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「うわっ、くさっ。なんなのよあんたたち。ヒスったり臭かったり。本当は警察じゃなくてあんたたちこそ不審者なんじゃないの」
リーが鼻をつまんで、灰原に露骨に嫌な顔を見せる。
「ここはレストランなんだからね。衛生面が大事なの。あんたも出て行きなさいよ」
虫でも追い払うみたいに、リーが手で灰原を追い払った。それでも話を聞こうとしたが、リーもサトーも口を開かなかった。灰原は昨日は料理で意識が曖昧だったせいか、サトーをどこかで見たことがあると思ったが、病院で出会った少女であることに気付いていなかった。マスクを付けているからでもあるし、ギャルソンのときは綺麗な格好をしているからでもある。それに、灰原は女性を見分ける能力が低かった。
「まあまあ。刑事さんも大変でしょう」
「うわっ」
灰原は思わず声を上げてしまった。トレイにグラスを乗せてやってきたのが、おかしな被り物をした男だったからだ。
「そんなに驚かなくても、ただの水ですよ」
被り物の男がトレイごとこちらに差し出す。驚いたのは水ではなく、その被り物である。
「大変失礼しました。こちらがソムリエのリー、後ろにいるのがギャルソンのサトーです」
サトーという名前に灰原は眉を上げたが、それでも記憶にある病院にいた少女とリンクしなかった。彼女はリーの後ろに隠れてほとんど顔が見えない。あんまり見ていると、リーが噛みつきそうな顔でこちらを睨みつけていることに気付いた。
「何見てるのよ、スケベ」
「お、俺は別に……お前の胸を見ているわけじゃ……」
「胸を見てたの!? 変態!」
リーがトレイからグラスを取り上げて灰原に投げつけた。
「これで臭いも少しはマシになったんじゃないの」
そう言うと、リーはサトーを連れて部屋から出ていった。
「スタッフが失礼なことを。申し訳ありません」
被り物の男がパリッとしたハンカチを取り出して拭こうとしたが、灰原は反射的に彼の手を払い除けてしまった。あわてて「あ、申し訳ない」と謝るが、被り物の男は特段怒った様子もなく、穏やかに言った。
「いいえ。こんな被り物をしている人間を信用しろという方が難しいでしょう」
自覚していたのか。
「私はこの店のオーナーシェフのドクター・アルゴンです」
「ドクター……?」
名前を聞いて、灰原は思わず身構えた。その様子を見てアルゴン博士が頭を抱える。
「はあ、あなたもですか」
量子と同じやりとりを灰原ともやったあと、アルゴン博士はうんざりしたように言う。
「誰かが、私の名前を騙って悪事を働いているようですね」
どう見ても、悪事を働くような見た目をしているのに——灰原は思ったが口には出さなかった。
今のところ、彼が数々の事件の首謀者であるというのは人づてに聞いたことでしかない。しかも、こんな特徴的な頭部を持つなんて誰からも聞いていないのだ。アルゴン博士のことを語るなら、まっさきにこのことを話すのではないか。
「ちょっと、その被り物を取ってもらえますか」
「被り物?」
アルゴン博士は首をひねった。
「だから、その仮面を」
「仮面?」
イライラした。警察を舐めやがって——灰原は先程から続くイライラのピークに達しようとしていた。頭を指でトントンと叩く。その指をピタリと止め、乱暴にアルゴン博士のペストマスクを掴むと、思い切り引っ張った。
「痛い痛い。なにするんですか。警察だからって犯人でもない人間に暴力を振るって良いと思ってるんですか」
不思議なことに、彼のマスクは皮膚に接着されたみたいに取り外せなかった。手応えが、本当に首から生えているものを引っ張っているようだった。
「どうなってる……?」
「それはこっちのセリフですよ。一体、日本の警察ってのはどうなってるんです。私はあなた方に紳士的に接してきたつもりなのに」
怒りをあらわにするアルゴン博士に、灰原はたじろいだ。
「す、すまない……。ではあなたは、五年前の黒百合町事件にも、先日旧市立病院で発生した連続飛び降り事件にも関与していないと?」
「ええ。疑うならこの店の防犯カメラでも、お店のお客様にでも聞いてくだすってよろしい。誰もが私の潔白を証明するでしょう」
胸を張って言う彼に嘘はなさそうだった。表情はわからなかったが。
「今日は別の事件のことでいらしたのだと思いましたが、違いますか? こんな馬鹿げた問答で無駄にする時間はおありですか?」
アルゴン博士のマスクから覗く真っ暗な目の穴に吸い込まれそうだった。
「そうでした……失礼しました」
灰原が事件の事実関係を尋ねると、警官から聞いた話と一致した。
「その客同士は知り合いでしたか?」
「いいえ。お互い直接の面識はないでしょう。お二人共、この店の常連のお客様でしたが」
「では、なぜその二人がこんな事件を起こしたのか心当たりはありますか?」
尋ねると、アルゴン博士は顎に手を当てた。
「さあ、ありませんね」
