40
目を覚ますと、安アパートの一室だった。壁紙が剥がれ、灰色の蛍光灯が瞬いている。机の上に灰皿がひとつ。
──灰原さんの世界は、こんなに狭いのか。
床に落ちていたのは、くしゃくしゃに丸められた「辞表」だった。
何枚も。何枚も。
一枚を広げてみると、日付だけが違う。彼は何度も辞めようとして、辞められなかったのだ。
ふと、文字に違和感があることに気づいた。インクがまるで水銀のようにキラキラしている。
「これ、Memory-Xだ」
文字はインクではなくMemory-Xで書かれていた。傾けると、文字ごと床に落ちた。
この部屋は彼の苦悩だ。彼の正義感が凝縮された世界なのだ。この薄暗さや荒れ果てた様相は、空虚さを感じさせる。
部屋の中には何もない。今まで、記憶をダウンロードしたときはもっと何かしらのヒントとなるものがあった。しかしここには何もない。量子汚染症の証拠もない。一体何なのだ。
部屋の窓ははめ殺しになっていて開けられなかった。窓の外の景色はなく、「手術室の無影灯」と「自分を見下ろす九条博士の巨大な目」だけが浮かんでいた。これは、最初に灰原がニューロンコネクタの実験体になったときの記憶だろう。「自分は刑事だ」と強く願いながらも、深層心理では「自分は九条博士に作られた改造人間であり、失敗作に過ぎない」と卑下しているのだ。それが、いつも何かを諦めたような雰囲気の彼を形作っていたのだ。
「苦しんでいるのね」
量子がつぶやく。それに応えるように、部屋の照明が揺れた。
部屋に唯一ある扉を開けると、場面はレストランの中に変わった。ル・セルヴォ・ノワールだ。なぜ、彼の意識がこのレストランにつながるのかわからなかった。彼のことを思えば、刑事時代のこととか、自分たちの部署の部屋とかではないのか。
量子はテーブルについていて、対面に座っているのは頭がキノコの藁人形だった。
「何、これ」
椅子から立ち上がり、藁人形の周りを歩いた。再び正面に戻ってくると、キノコに顔が浮かび上がっていた。見たこともない男の顔だった。
「誰?」
問いかけると、顔が変わった。カードをめくるように、どんどん顔が変わってゆく。
「これは、今まで救えなかった被害者たちの顔だ」
どこからか灰原の声が聞こえた。
キノコの傘が割れて、中から量子花弁が出てくる。量子がそれに触れた瞬間、藁人形から頭が落ちた。落ちた頭は、スープの皿に落ちて、綿あめのように消えた。スープの中に手を突っ込んでみると、肩まで入った。この薄いスープ皿の中が、一体どれだけ深いのかわからなかったが、中は温水プールのような感触だった。
藁人形の首がもげたところから手を突っ込んでみたが、中は藁しか入っていなかった。
「あっ」
不意に自分の意思に反して体が勝手に動き出した。先ほど座っていた椅子に、体が勝手に座る。
「何よこれ」
叫んでみても、体は動かない。周辺に灰原はおらず、ギャルソンを呼んでも出てこなかった。まずは灰原を探さねばと思ったが、九条博士がやけに静かだ。こんな状況なら、なにか文句の一つもつけてくるはずなのに。
「博士?」
腕は自由に動くようだったので、首元を触ってみると、いつもならやけどしそうなくらい熱いはずのニューロンコネクタが冷たかった。
そこでやっと気づいた。これは灰原の意識ではなく、トラップなのではないか。
「アルゴン博士が灰原さんになにかした?」
おそらく、レストランで食事をしているときだろう、一時的に姿を消したとき、あれは夢ではなかった。あの時になにかされたのだ。
「御名答」
レストランの奥の闇から、アルゴン博士が拍手しながらやってきた。
「やっぱり敵だったのね。味方だなんて嘘をついて。卑怯者」
「いいえ、嘘ではありません。あなたの味方です。灰原氏の味方ではないだけでね。何なら、彼に何をして、ここが何で、あなたがどうなってしまったのかも正直に説明して差し上げますよ」
「ふん。それだって、信じられるかどうかわからないじゃない」
量子は椅子から立ち上がり、後ずさりながら、アルゴン博士と距離を取る。何かにぶつかって振り返ると、あのイカれたウエイトレスのクァンタム・リーがいた。
「キャハハ。信じられないならどうするの? あんたはねえ、信じるしかないのよ。他に何ができるの?」
リーの後ろには、ギャルソンのシナプス・サトーが立っている。魅力的な笑みを向けられて一瞬たじろいだ。
「まあまあ。おちついて。君たちも、いたずらに怖がらせないように。さあ、座ったらどうです?」
アルゴン博士が椅子を引く。彼らに囲まれて、量子は座らざるをえなかった。それを見てアルゴン博士は「よろしい」と頷いた。
「彼の脳は、あなたの右目と同様に……」
そこで、アルゴン博士の言葉が、ほんのわずか、つかえた。
