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現場はもう充分だった。身元はわかっているので、ここからは地道に聞き込みをしてゆくしかない。しかし、これは事件なのだろうか。いや、お互いを殺し合っているのだから事件ではあるのだが、どのようにまとめればよいか悩んだ。
ふと、もしかして、前回の事件でも同じように量子花弁があったのではないかと思いついた。それを、レストランが、もしくは警察が隠したのだろうか。
そうだ。警察が隠したのだ。そうでなければ、あの段階で灰原が呼ばれるはずがないのだ。一見したら、ただの殺人事件だ。それなのに、こちらまで話が回ってくるのが早すぎる。
「おい」
灰原が声をかけると、警官が駆け寄ってきた。
「お呼びでありますか」
警官は灰原の眼の前でまっすぐに直立した。期待に目を輝かせている。
「聞き込みに行ってほしい。できるな?」
灰原が鋭い眼光で警官を見つめると、彼は上気した顔で頷く。関係者を当たらせて情報を集めるだけだ。今回は犯人を探すわけではなく、ああなった背景を調べるだけなので彼でも充分だろう。それに、きっと彼のやる気は役に立つ。
「うまくやったら、刑事課に推薦してやる」
言ってから、安い餌だと思った。だが警官は、この日いちばんの敬礼を返した。
指示を受けると、警官は近隣住民の家の玄関を叩いて回った。やる気が空回りしなければよいが。
車に乗ってから携帯電話の着信をチェックしたが、量子からのメッセージはなかった。
結局、量子は戻って来なかった。
事件現場から飛び出した量子はタクシーに飛び乗って、レストラン・ル・セルヴォ・ノワールへ急いだ。到着して看板を見上げると、あれから何日も経ったように感じる。扉に手をかけると、中から開いた。アルゴン博士がそこに立っていた。
「思ったより遅かったですね。すぐに戻ってくると思っていたのに」
そう言いながら、愉快そうに手招きする。店の中はシンとしていて、外とは隔絶された世界に感じた。外は汗が滲むほど暑いのに、店の中はひんやりとしている。この感じを知っている。霊安室だ。
「あんた、味方なんでしょ?」
量子がアルゴン博士を睨みつける。まだ信用したわけではない。それでも、あの時の夢に見たような憎しみを、彼に対して抱くことはできないのだ。量子がアルゴン博士に対して抱いている感情が、憎しみではなく、憎しみたいという願望であることにはとっくに気づいていた。
アルゴン博士が手を後ろに回したままくるりと振り返り、大きく頷いた。
「もちろん。初めて会ったときから、ずっとあなたの味方でしたよ」
初めて会ったときから——。なんとなく、その物言いに違和感を覚えた。
「あたしの何を知っているというの? あたしはあんたのことを何も知らないのに」
アルゴン博士が首を振る。いちいち、彼の所作は芝居がかっていて癇に障る。
「そうですか。いや、いいんです。この姿では仕方のないことです」
寂しそうにマスクを触る。
「その、なんでそれ、マスク……そんな風に……ええと、外れなくなってるの?」
言いながら、量子は自分が失礼な物言いをしていることに気づいて軌道修正を試みたが失敗した。余計失礼な物言いになってしまった。しかし、アルゴン博士は特に気にした様子もなく、首の皮膚とマスクの境目のあたりを手で撫でた。
「ちょっと事故にあいましてね。それでこうなったんです」
事故、からどうしてそれでこうなるのかはわからなかった。あのマスクは首から生えているのだ。被っているわけではない。どんな経緯があればそうなるのか想像もつかない。
「あなたのことを知りにきたの」
「私のことを。それは嬉しい。ですが、そんなことより……」
そんなことって何? と量子は思った。口に出して猛抗議しようとしたが、アルゴン博士が量子の顔の前に人差し指を立てる。
「もっと面白いことが起こりますよ」
店には窓がないと思っていたが、アルゴン博士が壁に手を当てて板を剥がすと、窓が現れた。
まるでそれを予見していたかのように車が外に停まったのが見えた。
「新しい事件が起きたようです」
振り返ると、アルゴン博士が両腕を広げていた。マスクを被っているのに、目が輝いていると感じた。彼はなにか知っているようだった。もちろん、今回の事件のことも、過去の事件のことも。
量子が問いただそうと思ったとき、店に灰原が入ってきた。




