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量子が冷蔵庫の扉を開ける少し前、量子が灰原の意識の中に入ったのと同時に、灰原の意識はレストランの中に生まれていた。灰原の機械脳が激しくノイズを上げ、地獄のような頭痛が彼を苦しめた。Memory-Xの交換時期が近づいてきたときのような痛みだった。
「いらっしゃい。生まれたてのベイビー。こっちに君のミルクを用意してありますよ」
アルゴン博士が言うと、リーとサトーが灰原を両脇から抱えて冷蔵庫に入れた。
「ここは……俺がいた場所だ」
灰原がつぶやく。
「おや、彼は聡明だね」
アルゴン博士の語尾が弾む。手際よく灰原の頭の接続孔にMemory-Xのカテーテルがバイパスされ、機械脳のデトックスが始まった。
冷蔵庫の中でMemory-Xのデトックスが始まると、頭痛は和らいでいった。それと同時に、彼の記憶にある九条研究所の地下実験室とリンクし始めた。
「灰原さん」
量子が灰原に声をかける。灰原は白目をむいてなにかうめいていた。
背後から拍手の音が聞こえた。
「素晴らしい。これぞ人間」
アルゴン博士だった。その両脇で、リーとサトーが狂ったように拍手している。
「何をした?」
量子がアルゴン博士を睨みつける。
「何をしたって? 私は助けたんですよ、彼を。ほら」
アルゴン博士が灰原の頭からチューブを引き抜く。赤黒くドロリとした、水銀のような液体が流れ出る。
「量子……」
灰原が目を覚ます。
「やつの言うことは本当だ。Memory-Xを交換してもらった」
灰原の言葉を聞いて、アルゴン博士が量子に頷いてみせた。量子は冷え切った灰原の体を温めるように抱き寄せる。
「それには感謝する。でもあんたたちは量子汚染症を利用した。この憎むべき現象を」
量子の目から憎悪が消えていないのをみて、アルゴン博士は大げさにため息を付き、肩をすくめてみせた。それを、リーとサトーが両脇から慰める。
「それは仕方のないこと。量子汚染症はただの病気ではない。人類を進化させるトリガーなのです。昇華の鍵です」
「なによそれ。あんたが何を知っているっていうの?」
「それを知りたくば、我々に勝って見せてください。迷宮の最奥でお待ちしておりますよ」
そう言うと、アルゴン博士たちはどこかへ消えていった。
「待ちなさいよ、逃げる気?」
量子の声はただ闇の中に吸い込まれていった。
「量子……いくぞ」
灰原が立ち上がる。
「もう大丈夫なの?」
灰原は頷く。
「勝負事なら負けやしない。目にもの見せてやろうぜ」
客席に戻ると、テーブルが一つだけライトアップされていた。それ以外は闇に包まれて何も見えない。
「アハハ、アハ、いらっしゃいませ、お客様」
高笑いとともに、アルゴン博士の声が響いた。同時に、サトーが配膳カートを引いてやってきた。ニコリと微笑むとテーブルに付くように身振りで誘導する。
「何させようってんだ? あの被害者たちみたいに俺達で脳みそえぐり合えってか?」
灰原がサトーに触れるほど顔を近づけ鋭く睨み据える。しかし、サトーは意に介さずといった雰囲気で、にこやかな表情を崩さない。灰原は舌打ちをして乱暴に椅子に座った。
Memory-Xを交換したと言っても、量子はまだ灰原のことを心配していた。憎しみで我を忘れているのか、それともあのMemory-Xになにか混ぜものでも入っていたのだろうか。そう考えながら灰原の向かいに座る。サトーの作り物のような笑顔がこちらを向いていることに気付いて顔を伏せた。
「記憶のフルコースでございます」
前菜が配膳される。
「海馬のカルパッチョでございます」
そう言って眼の前に出されたものが、以前食べたときとは違うものに見えた。灰原がフォークで料理を訝しげにいじる。
「料理に何か混ぜたか?」
灰原が大声で厨房へ声をかける。
「まさか。料理を冒涜しないでいただきたい」
アルゴン博士の声が客席に響く。
薬物など入っていないことは知っていた。厨房にあった食べ残しやゴミ箱や排水溝の中身までさらって、鑑識が調べたが薬物反応は陰性だったからだ。
では、灰原のあの不調は何だったのかと量子は不審に思う。食事中、得も言われぬ恍惚を覚え、意識が途切れた瞬間があった。その時、灰原の姿は消えていた。そのときになにかされたに違いない。
「メニューを見せてくれ」
灰原が言う。
「今日はコースですが」
サトーが答えるが、灰原が頑なにメニューを要求した。サトーが根負けして、洒落た小さなメニュー表を差し出す。そこには「脳を食べることで体験できる」と書かれていた。まるでシナプススキャンだ。これが本当の記憶のフルコースということか。
料理が運ばれ始めると、客席全体がライトアップされた。どこにこんなにいたのかと思うほど、客でごった返していた。どこの客席も幸せそうな人が料理を口に運んでいる。
壁には写真がところ狭しと貼られており、「食脳者ランキング」と銘打たれていた。写真の下には脳波のグラフが貼り付けられており、それは普通の脳波ではなく、どれも花弁模様を描いていた。
厨房からアルゴン博士の声が聞こえた。
「今夜のメインは観測者候補の脳髄ですよ」
客たちは歓声を上げた。まるでスポーツ観戦で盛り上がっているみたいに、雄叫びのような声を上げているものもいた。人間の脳を食べる行為は数え上げたら片手では足りないほどの法律に触れる。遺体損壊、死体遺棄、医師法など。面白いのは、食品ではないので食品衛生法には触れないことだ。
「あれ」
量子が指をさす。そこに座っていたのは、現実のアパートで眼球をえぐり合って死んでいたカップルだった。
「どういうこと……」
言ってから量子は気づいた。ここは現実ではないのだ。
「彼らはここの常連だったのか」
部屋の感じからして、このレストランに通えるような経済状況ではないと思っていたが、逆だったのか。このレストランに通うために、それ以外の出費を抑えていたのだ。それほどまでに、このレストランには魅力がある。悔しいが、初めてここで料理を食べたときのことを思い出すと納得してしまう。
「味は記憶に咲く」
料理を並べながら、サトーがつぶやくように言う。
「アルゴン博士が言っていました」
海馬のカルパッチョを恐る恐る口に運ぶ。下に乗せた瞬間、脳に針を刺されたような刺激が全身を襲った。不快ではない。むしろ快感である。
頭の中に知らない記憶が広がった。
「これが本当の記憶のフルコースです。存分にお楽しみください」




