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メンタル・ポルノ 量子的食脳  作者: よねり
第3章「逆転の連鎖」

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「……不味かったでしょ? 私の悲しみのヴィンテージ。でもね、アルゴン博士だけは、これを最高級だって言ってくれたのよ」

 記憶から戻ってくると、リーがテーブルに肘をついて量子を見上げていた。彼女のことは嫌いだったが、今は憎めない気持ちになっていた。

 向かいの席の灰原が、幽鬼のような目でリーを見つめている。その瞳には何の感情も、過去の面影も残っていなかった。知らない女を見つめる目だ。

「俺は……君のことを、知っているのか?」

 かすれた灰原の問いに、リーは分厚い化粧の下で一瞬だけ唇を噛みしめ、そして、いつもの下品で大げさな笑みを貼り付けた。

「バカ言わないで。私の名前はクァンタム・リー。あんたの知っている女なんて、もうこの世のどこにもいないわよ」

 そう言い捨てて背を向けるリーの背中は、いつもよりひどく小さく見えた。その後姿を灰原は、悲しみにも、苦悩にも、後悔にも見える表情で見送った。

 量子はふたつ疑問に思ったことがあった。灰原はニューロンコネクタの事故のあと五年間、病院に入院していたはずだ。いや、そう聞かされていただけで、実際は九条博士の傀儡として使われていたのかも知れない。あの記憶の中の彼は、九条博士の隣に立っていたのだから。

 もうひとつの疑問は、彼女たちの記憶である。意識世界の記憶だ。灰原がいるのはわかる。彼はニューロンコネクタの適合者だ。しかしなぜ、九条博士や神崎が意識の世界に存在することが出来たのだろうか。彼らはニューロンコネクタを持っていないはずなのに。

「その疑問は、最後の一皿でわかるかもしれませんよ」

 テーブルの横にアルゴン博士が現れた。

「アルゴン博士……もしかしてあなたは」

 アルゴン博士が量子に口元に人差し指を載せた。

「さあ、召し上がれ」

 眼の前には前頭葉のコンフィが置かれていた。

「脳を食らう行為は、他者の人生を量子的に観測する行為です」

 ここまででずいぶん疲れていた。食事をしてこんなに疲れるなんて、後にも先にもないだろう。メインディッシュの前頭葉のコンフィを口にすると、再び誰かの記憶が再生された。




「ここ……」

 懐かしい。そこは黒百合町。かつて住んでいた街だった。そして、かつて住んでいた家。

「これは……」

 確かめなくてもわかる。これは、姉の栞の記憶だ。量子は肉体がなくてよかったと思った。もしあったら、涙を止めることはできないだろう。足に力も入らなかったかも知れない。

 家から誰かが出てきた。姉の栞だ。それと——13歳の量子だった。こんな風に自分を見ると恥ずかしい気持ちになる。二人はいつものように秘密基地へ向かった。

 そうだ。いつも、お姉ちゃんと二人で秘密基地で遊んだ。量子は懐かしい思いで胸が一杯になった。しかし、不思議と、秘密基地でどんな遊びをしていたのか思い出せない。いくら幼い頃のこととはいえ、少しも思い出せないのだ。

 二人が秘密基地と呼んでいたのは、人気のない公園だった。中学生になったばかりで、友だちができず不登校になった量子に、いつも栞だけは味方でいてくれた。家にいると母親が小言をいうので、量子はいつも外でフラフラしていた。学校から帰ってきた栞がいつも遊んでくれた。面倒見の良い姉のことが、量子は大好きだった。

 二人がハマっていたのはマジックだった。ほんの他愛のない、スプーン曲げのようなものだった。テレビ番組のマネをしては喜んでいた。

 そうだった——ぼんやりとその時のことを思い出してきた。思い出してはいけないような内容ではなくてホッとした。本当は少し怖かったのだ。良くないことをして、記憶に蓋をしているのだったらどうしよう、と。

