このままでは、定期検診に来る九条博士に、空っぽの素体に別の意識が宿っていると感づかれてしまう。元の顔を、この素体の生体データを、完全に隠滅しなければならない。
神崎は震える体で起き上がると、廃棄物置き場から不気味なペストマスクを拾い上げた。そして、実験用の薬品を自らの新しい顔面に容赦なく浴びせた。
肉が焼け焦げ、激痛が脳髄を破壊しようとする中、神崎は溶けかけた顔面にペストマスクを強く押し当てた。素体の生体組織とマスクの革がドロドロに溶け合い、物理的に癒着していく。
このとき、人間の顔を捨て、二度と元の神崎には戻れない怪物「アルゴン博士」が、現実の闇の中で産声を上げたのだ。
それは、神崎が肉体と人生を完全に捨てる瞬間の、血を吐くような決意の記憶だった。




