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メンタル・ポルノ 量子的食脳  作者: よねり
第3章「逆転の連鎖」

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 現場は小さな木造アパートだった。暑さも相まって、部屋の外に悪臭が漏れ出していた。車から出た瞬間から臭っていた。近隣住民はさぞ迷惑しているだろう。規制線の外側に野次馬は少なかった。この臭いでは野次馬するのも根気がいる。残っているのはゴシップ記者くらいだろう。

 部屋に一歩足を踏み入れると、すぐさま吐き気を催した。暑くなり始めたタイミングというのも最悪だ。腐敗は進むし臭いは遠くまで届く。

 新人の頃を思い出す。血の臭いというものを初めて嗅いだとき、盛大に吐いた。同僚からは笑われ、上司から叱責された。優しい人は誰もが通る道だと背中を擦ってくれたが、彼はもう警察をやめてしまった。彼の名前どころか顔すら思い出せない。

 現場はすでに捜査一課と鑑識に荒らされたあとだった。早々に見切りをつけた捜査一課の捜査員はこの事件からは目を背けた。残飯を食わされている気分だ。

 現場を警備する所轄の警察官に軽く手を上げて警察手帳を見せようとすると、手帳を見るより前に警官は灰原に向かって敬礼をした。驚いて顔を見ると、昨日と同じ警官だった。

「今回もか。縁があるな」

 確かに、病院もレストランからもここまでは大して離れていないし、同じ管轄である。そのことに灰原はあまり関心を向けなかった。

「あの、大丈夫ですか?」

「何がだ?」

 警官が心配そうな顔を灰原に向けた。灰原の顔は血の気が引いたように白く乾燥してやつれているように見えた。事実、灰原は昨日から食べるどころか水さえ飲んでいなかった。何を口にしてもおかしな味がするからだ。

 現場に向かおうとしたとき、量子が息を切らせて走ってきた。

「はあ、はあ、置いてかないでよ」

 量子が灰原を睨みつける。

「お前が電話に出ないからだろ」

 灰原が枯れた声で言う。彼の様子がおかしいことに、量子も気付いてその場にいた警官と顔を見合わせた。それ以上文句をいう気は起きなかった。

 灰原と量子がハンカチを鼻と口に強く押し付け、部屋の中に入ってゆく。蝿が無数に飛んでいて邪魔だった。それでも今日はマシな方だ。はらわたが破れていない。腹を割かれて破れた腸に蛆が湧いているのを見るのは最悪だ。視覚的にも気持ち悪いし、あの脂と糞の臭いが血と混ざった臭いが、自分の体の中にも同じものが存在するとは思いたくない。量子はすぐに外へ走っていって吐いていた。警察の協力者とはいえ、量子はただの民間人だ。昨日今日でこの臭いに耐えられるはずがない。

 部屋にはあのレストランのチラシがあった。質素な生活を見るに、あの高そうなレストランとは関係なさそうなのに。ただの憧れだろうか。庶民はいつも高嶺の花を羨望する。灰原もわかる。恍惚としたあの味を知ってしまったら憧れずにはいられない。また行きたい。口の中に唾液が溢れた。一度考えると、頭から離れなくなってしまう。こんな悪臭の中にいてさえ、あの料理の匂いを思い出すことができる。

 小さな木造アパートの一室は、まるで時間が固着したように静かだった。ただ、蝿の羽音だけが鼓膜を震わせる。

 死体から流れ出る血で、レストランのチラシが床に張り付いていた。よく見ると、何枚もチラシが落ちている。床に落ちたレストランのチラシは、場違いなほど華やかで、その鮮やかな色だけが、この部屋の死を嘲笑っているように見える。

 チラシを辿ってゆくと、チラシが円を描くように配置され、中央には一組のカップルの死体。互いに目をくり抜き合い、頭蓋骨を切り取り脳を喰っていた。その様子は常識を逸脱していた。