 いつものようにスプーン曲げの真似事をしていたときだった。急にやってきたカラスに驚いた瞬間、甲高い金属音がして、二人同時にスプーンがねじ切れた。二人は驚いてそれを放り投げてしまった。断面は力任せにねじ切ったようだった。二人は顔を見合わせると、公園から逃げ出した。

 それから数日は公園へはいかなかった。しかし数日経って秘密基地に戻ったとき、スプーンは消えていた。二人は顔を見合わせ、なんだかよくわからないが良かったと思った。

 その日の帰り道、知らない男に声をかけられた。

「九条博士……」

 九条博士だった。今とほとんど見た目が変わっていない。タイムスリップでもしたのかと思うほどだった。言われてみれば少し髪の毛が短いかも知れない、程度の違いしかない。

 二人は驚いて走って帰った。両親に知らない男に声をかけられたと報告すると、母の顔色がさっと変わった。それはそうだろう。未成年の女の子に声をかけるような成人男性はまともではない。だから、そのあと家に訪問してきた九条博士に対して、母は鬼のような形相で追い返した。

 それでも九条博士は諦めなかった。なぜなら、九条博士はこのとき切羽詰まっていたのだ。今でこそ偉ぶっているが、このときの九条博士は異端の理論者、狂人と嘲笑われ、研究費も打ち切られそうになっていたからである。未だこの世界にはクォンタム犯罪は存在せず、彼の提唱する量子脳理論における多次元世界の解釈は認められず、彼自身も学術界から鼻つまみ者とされていた。

「理論はあっているはずだ、あとは実際の被験者さえ見つかれば」

 そうやって悶々とした日々を送っていたところに、姉妹が現れ、彼は神が自らに与え給うた光に見えた。彼は見たのだ。あの汚い公園で、幼い姉妹が現実と量子世界との境をこじ開けたのを。

 九条博士は同僚を、職場を、そして世界を憎んでいた。絶対に見返してやる。どんな犠牲を払っても、と。

 彼の憎悪は、運命すら引き寄せる強さを持っていた。

 ——なぜ、あたしは彼が何を考えていたかまでわかるのだろう。

「脳を食らう行為は、他者の人生を量子的に観測する行為です」

 アルゴン博士の言葉が、遅れて意味を持った。


 場面が急に変わり、量子の悲鳴が聞こえた。量子が猫に引っかかれて血を流している。

 猫……名前は何だったっけ——。思い出せない。なぜこんなにも自分の記憶は虫食いなのか。

 栞が慌てて母親を呼びに行く。栞が母親を連れて戻ってくると、部屋の一部が歪んでいた。栞と母親は得体のしれない状況に、部屋の入口で立ち尽くす。母親はその場にへたり込んでしまって、量子の鳴き声が聞こえるだけで助けにはいけなかった。その様子を見て、栞が部屋の中に入った。部屋の歪みは少しずつ広がっている。その中心にいる量子に向かって栞は手を伸ばした。量子は泣いているだけで栞の手を掴もうとしない。しびれを切らした栞は飛び込んでいって量子を抱えて部屋の外へ転がり出た。

「大丈夫?」

 ようやく我に返った母親が量子の肩を掴む。栞はホッとして胸に手を当てた。そのとき、なにか違和感を覚えた。自分の体に触っているはずなのに、なんの感触もない。見ると、手が歪んでいる。痛みはないし動かせる。

「あなたは?」

 母親が栞を振り返った。

「大丈夫よ、お母さん」

 もう一度見ると、手はもとの通りきちんとそこにあった。一体、何だったのだろう。

 空間の歪みは部屋の中だけにとどまり、部屋の外へは広がらなかった。中心にいた量子がいなくなったからだろう。母親は恐ろしくなって、誰かに助けを求めたかった。そのとき、あの怪しげな男のことを思い出した。大学でなにかの研究をしていて……なにか驚くようなことがあったら連絡してくれと言っていた——あの時から、彼はこうなることを予見していたのだろうか。それを邪険にしてしまったバチが当たったのか。

「猫は?」

 栞が量子に尋ねると、量子は部屋の中を指さした。部屋の中には何もいなかった。しかし栞にはわかっていた。あの歪みの中の何処かに落ちたのだと。


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