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「食事は神経接続の儀式だよ」
そう言いながら、食事をする男が目の前にいる。目はギラギラと怪しくひかり、恍惚とした表情をしている。場所はレストラン・ル・セルヴォ・ノワールだ。視点はその男と一緒に食事をしている——恋人だろうか。指先を見るに女性である。女性は戸惑ったような曖昧な返事をすると、トイレに立った。
女は勢いよく洗面台のノブを捻ると、大きな音を建てて水が流れた。鏡に写った女の顔は白かった。
「ひっ」
鏡には「あなたは誰の脳を食べましたか?」と血のような赤い文字で書かれていた。
女は悲鳴を上げてトイレから出ていった。ここで記憶は終わっている。
「へっ、こんなもんか?」
記憶の再生が終わると、灰原は薄く笑みを浮かべていた。意識に潜る前までの異様な雰囲気はすっかり消えていた。その代わり、なんというか、子供じみた言動が見られるようになった気がした。
量子はトイレに行きたくなった。記憶の中の女と同じ経路をたどり、トイレに入った。鏡には何も書かれていなかった。
トイレから戻ると、あちこちのテーブルで、今の記憶と同じような会話がなされていた。
「メンタル・スープでございます」
スープが運ばれてくる。サトーが量子に微笑みかける。一体、彼女はどうしてこんなことをしているのか。あの全身の傷は、なにかこのレストランに関係するのだろうか。
「スープはお客様の恐怖を追体験していただけます」
「どんな恐怖だろうな。がっかりさせるなよ」
灰原は不敵に笑って、がっつくようにスープをのんだ。
眩しい無影燈が目の前にある。目を瞑っていても眼球を焼き尽くすような光だ。
「ヒッヒッヒ」
聞き覚えのある声の方を見ると、九条博士だった。
「九条博士?」
声は出せない。なぜなら、これは自分ではないただの記憶だから。
「君の名前は……シナプス・サトー。性別、女」
九条博士がつぶやく。これはサトーの記憶なのか。
サトーは全身の力を振り絞って暴れながら、泣きじゃくっていた。今よりもっと幼い頃の記憶だ。
九条博士が手にしたメスが、怪しく光を反射する。彼はそれを器用に操り、彼女の皮膚を削ぎ落としてゆく。サトーは痛い痛いと泣き叫ぶが、九条博士は聞こえていないみたいに淡々と皮膚を削ぎ落とし続けた。
作業が終わると、九条博士は別の機械に持ち替えた。タトゥーを彫るときに使う、ロータリーマシンのように見えた。皮膚の下にマシンの針を当てると、何かを焼き付けてゆく。肉の焦げる臭いがした。サトーはあまりの痛みに顔は赤黒く変色し、口から泡を吹いていた。
全身がカミソリで切り刻まれるような苦痛の中、サトーの意識は限界を迎えようとしていた。そこへ、大きな音を立てて手術室の扉が開いた。若い頃の灰原だ。
「やめろ! 悪党め! 今助けるぞ」
今よりずっと若い灰原は、九条博士を突き飛ばし、白目をむいているサトーの拘束を解こうとしていた。
あれは、ニューロンコネクタの適合者として将来を嘱望されていた頃の灰原——いや違う。彼の左脳はすでに機械脳になっている。ここは、サトーの記憶ではなく、サトーの意識の中へ灰原が潜ったときの記憶ということなのか。
ああ、なんて複雑なんだ——。
体があったら頭を抱えていただろう。
「ふふふ」
突き飛ばされた九条博士は、その様子を見て不敵に笑った。
灰原がサトーを助けるために拘束を解こうとしたとき、サトーがひときわ大きな悲鳴を上げた。
「どうした」
灰原が慌てて手を離す。
眼の前の空間に亀裂が走った。その亀裂がサトーの体を引き裂いてゆく。
「痛い、痛い」