「すでに量子化を完了している」
量子は気づかなかった。ペストマスクの奥で、彼が誰の顔を見ないようにしていたのかも。
「量子化?」
量子は思わず聞き返した。
「九条博士は、電子化だって言ってた」
アルゴン博士の嘴が、ゆっくりとこちらを向いた。
「そう呼びたかったのでしょうね、あの人は」
それ以上、彼は説明しなかった。量子も、訊けなかった。訊けば、答えを聞いてしまう気がしたのだ。
「まず、ニューロングリドルで彼に命令を書き込みました。現実に戻った後に黒い花を見つけたら発症するようにね。彼の脳は特殊金属の中でMemory-Xに満たされていないと、存在できないのです。これは九条博士が発明した画期的なシステムです。これを逆手に取りました。だから、簡単でした」
一気に早口にまくしたてる。その口ぶりはまるで九条博士を想起させる。これが始まると、量子は理解しようとする気持ちが急速にしぼんでゆく。
「え、待って? ニューロン……なに?」
「ニューロングリドル。量子化した対象に命令を植え付けるための装置です。ちなみにこれは私が発明しました」
アルゴン博士が胸を張る。その仕草も九条博士に似ていた。九条博士の他に、同じ仕草を真似ている人をいつか見たような気がする。
量子は、あの夜の海馬のカルパッチョを思い出した。淡雪のようだと思った。芸術だと思った。思わされたのだ、と今わかった。
「命令を植え付けるって……なにそれ怖い……」
「怖がらないで。あなたには何もしてませんし、これからもするつもりはありませんから」
「嘘かも」
リーが笑った。量子は彼女を睨みつけると、リーも量子を睨みつけた。リーが顔を近づけていって、量子とおでこがぶつかったがどちらも目を離さなかった。
「こらこら、やめなさい。いいですか、続けますよ。まあ、とにかくあなたをここに招待したということです」
「誘い込んだ、でしょ?」
「そもそも、灰原氏はあなたの味方ですか? なにか、隠し事をしていないですか。だって、おかしいでしょう。現役の刑事がニューロンコネクタを受け入れて改造人間になってまで、どうしてあなたに付き合うんです? それに九条博士は本当にあなたの知り合い?」
「そんなの知らない。わからない」
「どうして? あなたは何も知らずにこんなことに加担しているというのですか?」
いつになく、アルゴン博士の口調が厳しい。
「馬鹿なのね〜」
リーが笑う。睨みつけるが、その後ろでサトーもクスクスと笑っているのが見えてたじろいだ。リーに笑われるよりもサトーに笑われたほうが、心が痛い。
「だって……仕方ないじゃない。あたしは家族を殺されて、九条博士に協力するしかなかった」
「そう思い込んでいるだけでは? 何もかも忘れて、器用に生きていくことだってできたはず」
「忘れられるわけじゃない」
量子がアルゴン博士を睨みつける。
「どうして?」
「どうしてって……家族が殺されたのよ」
「家族だっていつかは死ぬでしょう。それが早まっただけでは」
「そんな風には割り切れない」
「どうして?」
「もう……どうしてどうしてってうるさい」
量子は目をつぶり、耳をふさいで机に突っ伏した。頭がぼんやりする。これは一体なんだ。誰の意識をダウンロードしているんだ。少なくとも、灰原ではない。あの三人がこの空間に割り込んでくるなんて不可能なはず。
「あなたには無限の可能性があった。それを、こうなるように誘導されたのです」
耳をふさいでいるのに、直接鼓膜に届くようなクリアな声が聞こえる。それは当然だ。本当に声が空気を震わせて耳に届いているわけではない。全ては頭の中で起こっているのだから。
——誘導? 誰がなんのために。
「九条博士は、本当にあなたの味方ですか?」
顔を上げると、三人が量子の顔を覗き込んでいた。彼らの顔がグルグル回って、目眩がした。椅子から転げ落ちて、その場に尻餅をつくと、顔を上げたときには三人とも消えていた。一体何なんだ。
先ほどアルゴン博士が姿を表した扉が空いていた。量子は立ち上がってその扉の奥を覗き込んだ。レストランの厨房だった。巨大な業務用冷蔵庫の前に点々と血痕が続いていた。恐る恐る近づいてみると、まだ新しいように見えた。
ハッと気がついた。量子は冷蔵庫の扉を開けた。冷気が流れを感じる。部屋の「あたたかく湿った空気」と、冷蔵庫内の「冷たい空気」とが一気に混ざり合って微細な液体の水滴となり、白い吐息が流れ出した。
「灰原さん」
扉の向こうは、天井から無数のチューブが垂れ下がり、Memory-Xと血液の混合物である赤黒い液体が循環する 「血のワインセラー」 だった。そこに灰原が繋がれていた。
灰原が量子に向かって倒れ込む。慌てて抱きとめると、彼は低くうめいていた。