 彼らの姿は左右対称。鏡のように向かい合い、互いの姿勢をきれいに写していた。その均整は、異様であるのに、どこか彫刻のような静謐さを伴っていた。

 左手で互いの上腕を掴み、右手は長い刃渡りのナイフを握り、その刃は相手の眼窩を深々と貫いていた。彼らの遺体の後ろを回ってみると、ナイフは後頭部まで突き抜けていることがわかる。普通の人間が力だけでできるとは思えなかった。殺されたあとにこの形にされたのではないかとも考えたが、そのような形跡は見当たらなかった。つまり、超人的な精神力でもって痛みを我慢し、超人的な膂力でもってお互いの頭蓋を突き刺したのだ。

 それに、頭蓋骨が切り取られている。姿勢から見て、目を突き刺し合う前に切り取ったのだろうが、その状態で生きていられるのだろうか。よしんば生きていたとして、その状態からこうやって互いの目をくり抜き合うほどの戦いを繰り広げられるのだろうか。

 理解が出来ない。眼の前で起こっていることはシンプルなのに、全く理解が出来なかった。だからだろう、捜査一課はこの事件を投げた。こんな事ができるのは人間ではない。だからこそ、特殊犯罪対策室に丸投げされたのだ。文字通りの丸投げだ。

 背後に人の気配を感じて振り返ると、九条博士と量子だった。九条博士がこんなに早く現場に来るのは珍しい。彼は猫のような軽やかな足取りで死体の前まで来ると、死体の頭を覗き込んだ。流石というべきか、少しも臭いを気にしている様子はなかった。

「もう大丈夫か?」

「吐くものがなくなった」

 量子が青い顔で答えた。

 九条博士が遺体の首をビニール手袋をした手で掴み、頭蓋内部を覗く。ヒッヒッヒと喉を震わせた。

「これ、見たかい?」

 九条博士が頭蓋骨の中を指差す。特に蝿が集中して飛んでおり、うじも湧いていたのでよく見ていなかった。なんでそんなところを見なくてはいけないのかとさえ思った。しかし、彼の言う通り覗き込んでみて、灰原は息を止めた。

 黒い花が咲いていたのだ。

「それ……量子花弁」

 量子が素っ頓狂な声を上げた。意識世界で見たものとまったく同じものだ。現実に存在するなんて——。

 九条博士はなんのためらいもなく手を突っ込み、その花を引き抜いた。薔薇のように肉厚な黒い花弁で、薔薇のようにしっかりとした茎があるが、トゲも葉もない。ただ、茎の頭部に花弁が広がっておりその外側には萼(がく)もない。足の方は鋭く尖っており、まるで釘のようだった。手袋をしているので定かではないが、感触は植物のようだった。自分も言えたことではないが、鑑識も刑事もこれを見逃していたのか。

 九条博士は頭蓋内から見つかった黒い花を、窓から差し込む光に透かして見た。ゾッとするほど美しい。

「一体、これは何なんですか」

 臭いが強まった。灰原は顔をしかめながら九条博士に尋ねた。彼はヒッヒッヒと笑いながら、茎の根元の方を舐めた。灰原は吐きそうになるのを必死でこらえた。

「神経細胞の間から量子的に発芽した黒い花さ」

「はあ?」

 意味がわからなすぎて、思わず変な声を上げてしまった。

「ここが量子空間化したんだよ」と博士は自分の頭をトントンと指で叩く。

 説明には程遠い言葉。しかし、その一言だけで十分だった。灰原は、自分には到底理解できないものだと諦めがついた。

 ただ、一つだけわかったことがある。この部屋の死は、ふたりが自らの意識を“花弁”として散らす過程で起きたものなのだ。

 そしてその花はまだ枯れていない——黒いまま、微かに揺れていた。

「量子君。右目だけで見てみたまえ」

 九条博士に言われて、量子が左目を左手で覆った。

「あれ?」

 今までグロテスクだったはずの部屋が、美しい幾何学模様の祭壇に見えた。血だまりが美しい幾何学模様を描き、二人の死体が神聖な儀式を執り行っている彫刻のように輝いて見え、美しさに魅入られそうになる。慌てて左手を外すと、やはり部屋の中には死体。しかし、一度認識した祭壇は、左目をつぶらなくても見えるようになっていた。

