39
量子は部署には戻っていなかった。だとすると、行き先はあそこしかない、となぜか灰原は強く思った。それは確信に似たひらめきのようなものだった。
灰原の車がレストラン・ル・セルヴォ・ノワールの前に停まった。車から出ると、ムッとする暑さが体にまとわりつく。看板を見上げる。昨日来たばかりだというのに、ずいぶん時間が経ったように感じた。
レストランの重い扉を開くと、昨日食べた料理の匂いがフラッシュバックした。夏だというのに乾燥した肌が、それを求めているように感じた。
中に入ると量子が驚いた顔で灰原を振り返った。
「おい、何度も連絡したんだぞ」
ホッとして、思わず強い口調で言ってしまった。しかし、様子がおかしい。いつもの彼女なら言い返してくるはずなのに、今日は彼女の口が重かった。
「どうした? なにかされたのか?」
灰原が腰のホルスターに手をかける。指先に冷たい感触が当たった。
「どうされました?」
アルゴン博士が、昨日と同じふざけた被り物をしている。
「貴様、昨日の死体から抜いただろう?」
「抜いた? はて、なんのことやら」
「とぼけるな。わかってるんだ。頭の中から、黒い花を抜いただろう」
量子が目を丸くして灰原を見た。
「どういうこと?」
「その、なんだ。頭の中が、量子空間化したんだと。だから、最初の死体にもあったはずだ。九条博士を信じるならな」
実際、よく理解していなかったが、灰原が頭の横で指をクルクル動かした。自分で言っていてもよくわかっていないが、それを聞いて量子が納得したように頷いた。
「なるほどそういうことね」
「どういうことだ?」
「わかっていないのに、偉そうにしてたのね」
いつもの量子の口調になぜかホッとした。
「あたしの右目と同じよ」
同じ、と言われてもピンとこなかった。
「まあ、だから、昨日の死体にもあったはずなんだよ、黒い花が」
「それを、我々が隠したと?」
「お前ら以外に考えられない」
「警察が隠したのではないですか? 隠蔽は十八番でしょう?」
「なんだと?」
アルゴン博士が自分を笑っているように見えた。急に、頭の何処かに黒い靄がかかったような嫌な感情が沸き起こった。小さな怒りに、誰かが火をくべているような感覚。怒りの感情を後押しされているように感じる。機械化した脳が沸騰したように熱い。実際、ヒートシンク代わりの髪の毛から湯気が出ていることに自身では気付いていない。何かが腐ったような生臭さが鼻をつくようになった。
ホルスターの留め具を外して銃を抜いた。銃とベルトを繋ぐコードが引っ張られる感触がある。
「ちょ、ちょっと灰原さん。むやみに銃を一般人に向けたら懲戒じゃないの」
量子が驚いた声を上げたが、灰原は血走った視線をアルゴン博士から外さない。体の何処かから、憎悪や怒りが無限に湧き出してくる。
「俺の後ろに来い」
視線を外さないまま、量子に指示する。思ったよりも大きな声が出てしまったので、量子がビクリと体を震わせるのが視界の端に見えた。
「俺は……刑事だ。俺は……刑事なんだ……」
灰原が繰り返す。量子を見ているようで、見ていない。
「だから、お前を逮捕する。証拠がある」
「どこに証拠が?」
心配するようなアルゴン博士の声が、灰原には嘲笑っているように聞こえる。灰原は自身の胸をかきむしる。シャツのボタンが2つ飛んでいった。
「お前が俺の正義を汚した」
──刑事が最も恐れるのは、自分の正義が偽物だと知ることだ。
以前、灰原が言っていたのを量子は思い出していた。灰原は正義感が厚く、プライドの高い男である。それが爆発したように見えた。
「何よ、うるさいわね〜」
スタッフルームからクァンタム・リーがあくびをしながら出てきた。灰原が銃を構えているのを見るや、彼女は破裂したように笑い出した。
「なにそれ〜。あんた、喰われてるわね」
リーが灰原を指さす。灰原は銃口をリーに向けた。手が震えて銃口が定まらない。体が熱い。
「量子汚染症ですね。こちらへ」
俺が量子汚染症だと——冗談にもならない。そうだとしても、コイツラと遊んでいる暇はない。早く九条博士のところへ行かねば。彼しか治すことはできない。
ついに、灰原は手に力が入らなくなって銃がこぼれ落ちた。幸い、カールコードでつながっていたので手繰り寄せることが出来たが、握ることが出来ない。
「量子汚染症は、その人間の最も恐れているものを、外側に向かって吐き出させる病気です。あなたの口から蛆虫が湧くように、次々溢れ出してこぼれるのを止められないでしょう。それはいつか、内側に向いて行き、あなたそのものを量子化してしまう」
「くそ……っ」
灰原は銃を再び取り落とし、地面に手をついた。視界が歪んで見える。
耳元で量子がなにか言っているのが聞こえた。
そうして、そのまま意識を失った。
「早く、九条博士のところへ」
アルゴン博士の鋭い声が飛んだ。
「九条博士? なぜ?」
「理由はあとでお話します。手遅れになる前に、さあ」
追い立てられるように、量子は店を後にした。
リーが車を出した。ヒールの踵でアクセルを踏み抜く女の運転を、量子は一生忘れないだろう。
「九条博士!」
量子が九条博士の研究所に飛び込んだ。ストレッチャーに灰原を乗せている。
「何事だね、騒々しい」
博士はちょうどスキャンルームにいた。アルゴン博士は彼がここにいることを知っていたのだろうか。
灰原を見るなり、九条博士は表情を歪めた。
「おいおい、これはなんだぁ?」
「灰原さんが量子汚染症なんだって」
「はあ? 灰原くんが量子汚染症だって? なぜ君にわかる」
「どうしたら良い?」
九条博士に詰め寄ると、彼は不快そうに量子を押し戻した。
彼は灰原の髪に触れると、悲鳴を上げて手を引っ込めた。そのあと、首にあるニューロンコネクタへケーブルを繋いで、コンソールでなにかの操作をした。
「信じられん」
九条博士は唸るように言うと、顎を撫でた。無精ヒゲがジョリジョリと音を立てる。
「何が?」
「本当に量子汚染症だ」
「だからそうだって言ってるでしょ」
量子がコンソールを叩く。
「やめたまえ。これは君なんかよりもずっと価値のある装置なんだぞ」
「だったら、その価値のある装置でなんとかしなさいよ」
量子が吠えると、九条博士は不快そうに顔を歪めた。
「彼に何があったんだ」
「知らないわよ。いきなり来て、急に怒り出して倒れたの」
九条博士は再び唸って顎に手を当てる。そうして、なにかひらめいたように手を叩いた。
「まだ彼の意識はそこにあるのだろう? それなら、君が彼の意識を内側から救えば良いのだ」
「救うって……」
量子は灰原と九条博士を交互に見て、装置を振り返った。
灰原の意識に入る——思っても見なかった。
「それで助かるなら」
量子は灰原を装置まで運ぶと、自身もすぐに横になって冷却装置を被った。
「早くして」
モニタリングルームの中で、九条博士が笑ったのが見えた気がした。