何かを隠している。直感的にそう感じた。しかしそれは自分の暴挙のせいで信頼を失ったせいだと灰原は反省した。
「今日のところはこれで。また伺いに来ます」
「営業中は遠慮してくださいね。でも、量子さんにはいつ来てもらってもいいと言っておいてくださいね」
灰原は答えなかった。口を開いたら、嫌味を発してしまいそうだった。代わりに頭を指でトントンと叩いた。
帰りの車の中でも灰原は不機嫌だった。それは露骨で、量子でさえ気まずい気持ちになった。昨日は旨い酒と料理を堪能して、あんなに機嫌が良かったのに、その反動みたいに、今日はちょっとしたことでイライラしてしまう。まるで、ニコチンが切れたときのように。
灰原は量子に断ることなくタバコをくわえた。
「ちょっと」
量子が抗議の声をあげる。灰原が目だけで量子を見る。
「タバコ」
言うと、灰原は舌打ちをして、そのままタバコを吐き出した。タバコは足元に落ちて見えなくなった。嫌なやつ、と心の中でつぶやいて量子は顔を窓の外に向けた。
灰原がイライラしている理由は、機械脳の冷却液の交換時期が近づいているためだったが、自身ではそれに気付いていなかった。原因は、先程の店の従業員であると考えていた。特にあのクァンタム・リーだ。嫌な女だ。これだから女は嫌なんだ、と心の中でつぶやいて量子の顔を盗み見る。灰原のイライラが伝染したかのように、量子まで不機嫌そうな顔をしている。話しかけるな、と全身で表しているように見える。
——これだから女は。
灰原はため息をついた。頭をトントンと指で叩いた。冷却液の流れる音が聞こえる。そういえば、今日は結局何も食べていないということを思い出した。
家に帰ってからも量子は混乱していた。やっと探し当てたと思った手がかりが間違っていたのだ。本当に、アルゴン博士は自分が探している白マスクではないのか。あの変な被り物で変装しているのではないのか。だが、彼女の直感が告げていた。アルゴン博士は、記憶の中の白マスクとは別人だ。それならば、白マスクというのは一体何者なのか。
自分の記憶が憎い。どうして、もっと鮮明に思い出せないのか。白いマスクと白衣だけは鮮明に覚えているのに、顔が見えない。一体、あれは誰なんだ。自分の記憶をダウンロードできたら良いのに、自分で自分の意識には入れないのがもどかしい。
考えているうちに夜は明け、もうすぐ昼になる。結局、眠れなかった。出勤する気にもならない。もう何を追えばよいのかわからない。
ふと、アルゴン博士の言葉を思い出す。
「私はあなたの味方です」
彼の声が耳元で聞こえたような気がした。
「君は何をやっているのかね」
レストランへ聞き込みに行った次の日の朝、灰原が出勤すると、部屋に入る前から電話の呼び出し音が聞こえていた。慌てて部屋の鍵を開けて机の電話を取ると、受話器の向こうから湿り気を帯びた嫌味な声が、絡みつくように耳を打った。それに加えて不機嫌そうな様子を隠そうともしない。誰も彼もが不機嫌でうんざりしてくる。
「は? どういう……」
「苦情が入っているんだよ。民間人を脅したそうじゃないか」
「脅したなんて、一体誰が……」
思い当たるのは、昨日訪れたレストランの従業員だ。リーの狡猾そうな顔を思い出す。それだけでイライラしてしまう。
「誰かなんてどうだっていいんだよ。問題はねぇ、君。君にあるんだよ。わかっているのかね、君。なあ、聞いてるか?」
握りしめた受話器がメキメキと音を立てる。
「申し訳ございません」
そのあと、警備局長が何を言っていたのか覚えていない。いつものように嫌味をたっぷり聞かされて、ようやく開放された頃には昼近くになっていた。
「それでねえ、要件なんだけど」
これだけ話してまだ要件に辿り着いてなかったのかと思うとうんざりした。
「また、昨日と同じ事件が起きたみたいなんだ」
「昨日と同じ、というとまたレストランで?」
「いや、そうじゃない。眼球と脳を損壊する事件だ」
損壊、などという言葉で済ますには生ぬるい状況だったのを思い出す。
またあれが起きたのか——信じられない。そんな異常なことが、立て続けに起きるとは思えない。やはり、あのレストランがなんらかの薬物をばら撒いてるに違いない。あんなふざけた奴らだ。必ず尻尾を掴んでやる。そもそも、なぜあいつらが引っ張られないのか不思議だ。立派な死体損壊、死体遺棄、証拠隠滅罪のはずなのに。
そのあといくらかのやりとりをして、灰原は受話器をおいた。
ふとソファに目をやった。今日はまだ量子が来ていない。壁を見上げる。無骨な壁掛け時計が蛍光灯の光で作った影を音もなく滑らせる。
量子が時間通りに来ないのはいつものことだが、何故か今日は胸騒ぎがした。なぜだか、もう来ないような気がした。携帯電話を取り出してコールするが、応答はなかった。昨日の今日だ。なにかあったのではないかと不審に思ったが、探すあてもない。とりあえずメッセージを入れておいた。現場の住所だ。事件が好きな彼女のことだ。きっとやってくるだろう。




