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記憶が再生される直前、量子は圧倒的な多幸感に包まれた。妊娠したことのない彼女には、これが何なのかわからず、幸せすぎて恐ろしかった。
「君の名前は……クァンタム・リー。性別、女。うん、しっくりくる」
先ほどと同様に、無影灯の下、手術台に貼り付けにされていた。腹は臨月を迎えており、大きな腫瘍のように見えた。
再び九条博士の声がした。
「解きなさいよ」
リーが暴れる。だが、腹に力が入らないように気をつけていることはわかった。
「ノンノンノン。君はこれから、人類の礎になるんだよぉ。喜ばしいことじゃないか」
リーが九条博士をめちゃくちゃに罵倒しながら暴れる。しかし、拘束はびくともしない。
暴れても無駄であることを悟ったのか、息を荒げながらリーは九条博士を睨みつける。しかし、彼の後ろに控えている男を見て目が零れ落ちそうなほど驚いた。
「灰原、どうしてそんなところにいるのよ。助けなさいよ」
リーが叫ぶ。灰原は死んだような無感情な目でリーを見下ろしていた。髪の毛が剃髪され、左半分が機械化されている。リーが灰原を知っていることに、量子は驚いた。今まで、彼らに対してそういう雰囲気を感じたことがない。
「うるさいねぇ。少しは黙れないのかい、クァンタム・リー」
「私をそんな気持ち悪い名前で呼ばないでよ」
「君の名前は、たった今この時から、クァンタム・リーなんだよ。良いかい。今までの君は死んだんだ。これから新しい君として生まれ変わるんだよ」
リーが再び暴れ始める。
「灰原! 助けなさいよ。あなたの子供でもあるのよ」
量子は驚いた。灰原はリーと知り合いどころか、それ以上の関係だったのか。それなのに、なぜ二人は知らないふりをしているのか。
灰原は何も言わない。それどころか微動だにしないので、マネキンなのではないかと思うほどだ。
「灰原! なにか言いなさいよ」
灰原は答えない。
九条博士が笑った。
「彼はねえ、記憶をリセットされて変わったんだ。大丈夫。君もこれから変わるんだ。それはきっと素晴らしいはずだよ」
九条博士に促され、灰原がリーを押さえつけた。
「ちょっと、やめて。あんた、自分が何してるかわかってるの?」
リーが騒ぐが、灰原は瞳さえ動かさない。リーの憎悪が目で見てわかるほどに渦巻いていた。それはこの世のすべてを破壊しても収まらないほどの強さだった。
九条博士がリーの首筋に太い管を突き刺した。すぐに管の中を赤黒い液体が登っていった。管は天井から伸びていて、その元がどこへ向かっているのかはわからない。赤黒い液体は水銀のような見た目で、あれがMemory-Xであることは明らかだった。
Memory-Xは人間から採取するの——? あれが何なのか、結局九条博士は教えてくれなかった。教えなかったのではなく、教えられなかったのではないか。教えたら、この残酷な事実を量子に知られてしまう。そうしたら、もう協力してくれなくなってしまうと考えたのかも知れない。
リーはピタリと大人しくなった。
「これはねえ、人間の根源的な感情を量子化して液体として抽出する装置なのだよ。そんな物を作れるなんて、私はなんて天才なのだろうか」
九条博士は自らの身体を抱きしめてクネクネと身体をよじった。気味の悪い老人だ。
「君が灰原くんと愛し合っていた記憶も、人間としての感情も、すべていただくよ。それと……」
九条博士がリーの腹に視線を移す。
「君のその『母性』という観測データ……実に美味そうだ」
首筋からMemory-Xを抽出し終えた後、管を腹に差し替えた。みるみるうちに腹がしぼんでいった。全て吸い取った後、九条博士は腹をメスで切り裂き、中に黒い花を埋め込んだ。
「さて、どんな味がするだろうね」
九条博士はどこからか持ってきたグラスに、先程の管からMemory-Xを注ぐ。それをワインのようにグラスの中で回すと一気に飲み干した。
「ふむ、この程度のデータか。つまらん味だ」
九条博士は口の中に残ったMemory-Xを床に吐き捨て、グラスを投げ捨てた。ぐいと口元を拭うと、リーを一瞥もせずに扉から出ていった。
灰原はリーを感情のこもらない目で見下ろしていた。全て吸い取られたリーは、虚ろな目で天井を見ていた。その視界にいつの間にか逆さ吊りの女がいた。女はリーを指さす。いつの間にか拘束が解かれていた。緩慢な動作で起き上がろうとするが、手術台から落ちてしまった。
リーの眼の前には、床に捨てられた自身の感情であるMemory-Xがこぼれていた。舌を伸ばして、それを舐めた。なぜそんなことをしたのかわからない。しかし、彼女の中の何かが、少しでも取り戻したいと思ったのだろう。何を取り戻したいのかは忘れてしまったようだが。
Memory-Xを綺麗に舐め取ったあとも、まだ渇いていた。口の中はガラスで切れてずたずただったが、痛みの感情もほとんどなかった。リーは部屋の中にある薬剤や消毒用アルコールを片っ端から飲み干した。それでも渇きは癒えない。割かれた腹からすべてこぼれ落ちていったからだ。
リーは灰原に噛みついた。傷口から垂れてくる血をすすった。まだ渇いていた。
リーがわかるのは、自身の渇きと、理由はわからないが憎悪だった。何もわからなくなったが、強い憎悪だけは残っていた。そうして、理由はわからないが腹が痛かった。下腹部の、子宮のあたりが痛かった。そこになにか大切なものがあったような気がして、幻肢痛のように子宮が痛かった。
そのとき、どこからか少女のすすり泣く声が聞こえてきた。リーが反応した。部屋の隅でサトーが泣いていた。いつからそこにいたのかわからない。最初からいたのか、それともリーの幻肢痛に引き寄せられたのか。
部屋の隅で、全身の皮膚を剥がされたサトーが血だまりの中で震えていた。 リーは這いつくばって彼女に近づき、その痛々しい傷口を犬のように舐め上げた。自分の血肉を分け与えるように。あるいは、失われた何かを確かめるように。 舐めているうちに、リーの頭の中に一つの啓示のような衝動が走った。
この子を、私の中へ還してあげなきゃ——リーは自身の裂かれた腹部の傷口を開き、そこにサトーの小さな体を押し込み始めた。物理的には不可能なはずの行為。だが、九条博士に黒い花を埋め込まれ「量子化された虚無」と化したリーの子宮は、際限のないブラックホールのようにサトーの肉体をズルズルと呑み込んでいく。
「あぁ……あったかい……」
サトーが完全に腹の中に収まった瞬間、狂おしいほどの幻肢痛が嘘のように消え去った。空っぽの臓腑が、確かな命の重みで満たされる。血にまみれたリーは、自身のお腹を両手で抱きしめ、狂喜の涙を流した。
多くのものを奪われてしまったが、クァンタム・リーとして生まれ変わった魂は、やっと世界に繋ぎ止められた。
「この子は、私が守らなきゃ……私の、ラブリーちゃん」
そのとき、扉を開けて男が入ってきた。
「神崎さん」
量子は驚いた。
「あなたの美しい魂は彼には奪わせない。……私が、あなたの絶望を武器に変えてみせる」
そう言うと、神崎は彼女にソムリエナイフを与えた。
「これは神経接続端子だ。ただ搾取される実験体から復讐のソムリエとして生まれ変わるんだ」
リーは神崎を見上げて頷いた。