 右目の視界には、神聖なる幾何学の祭壇。

 左目の視界には、蛆が湧く腐肉の山。

 相反する二つの世界の映像が脳内で衝突し、激しいゲシュタルト崩壊を引き起こす。先ほどまで感じていた凄惨な死臭への吐き気は、いつしか右目が捉える「完璧な対称性の美」への魅惑に麻痺させられつつあった。自分の中で、人間としての理性が溶けていくのがわかる。

 この部屋には説明のつかない対称性があった。そして、量子はそれが祭壇なのだと気づいた。

 一連の事件からなるこの黒い花、量子の花が開くとき、人間はこうした形で滅びるのかもしれない。

「見えたかい?」

 九条博士が探るような目で量子を窺う。その目は、これまでの九条博士とは違うように見えて量子はぎょっとした。戸惑いながら頷くと、九条博士は満足そうに笑った。

「美味そうだな……」

 鼓膜を疑うような低い声がした。

 量子が驚いて横を向くと、灰原が、抉り出された死体の頭蓋をじっと見つめながら、口の端から垂れそうになった涎を舌で舐め取っていた。「ゴクリ」と、灰原の喉仏が大きく上下する。

「え? 今、なんて言ったの?」

「今、なにか言ってたか?」

 灰原は、心底不思議そうな顔で量子を見返した。自分の発した言葉すら、意識の網目からこぼれ落ちているのだ。

 恐怖が量子の背筋を駆け上がった。思わず左目を覆い、観測者の右目だけで灰原を見て息を呑んだ。

 灰原の左頭部。銀色の機械脳の隙間に、黒いカビのような細い菌糸がびっしりと絡みつき、まるで意志を持つように脈打っていた。彼の脳髄は、すでに「何か」に内側から喰い破られようとしている。

 灰原がおかしくなっている。このままじゃ彼も死んでしまうのではないか。思えば、今日はずっと様子がおかしかった。もしかしたら、原因は昨日のレストランにあるのではないか。あの料理に何か仕込まれていたのではないだろうか。

 量子はいても立ってもいられず、現場から飛び出した。

「おい、どこへ行くんだ」

 灰原が声をかけるが、彼女には聞こえていなかった。

「まったく、若い女は何を考えているのかわからん」

 灰原がぼやく。

 改めて部屋の中に視線を移す。灯りが脳の断面に沿って揺れているように見えた。黒く重なる量子花弁は、死の静寂の中でわずかに脈打っている。九条博士はしゃがみ込み、光源をわずかに傾けて花弁の影を観察した。影は、普通ではありえない方向へ伸びていた。光源とは無関係に、第三の空間軸へ吸い込まれるように。

 灰原が息を呑む。

「博士、これはいったい……」

「面白いことになってきたねえ」

 九条博士は笑うだけで説明しない。ただ、花弁の影を指先でなぞりながら小さく呟く。

「やっぱり、咲くべき時に咲く。人は……味だけでは満たされないんだよ」

 その言葉には、まるで以前から結果を知っていたような響きがあった。

「味……? まさか、レストランで見つかった死体にも?」

 九条博士がニヤリと笑った。まるで、自分の研究が予定通り進んでいることを確認しているかのようだ。

 博士は立ち上がり、ライトを消す。花弁は闇の中でも輪郭を保ち、微光のようなものが辺りに滲んだ。

「説明は……まだ必要ないよ。観測が進めば、向こうから近づいてくる」

 ——向こう。

 誰に向かって言ったのか、灰原にはわからなかった。

「君、そろそろ冷却液を交換する時期だね」

 九条博士が灰原を見て言った。


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