サトーが泣き叫ぶ。灰原は慌てて彼女を助けようとするが、彼が動くたびに空間に亀裂が入ってサトーの傷が広がってしまう。
「どうしたら良いんだ」
サトーの全身に無数のためらい傷のようなものが刻み込まれてゆく。
「違う、俺は助けたいだけだ! なぜだ!」
九条博士が背後でヒッヒッヒと嗤った。
「素晴らしいよ、灰原君。君の『正義』という名の無神経な観測が、彼女の神経回路をより深く、美しく刻み込んでいる。君の優しさ、そして強さこそが、彼女を怪物に作り変えているんだよ」
自分が助けようとした少女を、自分の手で切り刻んでいるという事実。その矛盾と罪悪感に灰原の精神は耐えきれず、絶叫と共に彼の左脳が煙を上げる。
「ああ、これではもう脳がもたないね。ここでの記憶は一旦リセットして、新しい機械脳を組み込むか。君にはまだ働いてもらわねばならないんだからな」
九条博士は灰原を見下ろし、ブツブツと独り言を呟いた。
左脳を焼かれて倒れる灰原の横で、サトーの悲鳴が、ふつりと止んだ。 血だらけの唇がゆっくりと歪む。痛みに見開かれていた目が、別の色の飢えに濡れてゆく。脳が焼けた灰原を見下ろして、彼女は虚ろに呟いた。
「……美味しそう」
そう言って、サトーは灰原の焼けた脳と、首元のニューロンコネクタ端子を舐め回した。灰原の腕に歯が食い込み、肉を貪った。そして、脳を食おうとしたとき、サトーは突然倒れ込んだ。
九条博士が天井を見上げ、舌打ちをした。そして足早に部屋から出てゆく。仰向けに寝転がったサトーの視界に見えたのは、逆さ吊りの女だった。病院で噂されていた幽霊だ。一体、彼女は何者なのか。量子が見たときは姉の栞の声をしていたが。
結局、灰原の正義感が逆にサトーを傷つけてしまったのだ。灰原が「俺は刑事だ!」と自分に言い聞かせ続けていた理由がやっとわかった。記憶が消されてしまったのかも知れないが、助けられなかったサトーのために正義をやめるわけにはゆかなかったのだ。その義務感だけが彼の精神に強くこびりついて離れないのだ。
記憶の再生が終わると、量子は無意識に涙を流していた。眼の前に座っている灰原は、真っ青な顔をして呆然としていた。少なくとも、スープを飲む前の余裕はなくなっていた。
「そうだ……俺は……九条博士に……」
彼は頭を抱えてなにか呟いていた。それが終わると、テーブルの上に乗っていた食器を力任せに薙ぎ払った。食器の砕ける鋭い音が響いたが、恍惚の表情で脳髄を貪る他の客たちは、誰一人として振り向きもしない。その異様な無関心が、灰原の孤独な地獄をさらに浮き彫りにしていた。
「メインディッシュの前頭葉のコンフィでございます」
「うるさい。なんで……なんで……」
灰原が顔を上げる。サトーが微笑んでいた。
「君は……どうして……」
灰原がサトーの肩に震える手をかけて、声を絞り出した。
「なんのことでございましょう」
「覚えていないのか? 俺が……君を……」
サトーは笑顔のまま何も答えなかった。
灰原は力を失ったように手をおろした。
「すまない。片付けるよ」
「いいえ、お客様は座っていてください」
目を離したすきに床の皿は消えていた。そうだ、ここは現実ではないのだ。
美しくセットし直されたテーブルの上には、いつの間に置いたのか、メインディッシュの前頭葉のコンフィと血のように赤いワインが置かれていた。
「どちらからでも、お好きな方からどうぞ」
量子はグラスの赤いワインを一口飲んだ。その瞬間、なぜか下腹部に暖かいものを感じた。
「おい、お前未成年だろ」
力のない声で灰原が言う。
「ここは現実じゃないんだから、固いこと言わないでよ」
灰原もそれ以上は言わなかった。




